第43話 公園

「あっつー」


 景は額に汗を浮かべて天を仰ぐ。

 あまりの暑さに溶け出して、そのうち一体化するのではないかと心配になりながらも、木製の分厚いベンチへ体重の全てを預けていた。

 その様子を見て、遥香が微笑みを浮かべつつ景の感想に追随する。


「夕方になってもまだこの時期は暑いね」


 景と遥香が腰掛けるベンチの下、長く伸びた木陰で伏せているプレーンも舌を出して息を荒くしている。

 一夏を越えて、まだ若干のあどけなさが残りつつも、精悍な顔つきと凛々しさを円らな瞳に宿しており、しみじみと成長を感じる。景の視線を感じてプレーンが振り返り「レディに対してその評価はどうなのよ」と言わんばかりに、ふがっと鼻を鳴らした。


 二人と一匹は、すっかり馴染みとなっている公園へと足を運んでいた。

 八月も終わって明日から九月だというのに、依然として蒸し暑さは和らぐことなく太陽は猛威を奮っている。それでも、夕暮れ時には幾分かマシになるということで、初夏のようにプレーンを連れて乾涸びない程度に公園をぐるっと散歩しているのだ。


 公園は相変わらず蒼々とした木々が茂り、芝生の広場には子どもたちが遊ぶ声が飛び交っている。

 夏の間、うるさいくらいに木霊していた蝉たちの鳴き声は段々と数を減らしていき、今は緩急のついたひぐらしの甲高い鳴き声とさんざめく虫の声だけが寂しく重なり合っている。夕暮れ時のオレンジも相まって夏の終わりを殊更に感じた。


 隣では遥香が手持ちのクリーム色のシンプルなランチバッグからラベルのないペットボトルに入った水と、プラスチックでできた白い皿を取り出してプレーンの前に注いで置いていた。

 プレーンは待ってましたとばかりに水を舐め、その様子を見た遥香が「ゆっくり飲むんだよー」と微笑む。

 ベンチの背もたれに寄りかかっていた景は、ポニーテールから覗く汗が流れる彼女の首筋にどきっとして思わず目を逸らす。


 景と遥香は恋人として付き合っていた。

 どのような経緯でそうなったかといえば、夏休みに入ってからしばらくして彼女にデートに誘われ、映画を観た帰り道にどちらともなくそういう雰囲気になって、結果的に付き合うこととなっただけの話である。

 どこにでもある、ありふれた高校生男女の恋愛。

 最終的な決定打は景が放った形ではあるが、上手く彼を誘導し、告白させるに至ったのはひとえに遥香の努力の賜物と言えるだろう。

 こうして晴れて恋人同士となったわけであるが、以前と比べて大きく変わったことはなく、せいぜい並んで歩く二人の距離が少しだけ近くなった程度である。

 受験が控えていて時間も金もない高校三年生の夏はたまにプレーンを連れて散歩するか、近場で映画を観るか冷たいものを食べるかくらいなものであった。

 それでも、遥香は十二分に楽しそうにはしゃいでいたし、そんな彼女の姿を見て景も、いっそ時間が止まってしまえばいいのに、などと柄にもないロマンチックな思考で心が満たされていた。


「来週末はいよいよ文化祭だね」

「だね! でもその前に景くんのお誕生日だ」

「無事に迎えられるといいけど」

「もう! 不吉なこと言わないでよ!」


 おどけたように景は笑ったが、あながち不謹慎な冗談とも言い切れなかった。

 近頃、夏休みの初め頃から始まった下駄箱に入れられる悪戯のメモ紙の殺意が徐々に高まってきているのである。

 よくもまあ飽きずに夏休み中続けられるものだと、悪戯の主を呆れ半分、感心半分に称えるが、それでも得体の知れなさに薄気味悪く感じずにはいられなかった。

 先生に相談しようかと悩んだこともあったが、気色悪いだけで実害はなく、慣れてしまえばそれほど気にならなかったし、犯人探しに精を出すほど時間的余裕はなかったので結局そのままにしている。夏休みが終わってまだ続くようであれば一度相談してみようかと考えていた。


「十八歳かー」


 遥香は遠くの景色でも見るかのような目をする。

 彼女には嫌がらせの件について何も話していなかった。

 下手に心配させて、文化祭クラス委員として、また、受験生として多忙を極めている彼女の時間を奪うのも忍びなかった。今日だって久々に羽を伸ばしている。

 要領のいい遥香が忙殺された結果、いっぱいいっぱいになってしまうようなことは考えにくかったが、それでもあり得ないことではないので、なるべく負担を減らしてあげたい。景は慮れる彼氏なのだ。


 否、心の奥底ではそれを建前にして、遥香には自分の過去の過ちを話せない自分を正当化しようとしていた。

 やはり人間はすぐには変わらない。油断すればすぐに臆病な自分が腹の底から這い上がってきて喉を締め付ける。


 これでは失恋した直輝に申し訳が立たない、と現状を正直に吐露したが、彼は存外、「まあいいんじゃねえの」と気にしていない様子だった。

「おれはその人の全部を知りたいと思うけど、そうじゃない人もいるってわかったし」との言で、どうやらこの一ヶ月で心境の変化があったらしかった。

 恐らく原因は景が涼也にも自分の過去を打ち明けようとした際に、「待った。俺は別に興味ない」と一刀両断した事によるものだろう。

 涼也曰く、「過去にこだわるなんざ、彼女に経験人数を聞くくらいセンス無いな」らしい。その場に同席していた推定恋愛未経験の直輝が愕然としていたのが記憶に新しかった。


 しかし、隣の彼女はどうだろうか。

 過去など気にしないような強さを持っていそうだが、あくまで想像の域を出ず、内心は思い悩むかもしれない。その挙句、別れを告げられることもあり得なくは無いだろう。


 俺は遥香が好きだ。


 だからこそ、言えなかった。

 人間とは弱い生き物で、一度手にしたものがその手のからこぼれ落ちていくところを想像しただけでひどく恐怖を感じる。永遠に続く関係などこの世に存在しないのに、平気で恐怖から目を逸らして永遠を誓う。


 景もまたその一人だった。友達を得て、恋人を得て、安らぎを得ると同時にそれらを失う怖さにも付き纏われた。

 一度、踏み出すのを躊躇った足を再び上げるのは容易ではないのだ。


 微風が吹いてポニーテールがゆらゆらと魅惑的に揺れ、遥香は気持ちよさそうに目を細める。

 いつか。いつか、彼女に告白できる日は来るのだろうか。それともその前に愛想を尽かされてしまうだろうか。

 伸びていく影がやがてひとつの大きな影となる一日の終わりに、遥香が隣にいるのを確かめながら、夏が終わっていくのをただただ、眺めていた。

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