第36話 強盗、あるいは誘拐か。

 日が暮れる前に学校を後にし、予備校へと足を運んだ。

 地に足ついた将来を得るべく、その一歩たる大学受験の成功を祈って今日も身の入らない勉強に時間を割く。

 学校から学校へと梯子旅をしているようなものだが、予備校には居心地の悪い教室も、灼熱の中庭も無い。整然と並んだ机と同じ高校三年生という共通点だけを持ち寄った名前も知らない他人がいるのみである。


 一聞すると退屈な印象だが、彼らとともに偉そうに講釈垂れる講師の講座をだらだらと聞くのは心を整えるいい機会になった。一コマ九十分が終了すれば、すぐに自習室へと直行し、復習やら過去問やらを解いて時間を潰す。


 普段は一、二時間程度、キリのいいところまで解いたら帰り支度をすることが多いが、今日は退館時間ギリギリまで居残って自習していた。

 特段、気合を入れて励んでいたわけではない。ただ、何かしら作業をしていないと日中の出来事を思い返して気落ちしそうだったので、大学受験にかこつけて都合よく勉強を利用しただけだった。


 退館を促す音楽を背中に、エントランスへ続く階段を降りていく。

 入った時は明るく往来が絶えなかった自動ドアの外の景色は、既に暗闇に呑まれていて、鏡になったガラスが疲れた顔の自分を映し出していた。

 意識すると一気に疲れが押し寄せてくる。帰ったら即座に風呂に入ってそのままベッドに倒れ込もうと、足を引き摺るようにして前へと進んだ。


 冷めた機械音と共に自動ドアが開いて、目の前から疲労困憊の自分の姿が消えると、代わりにフルフェイスのヘルメットを被った黒いジャケット姿の大柄な男が仁王立ちで現れた。

 景は驚きと恐怖で心停止しかけ、声すら出せなかった。


 強盗、あるいは誘拐か。いずれにせよ、殺られる――。


 頭が働く前に本能が直接身に迫る危険を訴えている。

 とりあえずこの場から逃げ出すべく踵を返そうとした時、男に腕を掴まれた。

 人質、の二文字が頭の中を支配する。

 そのまま強引に建物の陰まで引っ張られ、男がこちらに向き直った。

 男が手を振り上げたため、景は殴られると思って目を瞑る。だが一向に武器も拳も飛んでくる気配がしなかった。

 恐る恐る目を開けた先にいたのは、黒いジャケット姿にフルフェイスヘルメットを脇に抱えた景のよく知る人物。


「……涼也?」

「おう、悪いな驚かせて」


 悪いなという割には全然申しわけなさそうにしていない。

 彼は相変わらずの無愛想な表情で佇んでいた。

 呆気に取られたのも束の間、何故ここに、という当然の疑問が湧く。

 こんな夜中にわざわざ予備校の前で自分を待っていたのだろうか。

 再度、涼也の銀行強盗の一つや二つやってきたかのような格好を見て、いつ通報されてもおかしくなかったのではと心配になる。


「じゃあ行くか」

「待って、どこに?」


 立ち止まった涼也は、景の質問に答える代わりに親指を立てて自分の背後を指し、顎で景に視線を移すように指示した。

 景は困惑しつつも指示通りに彼の背後を覗き込む。そして三度みたび、驚く。


 そこにあったのは赤と黒のカラーリングが施された無骨な車体に重厚感のあるホイールが目を引く、どっしりと玉座に鎮座するかのように置かれた中型バイクだった。

 景は突然バイクを見せられ、目を白黒させながら涼也に向き直る。

 まさか、自分のバイクだとでも言うのだろうか。涼也は景の反応に満足したのかその格好に合ったニヒルな笑いを浮かべて「驚いたか」と言った。



 爽やかにエンジン音を唸らせて真夜中の道路を疾走する。

 バイクで疾駆するのは爽快なイメージがあったが実際はそうでもなかった。

 生身の体一つで高速で走るバイクに跨るというのは思っていた以上に心もとなく、吹き抜ける風とカーブに振り落とされないように運転している涼也の背中に必死にしがみついていた。

 夜景を楽しむ余裕もない。おまけに貸してもらったフルフェイスヘルメットと彼の着ていたジャケットを羽織っているせいで、蒸し風呂状態となり、清々しさとは対極の位置にいるといっても過言ではなかった。

 だが、暑さに身じろぎ一つしようものなら、忽ち振り落とされて道端の潰れた虫のような結末を辿ってしまう。

 当然、そんな最期は御免だったのでじっと堪える。景は早くも何故自分はバイクへの乗車をもっと激しく拒否しなかったのだ、と後悔し始めていた。


 当初、涼也にバイクに乗って出かけると誘われた時、景は迷うことなく辞退した。

 もう時計は二十二時を回っていて夜遅いし、疲れていたし、二人乗りは危ない。そもそもバイクに乗ること自体、校則違反であり、受験を控えたこの大事な時期に見つかれば、将来への大きなハンデとなってしまうのは目に見えていたからだ。


 それを理解しているのかと涼也に追及したところ、事も無げに、「問題ない。もう一年以上も俺はバイクに乗っている」と口にするものだから景は開いた口が塞がらなかった。

 聞けば、彼は十六歳の誕生日を迎えてすぐに校則で禁止されている免許を取り、禁止はされていないがきちんとした申請を出さねばならないアルバイトを無許可で行い、大学生の兄とお金を出し合ってこのバイクを買ったのだと言う。


 あまりの破天荒ぶりに目が回りそうだった。

 涼也への疑問は尽きなかったが、一番疑問に思ったのは「何故そこまでしてバイクに乗りたかったのか」だった。

 それに対して、涼也は「ガキの頃からずっと憧れていたんだ」と悪びれもせずに言ってのけ、景を呆れ返らせた。


 憧れていると言う理由だけで、危険な橋の上でジャンプすることさえ厭わないとは。

 彼が憂き身をやつし、破滅の道へと導かれなければいいけど、という景の心配を余所に、涼也がフルフェイスヘルメットを押し付けてくる。

 当然の如くそれを突き返すと今度はジャケットまでついてくる。

 両者無言の押し問答が数分続き、結局景が折れる形となった。

 家には急遽、涼也と朝まで勉強合宿することになったと嘘を吐き、こうして二人の掟破りの深夜逃避行物語が幕を開けたのだった。

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