第33話 プラットホーム

 電車に揺られること十数分、途中のターミナル駅にて一度降車し、七人がそれぞれ別の路線へと分かれていよいよ長い一日が終幕を迎えようとしていた頃。


 駅構内は昼間のように明るく、仕事帰りや景たちのように一日遊び歩いた人々が行き交って賑やかだったが、プラットホームに降りた途端、雰囲気が一変する。

 人は少なくなり、遠くに聞こえる発車ベルと無機質な案内の声だけが空気を裂いて鼓膜を揺らす。先程までの雑踏が恋しくなるほど静かだった。

 寿命が迫っているのか、時折ちらつく蛍光灯とプラットホームに佇む疲れきった顔の中年男性が、何とも物悲しい雰囲気を醸し出している。


 景は横目で直輝と梨花を盗み見る。二人ともこの異様な静けさを特に気にしていない様子だった。

 景は彼らに聞こえないように口の中で小さく溜め息を吐く。

 よりによってこの二人と路線が同じとは。


 梨花とは同じ中学校に通っていたので、自宅からの最寄り駅が一緒。

 直輝に関しては景が降りる駅の二つ前が最寄り駅だった。

 途中でその事実に気づいた時から死刑台へ護送される囚人のような気分で電車に揺られていた。現在も鋭意護送中である。


 ターミナル駅にて他路線へ乗り換える涼也や遥香たちと共に、トイレへ行くなど適当な理由をつけてとんずらしてしまおうか、などという考えが脳裏に過ったが、それをした瞬間、二度と友情は元通りには戻らないような気がしてやめた。

 何より、最後まで逃げ切れる自信は無かったし、再び梨花の前から逃げ出すような情けない真似はできない、というちっぽけなプライドが駆け出しそうになる足をどうにか踏みとどまらせたのである。


 景の額から汗が流れる。それが蒸し暑さからか、それとも、緊張によるものかはわからない。

 相変わらずの静寂だった。少し離れているくたびれた中年男性のくしゃみが波紋のように響き渡るくらいに空気が凪いでいた。


 景は日本人らしく静謐の中にわびさびを感じようとしばらく努力したが不可能だと諦める。

 ここにあるのはぴんと張り詰めた緊張と冷たい無機質な鉄の塊、それと時折ちらつく蛍光灯だけで、暖かさや間隙の味わい深さは一切存在しない。


 到着メロディーと共に、曇天を切り裂く雷鳴の如く轟音を掻き鳴らしながら列車がプラットホームに入ってくる。

 鉄塊が纏った暴風を一身に受け、振り乱された長い黒髪を梨花が手で撫でつけ終えた時、直輝が彼女に言った。


「わりぃ内田さん。先帰ってもらってもいい?」

「わかったわ」


 空気が抜ける音がしてドアが開く。

 梨花は景と直輝にそれぞれ視線を送り、それをさよならの合図として颯爽と明るい車内へと入っていった。

 間もなくしてけたたましい発車ベルが響き、ドアが閉まる。電車は空転によってモーターを高鳴らせながら、ゆっくりと動き出し、やがて、レールの彼方へと小さくなっていく。


 残響も次第に薄れ、プラットホームは再び静寂に包まれる。

 数分間の無言の攻防戦の後、先に口を開いたのは直輝だった。


「景ってさ春日井さんと付き合ってるの」


 普段耳にする明るいトーンの声ではなく、落ち着いているようでどこか投げやりにも聞こえる温度のないものだった。


「付き合ってない」


 景は静かに、強く否定する。

 その答えに満足して「なーんだ、そうだったのかー! よかったぜ!」と一件落着、にはならない。

 景の言葉を聞いた直輝は、その意味を噛み締めるかの如く目を瞑った。


「付き合ってなくてもいい感じなんだろ?」


 瞼を上げた直輝が景に笑顔を向ける。

 それはよく目にする人懐っこい笑顔などではなく、目の奥が笑っていない、明らかに偽物だとわかる色のない作り笑いだった。

 景は言葉を選びながら慎重に答える。


「別にいい感じというわけじゃない。ただ、プレ……直輝と一緒に公園で拾った犬いたでしょ? あの犬の散歩に時々付き合ってるだけ。様子を見に。だから、春日井さんとはただの友達。本人もそう言ってる。」


 十分に言葉を選んだつもりだったが、余計なことを言ったかもしれない、と少し後悔する。


「ふーん」


 景の必死の弁明を聞いて直輝の作り笑いは消え、代わりに口の端に浮かんだのは自嘲的な笑みだった。


「どうりで春日井さんと話している時、景の話題が多いわけだ。おれ、共通の話題で盛り上がれて勝手に浮かれてたってことか。結衣に言われて気づいたわ。春日井さんの目に映ってたのはおれじゃなくて金谷景だったって」

「だからそういうんじゃないって!」


 思わず語気が荒くなる。もううんざりだった。

 結衣も涼也も、直輝も勝手に人の感情を恋愛だと決めつけて、さも当然の如く遥香との関係を問い質してくる。

 真っ白で汚れを知らないような女の子との関係を噂されるこの男は、好きになった人を身籠らせたた挙句、それが怖くなって逃げ出す救いようのない屑なのだ。

 だからといって、開き直って彼女との恋愛にうつつを抜かせるほどにまで落ちぶれたつもりは無いし、こと更に梨花も近くにいるこの状況でそれをする胆力も無神経さも持ち合わせていなかった。

 その勇気があれば悠々と高校生などやっておらず、今頃、家族を養うために歯を食いしばって体に鞭打って死ぬ気で働いているに違いないのだから。


 今この瞬間だってそうだ。

 自分がいかに屑かを直輝に洗いざらいぶちまけてやろうとした。そうすれば彼はきっと彼女を守るために自分を引き離そうとするはずだ。

 だが、口を開いた途端に腹の底から恐怖が鎌首をもたげて喉を締め上げ、呼吸すら止まりそうになる。


 景が苛立ち、うんざりするのは何よりも臆病者の自分自身に、だった。


「景。おまえにとってはそうじゃなくても」


 熱くなる景に対して直輝は一定の温度で続けた。


「春日井さんはそうだったんだろ?」


 遥香にとっては。脳内に彼女との時間がフラッシュバックする。

 ショッピングモールでの買い物。

 プレーンを引き取りに家を訪れた日。

 だらだらと続けたメッセージに突然の電話。

「友達になってほしい」と呼ばれた名前。

 木漏れ日のベンチ。

 そして、振り向いた彼女の熱っぽい眼差し。


 景は言葉に詰まった。

 彼女から「好き」と告白された電話口の声が何よりの証拠だった。


 沈黙は直輝によって肯定とみなされる。


「公園の事をおれに言わなかったのはおまえも春日井さんから向けられる感情を理解してたってことだよな。もし、本当にただ友達だと思ってたんなら話してくれてたはずだろ?」

「違う! それは」

「可哀想だったからか? 叶うはずのない恋に踊らされてるおれを見て、少しでも夢見させてやろう、希望を持たせてやろうって思った?」

「そんなこと」

「上から目線も大概にしろよ。おまえとずっと親友だと思ってたおれが馬鹿みてえじゃん」


 やめてくれ。そんなことない、そんなことないんだ。

 口に出そうとした言葉はプラットホームに入ってきた電車の轟音に呑み込まれてしまう。

 直輝のかき上げられた髪は風に乱されることなく、ぴんと立ったままだった。それなのに、彼の背丈はいつもより小さく感じた。


 ドアが開き、車内の光に照らされてできた二人の影が白線の内側に伸びていく。

 直輝は電車内の虚空を見つめて独り言のように言う。


「……景が何も言わずにサッカー部を辞めておれら全然話さなくなったよな。だから、また同じクラスになって前みたいにバカ話できるようになったのすげー嬉しかったんだよ。…………でもおまえにとってはそうじゃなかった。…………じゃあな」


 そう残すと直輝は影を引きずるようにして電車へと乗り込んだ。景は追いかけることもせず、彼の背中をただ見ているだけだった。

 二回目の発車ベルが鳴ってぴしゃりとドアが閉まる。電車は二人の仲を引き裂くように定刻で発車する。

 プラットホームに独り取り残された景は立ち尽くす。固いコンクリートの上、直輝の言葉を頭の中で何度も何度も反芻した。だが、一向に理解し得ない。


 彼にとって自分はそれほど価値がある人間だったのだろうか。


 答えは出なかった。

 四度目の発車ベルが鳴る頃、我に返った景は、ようやく電車に乗って長い一日を終えたのであった。

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