第40話 静かな熱
……い。……なや! …………おい!
遠くから誰かが自分を呼ぶ声が聞こえてくる。
微睡みの中、無意識にベッドの横に置かれているはずの目覚まし時計を探して辺りをまさぐる。しかし、目的のそれがなかなか手に当たらず、鬱陶しさから段々と意識が浮上し始める。
昔のことを夢に見ていた気がする。
酷く辛く苦しい、絶望的な夢だったような。
細かい部分は思い出せないが、絶望に染まった彼女の顔だけが脳裏にこびり付いている。実際には見ていない立ち尽くした彼女の姿が。
「起きろ! 金谷!」
肩を叩く涼也の声ではっきりと覚醒した。同時に夢を見ていたことなど、綺麗さっぱり頭の中から消えて無くなる。
上体を起こして目を擦ると指が濡れていた。
欠伸もしていないのに涙が出ていることを不思議に思ったが、覚醒し切っていない頭では気に留めるほどのことでもなかった。
寝ぼけ眼で辺りを見渡すと自分が暗い箱の中に押し込められていることに気づく。ここはどこだ、と疑問に思うも、すぐさまテントの中であることを思い出す。
昨日、涼也に連れられてバイクで遥々どこかの海までやってきたのだ。
「やっと起きたか。ほら、早く出てこい」
その彼は外にいてテントの出入り口から、ちょうど暖簾に手を当てて大将に「やってる?」とでも言いそうな格好で中を覗き込んでいる。
「何? もう出発なの?」
景としては眠さが限界を迎えているため、早々に店仕舞いして二度寝に洒落込みたいところだったが、諦めてのそのそとテントから這い出る。
一瞬、眩しさを感じて目を瞑るが間も無く慣れ、直後、眼前に広がる光景に寝ぼけ眼が見開かれる。
それは今まさに、太陽が水平の彼方より昇って来んとする瞬間だった。
藍の夜が黄金で塗りつぶされていく。
暗い世界を切り裂くが如く、光の筋が放射状に伸びていき、景の遥か頭上を行く雲を照らした。
眼下には、神々しい黄金の道が白波の間を縫って、水平線に浮かぶ太陽の元まで続いていた。
日毎、繰り返される夜明け。
黄金色の太陽が普段と変わらない景色を見せているだけなのに、どうしても一時の、二度と起きない奇跡的な瞬間に思えてならなかった。
嘆息が漏れる。
今まで沈んでいく夕日は数多く見てきた。しかし、睡魔に勝てず新年の初日の出を見る習慣のない家に生まれた景は、水平線から太陽が顔を出す始終を目の当たりにした経験がなかった。
十七年と十ヶ月という短い人生の中で積み重ねた記憶の限り、初めて一日が始まる瞬間を目撃したのだった。
「すごい」
「ああ」
「……朝日を見るためにわざわざここまで?」
「そうだ」
景は涼也に対して、馬鹿だな、と呆れた。だが決して馬鹿にすることは出来なかった。
彼が誘ってくれていなければ、あと数年、もしかすると数十年先も夜明けの瞬間を見ることはなかったのかもしれないのだから。
この光景を見るためならば、深夜にバイクで駆け抜けるのも悪くはない。むしろ、こんな経験、二度とする機会は無いだろうから、もっと噛み締めておくべきだったとほんの少しだけ悔む。
帰りのバイクではは流れていく景色に目を向けようと心に決めていると、隣で胡座をかいている涼也がにやっとニヒルな笑いを浮かべて言う。
「学校の奴らが一人も見てない朝日を一番乗りで見るって最高に興奮するだろ」
興奮の意味は理解し難かったが、確かに優越感はあった。
だが、心を占めるのはじんわりと温かい感嘆と郷愁であり、それを興奮などと一緒にされるのも癪だったので、素直に共感は出来かねた。かわりにいつだったかの意趣返しを思いつく。
「変態だね」
景が横目でにやっと笑うと、涼也は「ああ、そうだが」と当たり前の常識を答えるかのように肩を竦めた。
どうやら全くダメージを受けていないらしい。
景がつまらなそうに視線を朝日へ戻すと右からカウンターパンチが飛んでくる。
「脚大好きくんには負けるがな」
ぐぬ、と言葉に詰まってしまう。
何を返そうにも墓穴を掘りそうであることに加えて、涼也のしてやったりという顔がむかついたので、物理的に彼の二の腕にパンチを入れてやる。しかし、分厚い筋肉の装甲を持つ涼也には屁でもないらしく、鼻で笑われた。
彼の上手をいくのは当分難しそうだった。
苦々しい思いを噛み締めていると、先日、結衣を持ち出した際に涼也が怯んだのを思い出す。彼女は涼也に対するリーサルウェポンになり得るかもしれない、と暗い笑みを浮かべて一人悪巧みに没頭していると、予想だにしない横槍が入った。
「お前ってモテるよな」
「……急に何?」
唐突にかけられる何の脈絡も無い涼也の言葉に景は訝しんだ。
「お前って優しくする割にどこか冷めていて、奥平とか成瀬みたいな明るい奴といるくせに落ち着いていて余裕がある。でもその余裕の裏には影があるって言うか、諦めてるが故の余裕と言えばいいのか。そういう変な大人っぽさに魅力を感じるんだろうな」
「それ褒めてるの?」
「いや、褒めてはないな。むしろ俺は辛気臭い面してる奴だと思ってる。最近は特に」
最近は特に。
問いかけるような涼也の目には有無を言わせない厳しさがあった。
直輝との仲違いか、遥香との関係か、それとも梨花との過去か。あるいはその全てかもしれない。
追及を逃れたくて、つい目を逸らす。そんな景の態度に涼也は怒るでも呆れるでもなく、笑った。
「嘘吐きのくせに嘘吐くの下手だよな、金谷」
「……そう? そういう涼也だって直輝に俺の遥香のこと知らないって嘘吐いたじゃん。どうせ成瀬さんから何か聞いてたんでしょ?」
「まあな。正直に言ってもややこしくなるだけだからな」
悪びれる様子も無く、事も無げに言ってのける。
ここまであっけらかんとしていると責めるこちらが虚しくなる。だが、むざむざ文句を言うチャンスを逃すのも勿体なかったので皮肉っぽく返すことにした。
「涼也は堂々としているように見えて結構狡いよね」
「そうだな」
景の物言いにも動じることなく、気にも留めていなさそうだった。飄々と返す涼也の横顔を恨めしく思っていると彼が口を開いた。
「何でもかんでも馬鹿正直に清廉潔白である必要なんざない。相手が友達だろうと、家族だろうと嘘をついて関係が上手くいくならそれでもいいと思ってる」
だがな、と一呼吸おいて涼也は続ける。
「自分でついた嘘に自分が苦しんでたら意味はないだろ?」
誰のことを言及しているかは明白だった。
「好きなんじゃないのか、春日井のことを」
涼也の目に射抜かれて、好きじゃないときっぱり言い切れなかった。
今まで散々否定し続けた挙句、この様であるから笑えない。だが、それでも口だけでは否定しなければならない理由が景にはあった。
黒髪を風に靡かせる少女の姿が思い浮かぶ。
例え、どんなに遥香に想いを寄せられようと、寄せようとも決して踏み越えてはならない一線があるのだ。
それがせめてもの償いであり贖いであり、自戒だった。
故にはっきりと否定する、
「……嫌いじゃない、かも」
はずだった。
口を突いて出た言葉には驚かない。景も、涼也も。
否定出来なかったのは何故か。
爽やかな朝のさざめく波音と新しい太陽の眩しさ。潮風が頬を撫でつけて遥か頭上に浮かぶ雲を運んで行く。
大自然の雄大さに魅せられてしまったからだろうか。
世界はこんなにも嘘偽りなく廻っているのに、虚偽と欺瞞に塗れた自分がいることに嫌気が差したのかもしれない。あるいは、もっと単純に寝不足の頭には少々難しい質問だったからかもしれない。
だが、そのどれもが言い訳に過ぎず、本当は心に浮かんだ彼女の笑顔に嘘を吐くのが躊躇われたという可笑しな理由だった。
それは、決して、許されないことである。
相反する二つの感情に苛まれる景の内心など露知らず、涼也は簡単に言う。
「奥平にも素直にそう言えばいい。嘘を吐きたくないならな」
景は声を出さずに小さく、確かに頷いた。
だが、それは肯定を意味したのではなく、静かな決意によるものだった。
直輝と顔を突き合わせて話そう。これまでのこととこれからのことを。自分の全てを曝け出してしまおう。その結果、関係が終わって二度と修復が不可能となったとしても。
それが、彼に対するせめてもの誠意というものではないだろうか。仮にまた自分を騙すことになろうとも。
それはそれとして、人にだけ告白させておいて、自分は高みの見物を決め込んでいるのはどうにも気に食わない。
彼には前科もある。遥々ここまで連れて来てもらい、背中を押してもらった恩人に違いないのだが、どうしても反発したくなる。それが景の心に潜んだ天邪鬼な性質だった。
「さっき嘘を吐いても構わないって言ってたけど、俺にも嘘吐いたことあるんだね」
首を振って肩を落とし、わざとらしく溜め息を吐いて嘆く。ふりをした。
俯いて、横の涼也を盗み見ると、目が合って表情が邪悪な笑顔に染まっていく。
「ああ、あるな」
「どんな?」
「金谷と奥平が犬拾ってきた朝あったろ。あの時、俺は二匹犬を飼ってるって言ったが、あれは嘘だ」
涼也の告白を聞いて呆気に取られた。絶句する景を置いてけぼりにして相変わらずのにやけ顔で涼也が続ける。
「もっと言えば、あの時お前、俺の姉貴についていろいろ聞いてきたろ? あれも全部嘘だ。というかそもそも姉貴なんかいない。兄貴だけだ」
言葉を失い、口をぱくぱく開いたり閉じたりしている景の様子を見て、涼也は満足気に笑った。
涼也の豪快な笑い声にどうにか正気を保った景は、湧き上がる疑問をそのまま、笑い続ける彼にぶつけた。
「なんでわざわざそんな嘘を?」
信じられないものでも見たような景に、何を当たり前のことを尋ねるのだという調子で涼也は答える。
「そりゃお前、意味の無い嘘を吐くのに意味があるからだろ。さっきの金谷の顔、あれを見られただけでほら吹いた甲斐があったってもんだ」
自分で言って思い出したのか、くくっ、と笑いを堪えきれずにいる。
散々笑われ、愉快なおもちゃにでもなったような感覚に陥ったが、不思議と不愉快ではなかった。むしろ、世の中には当然、自分と全然異なる価値観を持つ人がいて、隣で笑う友達でさえも一生わかり得ない可能性があることに清々しさを感じた。
きっと彼にとっても、自分が当たり前だと思っていたり、信条として掲げていたりする価値観が全く通用しない場面が多々あるに違いない。
例えば、女性に魅力を感じるポイントとして選択肢外から脚を挙げる酔狂な奴に相対した時。それを思えば彼のしつこさにも頷けた。自分には無い価値観が珍しかったのだろう。
皆、それぞれ少しずつ、あるいは正反対に異なっていたり、ぴったり重なり合ったりしてこの世界は形作られている。
世界は汀のように絶えず変化していく掴みどころのないものかもしれないし、水平線のように不変で安定しているけれど、手を伸ばしても決して届かないものかもしれない。
それは美しい。けれど残酷だ。
人は誰しも他人を理解できないし、他人からも理解されない。血のつながりがあったとしても。
自分だって自分自身を理解できているか怪しいのだから、人が本当の意味で分かり合うことなんて出来るわけがないのだ。
だから、ぶつかったり、語り合ったりして互いを理解した気になって、友情やら愛情やらを育もうとする。目には見えない不定形で不安定なものに縋って寂しさを紛らわそうとするのだ。
結局、人は最期の瞬間まで独りきりだ。
でも、その傍で同じものを見て、食べて、笑ってくれる人がいるならばきっと生きていける。
すっかり太陽は宙に浮いて、その輝きを増している。
隣に腰掛けている涼也は何を思って朝日を見ているのだろう。
願わくは同じ感想を抱いていてほしい。全く同じでなくとも構わない。ほんの少しでも重なる部分があれば、二人の人生は一瞬交差していると言えるのだから。
景は、次第に肌をじりじりと照らし始める太陽と、咽ぶような潮風、そして一定の間隔で引いては寄せる波音を聞きながら、静かに、今は遠く離れている者どもへの熱い思いを募らせていくのであった。
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