第45話 誘拐

 九月八日木曜日。金谷景は十八歳の誕生日を迎えた。

 ついに大人の仲間入りを果たした喜びを噛み締めながら、意気揚々と学校までの道のりを歩いていく。

 今日と明日の二日間は文化祭の準備のために授業が無く、来たる土日はいよいよ文化祭当日だという期待感も相まっていつもより足取りが軽い。


 学校に到着し、開放された扉から教室へ入ると、早くもクラスメイトの何人かががそれぞれ作業を始めていた。

 皆、持ち場に夢中なようで景が入ってきたことにすら気づいていない。気づいた何人かは景に向かって挨拶を投げかける。数日前とはえらい違いだった。

 先生による冤罪のアナウンスメントと文化祭への期待が高まった結果、既に皆、景のスキャンダラスな話題に興味を失っていた。

 全く。先生と文化祭には頭が上がらない。

 景はほっと胸を撫でおろすと、忙しなく動き回っており、こちらに気づいていない様子の直輝に声をかけにいく。


「おはよう直輝」

「おっす! あ! 景さ、春日井さん来てないんだけど何か知らねえ? メッセージ送っても全然返信帰ってこなくてよ。 寝坊してんのかな」

「そうなの? 何も聞いてないけど」


 直輝の言葉にぐるっと教室を見回してみるも確かに遥香はいなかった。

 彼女は文化祭クラス委員なので、本来ならばこの時間には既に登校していて、直輝のようにせかせかと働いているはずである。


「わかったー! 今行くからちょっと待ってくれー! わりい、ちょっと春日井さんと連絡とってみて、何かわかったら教えてくれ!」


 直輝は廊下から呼ぶ声に返事をする。体をそちらに向けつつ、振り向きざまに景に頼み事をして急いで駆けていった。

 だが、もはや景には彼の後ろ姿は見えていなかった。


 遥香が来ていない。


 誰よりも文化祭に情熱を注いできたのを傍で見てきた景には、遥香が単なる寝坊や遅刻をするようには到底思えなかった。嫌な予感が胸に広がっていく。


 まさか、事故か事件に巻き込まれたのでは。


 心配になって直輝に言われた通り、とりあえず連絡を取ろうとポケットから慌てて携帯電話を取り出す。

 携帯電話のメッセージアプリを開くと、昨日の晩に受け取った『明日は一番にお祝いするね!』というメッセージが履歴に残されており、景の不安を増長させる。


 景は迷うことなく受話器のマークへと指を滑らし、遥香に電話をかけた。

 数回の短い接続音の後、呼び出し音が鳴る。なかなか電話に出ない。携帯電話を持つ手に汗が滲む。滑って落とさないように握る手にしっかりと力を込める。無機質な呼び出し音が頭の中で鳴り響く。嫌な想像だけが膨らんでいった。


『……もしもし、景くん?』

「遥香っ! 大丈夫か! 今どこにいる!』


 ようやく電話がつながって、遥香の声が耳に届くと安堵に胸を撫で下ろすよりも先に叫んだ。


『今は家。ごめんね、心配かけて』


 遥香は自宅にいる。その事実に、事故などに巻き込まれていなくて良かったと、一安心する。安堵したのも束の間、今度は疑問が湧いてきた。


「いやこっちこそ大きい声出してごめん。どうしたの? 何かあった?」

『それが……』


 彼女は言葉に詰まる。景は静かに彼女の言葉を待った。やがてぽつりぽつりと話し始めたその声は震えていた。


『今朝プーちゃんの散歩に行こうとしたの、それで、玄関出た時に忘れも物に気づいて、リードを玄関のそばにあるポールのライトに引っ掛けてプーちゃんに待っててもらって』


 うぐっ、と涙で言葉が喉につっかえる。


『それで、それでね。すぐ戻ったんだけど、その時にはもうリードだけになってて、慌てて通りに出たら、誰かがプーちゃん抱えて走ってくのが見えて、追いかけようとしたけど、追いつけなくて、わたし……』


 すぐ隣にいるかの如く、涙に咽ぶ遥香の声が電話口から鮮明に聞こえてくる。


 誘拐。


 頭の中をその二文字が駆け巡った。


 プレーンが誘拐された。脳裏にくりっとした目で小首を傾げるプレーンの姿が蘇る。

 歯を食いしばる。血が沸々と沸き上がって身体中を巡り、体温が上昇していくのを感じた。


『うん』

「連れ去ったのはどんな奴だったの」


 熱くなる体温と相反して自分でも驚くほど冷たい声が口をついて出た。


『……たぶん、女の人だったと思う。黒い服で帽子被ってたんだけどポニーテール出てたし』

「……わかった。また後でかけ直す。俺が犯人見つけるから遥香は待ってて」


 そう言うと彼女の返事を待たずして電話を切る。

 ポニーテールの女。

 もちろん、全然関係ない可能性もある。むしろそう考えるのが自然だ。

 しかし、景はプレーンを誘拐した犯人がどうしても自分が知るその人物に思えてならなかった。

 証拠は何もない。だが、頭に血が昇っているせいか、論理性などどうでも良くなっていた。

 気づいた時にはもう走り出していた。

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