第42話 夏
明るく瑞々しい新緑の季節は過ぎ去って久しく、より蒼を深めた木々が鬱蒼と茂り、虫どもの盛り場と化している。著しく存在を主張する蝉の鳴き声によって、今が過ごしやすい季節などでなく、夏真っ盛りの亜熱帯であることを強く認識させられた。例え逞しい野犬であっても茹だってしまうような暑さだ。
景と直輝は高校の最寄り駅を出てすぐのこじんまりとした公園に寄っていた。
直輝は公園の隅にある木陰のベンチの背もたれに反対側から腰をかける。景はベンチの傍で立ったまま、彼の横顔を見ていた。
「それで? 話って何だよ」
普段の直輝とは異なり、景の顔すら見ずにふてぶてしい態度で刺々しく尋ねた。
景はその問いに対してすぐには答えず、揺れる蒼々とした木の葉を眺めながら、やがてぽつりと呟いた。
「ちょうどそのベンチだったよね。犬を見つけたの」
「……思い出話がしたいなら涼也とやってくれよ」
直輝は不機嫌そうに吐き捨てると、腰掛けていた背もたれから立ち上がり、尻を叩いて立ち去ろうとした。景は呼び止めるわけでもなく、淡々と話し続けた。
「それで、直輝が見捨てられないって言って学校に連れて行くことになった。結局、一旦は俺の家で預かることになって、遥香が引き取ることになったよね」
いよいよ直輝が無言で後ろ姿を見せて歩み始めようとする時、引き留める意味でも少し声を大きくして核心に触れる。
「あの時さ、本心では犬なんてどうでもいいって思ってたんじゃないの?」
「……何が言いたいんだよ」
公園の出入り口に向かう足を止めて直輝が振り返る。景を鋭く睨めつけてその真意を量ろうとしているようだった。
景は臆することなく語気に挑発を混ぜつつ、続ける。
「本当はただ遥香と話すきっかけが欲しくて、彼女に良く見られたくてプレーンを拾ったんじゃないのかってことだよ」
「違う!」
「違うの? じゃあ何でペット禁止も犬アレルギーも知ってた上で拾ったの? 自分で飼えなくても、他に飼い主が見つからなかったとしても、最終的に俺が飼ってくれると思った? それか最悪、保健所行きでも仕方ないって、そうなっても自分には関係ないって思ってた?」
直輝は表情を怒りの色に染め、肩を怒らせながらずいずいと景の元へと近づく。あわや殴られるか、と目を瞑ったが、彼は暴力には訴えず、怒気を噛み殺すよう言った。
「じゃあ見捨てれば良かったって言うのか?」
「そうは言ってないよ。けど、そう思われても仕方ないんじゃない? って。視察だとか言って遊びに行った時もそうだ。遥香に告白するって宣言して俺らに協力させておいたくせに、いざ失敗して結衣から俺と遥香の関係について聞いた途端、八つ当たりしてきただろ」
「あれは景が隠してたからだろ!」
「そうだよ。でも直輝だって遥香が好きだってこと隠して、犬拾ったり強引に遊びに誘ったりしたでしょ? 都合が良すぎるんだよ。俺にいろいろ押し付けて、利用しておいて、ちょっと気に入らなかったからって機嫌を損ねてさ、無視して」
直輝の顔から怒りの色が消え、瞳が哀しみに揺れた。力なく消え入りそうな声で呟く。
「……友達、だと思ってたからよ」
痛いほどの沈黙が体を突き刺した。
「……俺がプレーン預かることになった時さ、ラーメン奢るとか調子いい事言ってたの覚えてる? 結局そんなもんなんでしょ? その場限りの友情引っ提げて体良く利用してる」
「……違う」
瞳と瞳がそれぞれ相手を映して離れない。先に逸らしたのは景だった。火照った身体から熱を逃がすように大きく溜め息を吐く。
……ごめん。わかってる。わかっているんだ。直輝がそんな奴じゃないってことくらい。
心ではわかっていた。でも、その言葉は出ない。
二人の間に沈黙が流れる。油蝉の鳴き声がいやに大きく響いて、短くなっていく影と共に暑さを加速させていくようだった。
「俺がさ」
伏し目がちだった景の瞳が再び直輝の水晶体に反射する。
「中学の頃付き合ってた彼女を妊娠させたことがあるって言ったら、どうする?」
直輝の表情が驚きと困惑に満ちていく。
言うつもりは無かった。生涯心に秘めておこうと思っていた。
けれど、今の彼なら憧れの存在から引き摺り降ろせるような気がした。彼と一緒なら奈落にだろうと堕ちていけるような、そんな気分になって、つい口を突いて言葉が出てしまったのだ。
「もちろん俺の子だよ。無責任にそういうことした結果、妊娠した。本来ならあの時どうするか決断すべきだった。でも、俺はその責任から逃げ出したんだ」
告白してしまえばあっという間だった。堰を切ったように言葉が次から次へと言葉が溢れ出し、懺悔と言うにはあまりにも薄汚いそれは、神から赦しを施される代物には足り得なかった。
「どう? 俺がひた隠してた過去。直輝は嘘が嫌いみたいだから全部話したけど、聞けてよかった?」
直輝は言葉を失ったようだった。落ち込むわけでも怒り出すわけでもなく、黙々と景の独白に耳を傾けていたが、やがてその目が憐憫の情を映し出す。
違う。同情が欲しいんじゃない。
メッセージが届いたことを知らせる短い着信音がポケットから鳴る。
朝の登校する時間に送ってくる者はだいたい決まっていた。携帯電話を取り出して通知を確認するとやはり彼女だ。
景は名前と通知内容が表示されている画面をそのまま直輝の眼前に掲げた。
『春日井遥香』
『そういえばもうすぐ誕生日だったよね? ケーキ食べに行こうよケーキ! それかアイス!』
楽しげにくるくると笑う遥香の姿が目に浮かぶようなメッセージだった。
「俺を許せる?」
携帯電話の画面を振りながら自嘲気味に笑って言う。
直輝の表情に動揺の色が表れる。彼の双眸はその胸中を代弁するかの如く彷徨った。返答はない。
実際に遥香が景に対して好意を向けているところを目の当たりにし、先の景の告白と合わせて「お前は友情を取るか、恋愛を取るか、あるいは両方を捨てるか」という選択を喉元に突きつけられているのだから無理はなかった。
直輝の心の中で巻き起こる葛藤を余所に、景は穏やかに、どこか晴れ晴れとした気持ちで審判の時を待つ。
卑怯で残酷で唾棄すべき選択を迫られて直輝は何を答えるのか。
景は期待した。彼が自分を捨ててくれることを。そして再び遥香に想いを寄せることを。何の後腐れもなく次の新しい一歩へと踏み出していけることを。
価値のない自分が直輝の足枷になってはいけないと思った。もう二度と、誰かの傷を抉る存在にはなりたくなかった。
不意に寂しさを感じた。
本当は一緒に地の底まで落ちていきたかった。けれど、彼はそういう人間じゃない。自分のように汚くて浅ましくて狡くなどない、真っ直ぐで優しくて綺麗な心を持っている。
だから、いっそここで縁を切ってそれぞれ別の人生を歩んでいこうと思ったのだ。
先生に言わせればこれは『逃げ』かもしれないが、逃げ切る覚悟は出来ていた。そう決意しておきながら、直輝が友情を取る余地を残しているのは情けない話である。
だが、直輝への最初で最後の反抗として少しだけでも困らせることができるなら、それも悪くは無いと思えた。
彼はきっと自分を見捨ててくれるだろうから。その時に初めて自分で自分のことをすこしだけ許してやれるような気がした。
直輝は目を瞑って、やがて決心したように再び開く。景の目を一点に見つめた。
「おれはおまえみたいなクソ野郎に好きな人を取られるなんて我慢できねえ。だから諦めずに何度だって告白する」
良かった。直輝は選択にした。自分を切り捨てて遥香を取ることを。
景は安堵する。だが、それは酷く歪んでいて、寂しくて、倒錯した束の間の解放であることには気づけなかった。
「そっか、じゃあ、さよなら」
一抹の寂寥感を感じつつも、直輝に別れを告げる。
これでいいのだ、と自分に言い聞かせて彼に背を向けて歩み始める。
今この瞬間から同じ街、同じ学校、同じ教室にいてもただの他人となる。クラスメイトの枠からも外れた歪な他人に。
だが、そうはならなかった。
「でもおれは景とも仲良いままでいてえよ!」
背中に受けた声に驚いて振り返る。直輝が肩で息をしながら口を開く。
「おれは小せぇ奴だから景と春日井さんが仲良かったって知って不貞腐れたし、昔のこと聞いて正直どう接したらいいかわかんねえ、わかんねえよ」
掠れた声で振り絞る。
「けどよ、おれの知ってる景はそんなことする奴じゃないし、めっちゃ良い奴だし、春日井さんとの仲を黙ってたのも悪気はないってわかってるし、無責任に逃げたのだって今でも後悔してんだろ?」
「違うんだよ! 俺は良い奴に見えるようにしてただけで良い奴でも何でもないんだ。むしろ屑だ。怖くて怯えてただけの屑。屑が後悔したところで屑に変わりないんだよ」
「だぁーー! くずくずうるせえ! くそっ! もう頭ん中ぐちゃぐちゃでわけわからん!」
言葉の応酬に直輝が頭を掻き毟る。景は困惑した。
どうにか彼は頭の中を整理して結論を導き出したらしく、景に向かって静かに宣言した。
「とにかく、お前はクソ野郎で許せねえけど、でも今までの関係を全部無かったことにして絶交できるほど割り切れないし、そんなクソ野郎におれはなりたくねえ。景がどう思ってたかはわかんねえけど、少なくともおれは親友だと思ってたし、これからも遊びに行きてえって思ってるよ……」
景は戸惑いを隠しきれなかった。自分にそんな価値があるのか、と。逆の立場なら理解できる。自分が直輝に絶交しないでくれ、と懇願するのなら。
直輝は太陽のように明るく皆を照らし、光線の如く真っ直ぐ行くべき道を進んでいく。
もちろん向こう見ずで行き当たりばったりだったり、考えが短絡的だったりなど、いくつかの欠点はあるが、それを補っても余りあるほど人間的に魅力に溢れている。
それに比べて自分はどうか。
人の顔色ばかり窺い、友達はおろか自分にでさえ嘘を吐いて生きている。良いところと言えばせいぜいイエスマンであるところだろうか。それさえもはっきり断ることが出来ない流されやすい性格と言われればそれまでだ。
長所よりも短所の方が目立ち、恋人を傷つけてそのまま逃げ出した過去の持ち主で、あまつさえ、それを刃として友達をも傷つけるような人間である。
控えめに言っても地獄に堕ちるべき最低な人間だった。
それでも。それでも、彼はまだ友達として扱ってくれると言うのだろうか。
自分を認めてくれると言うのだろうか。
視界がぼやける。自らも知らぬ間に涙を流していた。
手で拭っても拭っても堰を切ったように溢れ出してとめどない。頬を伝った雫は地面に落ちて元には戻らない。
「あれ。おかしいな俺、何で泣いてるんだろ」
おどけたように景は言ったが、涙を我慢することもかなわず、最後には鼻水を垂らし、咽び、声をあげて顔をぐちゃぐちゃにしながら小さい子どものように泣きじゃくった。
直輝は景が落ち着くまで静かにその様子を見守っていた。景が濡れた頬と赤くした目を拭いながら照れくさそうにはにかむと、直輝が真剣な顔つきで謝った。
「悪かった」
何に対して謝ったのかは判然としない。だが、彼も彼なりに思うところがあったのだと思う。自分が彼に対してそうであるように。
「俺の方こそごめん、いろいろ。……これからもよろしく」
景は伏し目がちに謝罪を口にする。最後の方は直輝に届くかわからないほどに小さく呟いた。
照れていたわけではなく、ただ、不安だった。
直輝は景の不安を正面から吹き飛ばすように「おう」と強く腹に響く返事をして、はにかむように笑った。
それを見た景も胸の痞えが下り、憑き物が落ちたように自然な優しい微笑みが零れ落ちる。
無邪気で優しくて、少し照れくさい笑みを交わした後、どちらともなく学校の方へと足を向ける。
まだ時間が少し早く、誰も生徒が見当たらない通学路を、普段と同じように二人並んで歩いていく。いつもとは違って言葉はない。でも、いつも以上に温かい安らぎに満ち満ちていた。
昨日よりも一段と輝く太陽が燦々とアスファルトの地面を照らしている。街路樹は影を落として暑さに耐えかねる野良猫の憩いの場となり、涼やかな風が蒸した空気を運び去っていく。
夏の匂いがした。むせ返るほど濃い生命の匂い。
その中に曝されていると自分の存在が、居場所がわからなくなりそうだった。でも今は隣を歩く友人がいる。学校で待っている友人がいる。そして恋に焦がれ、惹かれ合う友人もいる。
しっかりと地を踏みしめ、大きく息を吸う。
今年の夏は去年までよりも一層暑い夏になる予感がした。
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