第39話 過ち
『景。私、赤ん坊ができてしまったみたいなの』
言葉は十分すぎるほどに耳に届いたが、その意味を理解するのに数秒かかった。
否、頭では理解していたが、それを認めたくない自分がいたのだ。
秋の夕暮れ。すっかり冷たくなった風が頬を撫でる。カラスの鳴く声が物悲しい。
性質の悪い冗談であって欲しかった。
だが、紺のセーラー服に身を包んだ自分よりも少し背丈の低い黒髪の彼女が、そういう類の冗談を言うような性格ではないことを他でもない自分自身が一番よく知っていた。
頭が真っ白になる。顔面から血の気が失せていくのを感じ、くらくらした。
目の前の彼女にもそれが伝わったに違いない。彼女は今にも泣きそうな顔をしながら、震える声で助けを懇願するかの如く、言葉を続けた。
『私、どう、したらいいのかしら』
何も答えられなかった。どうすればいいのかもわからなかった。彼女と肌を重ねた事実に間違いはなかった。
だが、こんなにも簡単に、あっさりと彼女が妊娠するなど、考えてもみなかった。
たった一度。
たったの一度の過ちで彼女との関係が一変した。
怖かった。恐ろしかった。信じたくなかった。目を背けた。後悔した。
…………ごめん。
全身から絞り出してようやく形作った一言と彼女をその場に残して、去った。逃げた。逃げ出した。
秋口の薄暗い公園を飛び出す。
呼び止められはしなかった。
俯いたまま彼女の横を通り過ぎたので、最後、彼女がどんな顔をしていたのかはわからない。
怒っていただろうか。憎んだだろうか。それとも悲しみに暮れていただろうか。
あるいは、ただただ、絶望に打ちひしがれて呆然と立ち尽くしていたのかもしれない。
道行く景色の流れは速くなっていく。いつしか走り出していた。
脇目も振らず全力で足を動かす。通学鞄が暴れ、学ランが擦れる。肺が痛い。喉が裂けそうになる。足も重さを増していく。苦しい。息ができない。それでも走るのをやめなかった。止まった瞬間、口を大きく開けた恐怖に呑み込まれる気がした。
もっと速く。もっと遠くへ。もっと。もっと、もっと。
気がつくと家の前まで来ていた。玄関を勢いよく開け、靴を脱ぎ捨てて階段を駆け上がる。二階の自分の部屋へ飛び込み、すぐに乱暴にドアを閉めた。
大きな音が反響し、やがて訪れる静寂。
荒い息遣いが生きている実感をもらたしてくれる。
息が上がって酸素をうまく取り込めない。苦しくて吐きそうだった。ドアに背を預けて膝から崩れ落ちるようにへたり込む。そして、項垂れた。
とんでもないことをしでかしてしまったという、焦りと後悔、絶望がごちゃ混ぜになって腹の底から這い上がってくる。
喉元にまでせり上がった感情は、溢れ出し、意味を持たない呻き声となって静かな部屋に虚しく響き渡った。
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