第35話 エナジードリンク

 中庭から自動販売機がある吹き抜けの渡り廊下へは、わざわざ校内にいる時のようにぐるっと回らずに直線的な動線で行けるため、心なしか校内が狭く感じられた。

 校舎の角を曲がると自動販売機はすぐそこだった。

 三階建ての薄汚れた校舎が燦々と輝く太陽を遮って巨大な影を落としてくれているおかげで、涼しい風が吹く。

 熱くなってぼんやりする頭を冷ましながら紅白一台ずつ置いてある自動販売機に近づいていくと、途中で二台のうちの一台、紅の自動販売機の前に佇む人が自分の知っている人物であることに気づいた。


 すらりと伸びた脚、小さい頭に揺れるポニーテールの後ろ姿。スタイルの良さから自分よりも身長が高いと錯覚するが、実際は景よりもいくらか低い。それでも、景は男子の平均身長よりもやや高いので彼女は女子の中だと高身長の部類に入るだろう。


 少女は松永凛。

 梨花と同じ中学校の出身で彼女とは親友のようであるが、一方で同様に同校出身の景とは犬猿の仲だった。

 犬猿というよりは、虎と鼠くらい力に差があると言った方が彼らの力関係を表すには正確だ。その証拠に、先日のテーマパークでも散々睨みつけられている。


 景は出直そうかとも考えたが、この猛暑の中、余計な体力を使う気にはなれなかったので適当に挨拶しつつ、パッと飲み物を買ってその場を離れ、校内をぶらぶら流しながら休むことにした。


「おつかれっす」


 凛に軽く声をかけて彼女がいない白い方の自動販売機の前に立って硬貨を投入する。

 凛は隣に立つ生徒が景であると認めるや、挨拶も返さずに切れ長の目で睨めつけた。

 景は彼女の熱烈な視線に気づかない振りをして、この場から早く立ち去ろうと素早くボタンを押す。意識が急いたせいか、買おうと思っていたサイダーの隣にあった見慣れないエナジードリンクのボタンを間違って押してしまったが、この際、些細な問題にとして受け入れる。


 一刻も早く離脱すべく、出てきたエナジードリンクを受け取り口から回収しようとするが、焦ってなかなか取り出せない。

 気持ちが逸ってしまい、根拠なく自動販売機の整備不良を疑い始めた頃、未だに睨めつけていた凛に話しかけられた。その声には明らかな敵意が含まれている。


「ねえ、結衣から聞いたけどあんた春日井遥香と付き合おうと思ってんの?」


 景は思わず手を止めて、凛の方を見上げる。

 とんでもない誤解だった。しかも、その情報の発信元が結衣とあっては今頃クラスの半分以上が知っていてもおかしくはない。失恋したこともあって結衣には気持ちばかり優しく接してやろうと思っていたが、こうも傍迷惑な噂を流されては適わない。

 彼女にはより強く当たろうと心に決めて、とりあえず目の前の凛には必死に弁解しようと口を開いた。


「ちがうんだ。そうじゃ……」

「言い訳はいらない」


 凛はぴしゃりと言い放ち、景の言葉に耳を傾けようとしなかった。


「あんたさ、中学の頃、梨花と付き合ってたよね? それで別れた。あの時梨花はすごい傷ついてたの知ってんの? 何があったのか教えてくれなかったけど、どうせ原因はあんたなんでしょ? 高校入ってやっと元気を取り戻せたと思って安心したら、まさかあんたも同じ高校にいるとは夢にも思わなかった。よりによって同じクラスになるなんて」


「ほんと最悪」と凛が吐き捨てる。景は黙って聞いていた。


「別にあんたがどこの女とイチャついていようが知ったこっちゃないけど、梨花の前でやんのはやめてくんない」

「……だから遥香のことを嫌っているの?」


 凛の片眉がピクリと反応する。


「あの女があんたに見惚れてるみたいだったから忠告してあげたのよ。現実を見られるように」

「遥香は俺のことをただの友達だと思ってるし、俺もそう思ってる。別にイチャついてないし、付き合おうともしてない」


 景は落ち着いて弁解する。それを聞いた凛は景に対して軽蔑の目を向け、はっきりと舌打ちをした。


「そうやってまた気付かないふりして逃げんのね。あんたはどれだけ人を傷つければ気が済むの」


 そう言い捨てると肩をいからせながらその場を後にする。ポニーテールが彼女の背中を追いかけるように靡いていた。


 景は凛が渡り廊下を伝って校舎の中へと姿を消したのを確認してから大きく溜め息を吐く。


 わかっている。そんなことわかっているのだ。

自分の弱さも醜さも情けなさも酷さも臆病さも屑さもだらしなさもいい加減さも全部わかっている。だからこそ、悔しい、辛い、怖い、虚しい、哀しい、嘆かわしい、切ない、申し訳ない。


 でもどうしたって変えられないのだ。過去を。自分を。未来を。


 今ですら、罪を自覚していながら、凛が別れた真相を聞かされていないと知って、ほっとした感情が心の片隅、否。心の半分を占めている。もう半分は、もし、事が知れたらと恐怖する自分だ。


 こんなどうしようもない奴死んでしまった方がマシだ、とヤケになりそうになる。だが、景は自ら死に飛び込む勇気すらも持ち合わせていなかった。


 変なエナジードリンクを口につける気にならず、宛も希望もなくふらふらと彷徨っていると、部室棟の二階へと続く階段に座りこんでいる結衣の姿を見かけた。

 ちょうど体育館と部室棟に挟まれて年中日陰になっている、じめじめとしていて目立たない場所だ。


 膝を抱え込んで俯く彼女の顔の下半分は隠されていた。だが、隙間から覗く目元は泣き腫らして赤くなっているようだった。

 声をかけるわけでもなく、結衣の座る階段から少し離れた地面よりも一段高い段差に腰掛ける。


「どしたの、景くん」

「……こっちの台詞だよ」


 えへへ、と力なく結衣が笑う。

 口元が膝で隠れているため、本当に笑顔かどうかはわからない。だから彼女が口を開いたことにも気づかなかった。


「梨花ちゃんと凛ちゃんに嫌われちゃったかも」


 少し掠れた声で振り絞るようにそう呟く。目は潤んで今にも涙が零れ落ちそうだった。


「でも何でかわからないんだよね。皆で遊びに行った後くらいから何となく避けられてて。頑張って楽しい話しようとしてたんだけど、余計怒らせちゃったみたい」


 遂に零れ落ちた涙が頬を濡らす。「ダメだな、あたしって」と無理に気丈に振舞って手で目をぐしぐしと擦る。


「ダメだよ擦っちゃ。赤くなっちゃうよ」

「……優しいね。景くんは」


 結衣が初めて柔らかい笑顔を見せる。涙で瞳が潤んで綺麗だった。でも、すぐに元の表情に戻って笑みは膝へと消えていった。


 優しくはない。取ってつけたような言葉を並べただけだ。虚飾も打算も思惑もない優しさなどこの世には存在しないのではないだろうか。世界はそこまで優しくない。それは自分も、自分にも然り。


「彼氏とも別れて、友達も無くしちゃうのかな」


 消え入りそうな言葉に物悲しさを覚える。景は直輝の顔を思い出した。

 流石に卒業までこのままの状態というわけではないだろう。いや、変に頑固な直輝のことだからこちらから謝らなければ、卒業と同時に二度と会わなくなるという可能性も捨てきれはしない。


「……そうかもね」


 結衣の言葉に自分を重ねて想像をしていると、つい、口を突いて出てしまう。

 予想もしなかったであろう景の一言に結衣が目を丸くして絶句した。


「あ、いや今のは俺と直輝も同じ状況で、もしかしたら自分もって意味で、別に突き放したとかそういう訳じゃ……」

「ぷっ、あはははっ!」


 破顔した結衣が勢いよく噴き出す。とびっきりの冗談でも聞いたかのようにけらけら腹を抱えて笑った。

 初めは何がそんなに可笑しいのかわからず、困惑の色を浮かべていた景も、やがて彼女につられて笑いが込み上げてくる。


 ひとしきり二人で笑い合った後、結衣が言った。


「そっか、そういえば景くんも直輝と喧嘩してるもんね……てかそれあたしのせいだよね?」


 大口開けて笑っていたかと思えば、次の瞬間には申し訳なさそうに上目遣いで景の反応を窺う。景は、そんなにころころと表情を変えてよく疲れないものだ、と半ば感心を抱く。


 結衣の笑って上気した息遣いと潤んだ上目遣いに心奪われた。なんてことはまるで無かったが、落ち込んでいるところに辛く当たるほど鬼ではなかったので、冗談めかして答える。

 それに、水をやったのは結衣だが、そもそも原因となる種を撒いたのは自分自身なのだから。


「おかげさまで無事に四面楚歌だよ」


 直輝に梨花に凛。そして自分自身。まさに、四方を敵に囲まれて逃げ場がない、そんな気分だった。


「じゃあ、あたしたち四面楚歌同盟だねぇ!」

「また変な同盟を……。成瀬さんは四面を囲まれてなくない?」

「囲まれてるよー! ユウくんと梨花ちゃんと凛ちゃんでしょー? あとは……受験勉強とか?」

「勉強は良いとしてユウくんは囲んできてないでしょ。むしろ撤退してるよ」

「あー傷ついたぁ。しくしく」


 兎みたいに赤くなった目に手を当てて泣き真似をする結衣に白けた目を向けてやった。

 彼女はすぐに嘘泣きに飽きたようで、しれっと表情を元に戻して遠くの空を見やった。

 日陰のじめじめとした空気が溜まった体育館と部室棟の間を一陣の爽やかな風が吹いていく。澱んだ感情も拭い去ってくれるような気がした。


 結衣が「よしっ!」と自分に気合を入れて勢いよく立ち上がる。


「あたし、もう一度梨花ちゃんと凛ちゃんに話してみる!」


 勢いのままに数段の階段をひとっ跳びして固いアスファルトの上に着地する。空気がパンパンに入ったゴムボールが弾むように軽やかなステップを踏んで結衣は言った。


「ありがとっ! 景くんのおかげで元気出たっ! また後でねー!」


 ひらひらと蝶が舞うように手を振って彼女は駆けていく。その出鱈目な軌跡を目で追いながら、景は結衣の強さに、勇気に強い憧れを抱いた。それと同時に自分の弱さと臆病さを思い知らされる。


 憧れは劇薬だ。用法用量を守れば、明日への活力になって自然と前へ前へと進んでいけるし、自分を変える手助けにだってなるだろう。でも匙加減一つ間違えれば、太陽に近づきすぎたイカロスのように翼をもがれ、忽ち地の底へと落とされてしまう。届くかわからないものに手を伸ばしている間は希望に満ち溢れている。だが、一度届かないと気づいてしまったが最後、絶望に苛まれ二度と立ち上がれなくなるのだ。それでも人が憧れを抱くのは自分に無いものを求めて、いつか手にできると信じて、手を伸ばさんとしている間は自由を感じられるからだろう。


 憧れに身をやつして破滅の一途を辿るのは御免だった。だから、遠くから眺めているだけでいい。自分には手が届かない、と初めから諦めておけば堅実な道を行けるはずなのだ。既に取り返しのつかない過ちを犯している時点で、堅実な道を歩むことは既に叶わないかもしれないが。

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