第38話 夜の海

 深夜のツーリングはそれから二回程休憩を挟み、無事目的地へと到着した。

 目的地、と言えど、遠くの方に申し訳程度の街灯があるだけで辺りは暗く、いったいここがどこなのか、景には皆目見当もつかなかった。

 一つわかるとすれば、波が押寄せる音が辺りに轟いているので、海の近くであるということだ。

 潮の香りも鼻をくすぐる。今夜は月も出ていない。宵闇に紛れ、海の姿も見えない。きっと、星の有無を分ける、あの境界が水平線なのだろう。

 時々、星の光を反射してきらりと波打ち際と思しき白波が顔を見せる。


 景は存在をきちんと目視できない大いなる海原に大地とは異なる畏怖のような空恐ろしさを感じた。少しでも気を抜けば、忽ち呑み込まれてしまいそうで落ち着かない。足に全ての意識を向けて地を踏みしめる。


 暗くてはっきりと見えないが、涼也は何やら大層な荷物を抱えて砂浜へ続く、年季の入ったのコンクリートの階段を降りていったようだ。

 景も彼の後に続いて階段を降りていき、ふかふかとした砂浜へと無事に着地した。


 日付が変わって午前二時過ぎ。

 深い闇夜のカーテンがかかり、むせ返るような濃い潮の香りと、腹に響く波の轟音に息苦しさを覚える。

 上を向くと、色とりどり明暗千々に煌めく星空が、彼方の水平線を浮かび上がらせていた。

 昨日までの世界とはまるで違う世界に迷い込んでしまったかのような奇妙な感覚に襲われる。普段見る自分の住む街の人工的な光景からあまりにもかけ離れた大自然薫る雄大な景色に、常ならぬ非日常を感じるのも無理な話ではなかった。


 しばしば、絶景を臨んで人生観が変わっただとか、自分の悩みの矮小さを思い知らされるなどと嘯く者がいるが、そうではない。

 切り離されるのだ。現実からすっぽりと。

 ここにあるのは非日常で、現実離れした言わば夢みたいなものだ。夢の中では現実を思い出せないし、思い出そうともしない。

 人は無情なる現実世界を忘れて、泡沫の夢へと逃げるために絶景を求めるのだと、目の前に広がる光景を目の当たりにして思った。


「すげえよな」

「……うん」


 涼也に同意する。

 だが、共感を促した本人は隣でごそごそと衣擦れのような音をさせて、せっせと手を動かしていた。

 この景色をまともに見もせずにいったい何をしているのかと目を凝らすと、突如、眼前に艶のある布が張り上がった。驚いてのけぞりつつ、全体を視界に入れるとそれはテントだということが判明した。


「涼也、これ……うわっぷふ」


 涼也にまさか今日はここで寝るつもりかと尋ねようとテントの反対側を覗くと、影から柔らかい何かが飛んできて、景の顔面に直撃する。

 痛くはなかったものの、文字通り面食らった。

 無事目標を捉えて下に落ちた飛翔体は筒状のクッションのようだった。外側が袋状になっていたので、紐が垂れている部分から中を確認できないか、あれこれ試行錯誤していると、見かねた涼也が中身を教えてくれた。


「寝袋だ」

「寝袋?」

「今日はこの中で寝る。明日は早い」


 彼は素っ気なく言い放つとそそくさとテントの中へと入っていってしまった。

 景は人生初のキャンプがランタンもチェアも無い、簡易的なテントの中で蹲って夜を越すだけだなんて、情緒もへったくれも無くてあんまりだと嘆いた。

 だが、文句を垂れたところで焚き火台やステンレス製のマグは出てきやしない。詮無く、早々に諦めて既に寝袋にくるまっている涼也の隣に並ぶことにした。


 波の音を遠くに聞きながら狭いテントの天井をぼーっと見つめる。ふと、ある懸念が思い浮かんだ。


「……これ波に攫われて気づいたら三途の川渡ってるとか無いよね?」

「ふっ、大丈夫だ。天気予報は確認している」

「ならいいけど……」


 景の納得いっていないような口ぶりに涼也は、

「安心しろ。波には一緒に攫われてやる」

 と。

 いったいどこに安心出来る要素があるのか。周りを見渡しても全く見当たらない。

 本当に海水がすぐそこまで迫っているかもしれない、と悪い想像ばかりが膨らみ、どんどん目が冴えていく。


 そんな景の心配を余所に、早くも右隣から規則的な寝息が聞こえてきていた。

 涼也の奔放さに思わず溜め息が漏れるが、彼を責めることはできなかった。

 休憩含めて三時間半もバイクを運転していれば、誰だって疲れるに決まっている。涼也の後ろに跨っていただけの景であっても全身を疲労が包んでいたのだから。


 大きな欠伸を一つする。睡魔の足音がすぐ側まで近づいてきているのを、段々重くなっていく瞼に感じつつ、つい数時間前まで歩いていた自分の街に思いを馳せた。

 随分遠くまで来てしまったような気がして、懐かしさを覚える。


 不思議だった。

 ほんの少し前まで自分はあの街にいて、本来ならば今頃すっかり夢の中にいる時間であるはずなのに、浜辺で友達と二人、狭いテントに身を寄せあっている。

 あまりに浮世離れしていて、それこそ実は夢の中に迷い込んでしまったのではないかと疑うくらいだった。


 星空を思い出す。

 景は、ここまで連れてきてくれた涼也には何だかんだ感謝していた。あの光景は、自分一人では決して目にすることが出来ないものだったのだから。


 彼は確か、明日も朝早いと言っていた。これから何をするか、この先どうなるかなど微塵も知り得ない。だが、それは明日の自分任せでいい。


 少しだけ楽観的になった景は、何が起こるかわからない明日を楽しみにする感覚はいつ以来だったろうか、と目を閉じて考えた。

 過去への時間旅行へと出発する。程なくして意識の輪郭が曖昧になり始め、景は深い眠りへと落ちていった。

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