第22話 後悔

「お前、最近良い顔するようになったな」


 担任の高田先生の口から飛び出したその言葉は、誰に向けられたものか宛先が不明瞭で、景の頭上を通過しエアコンのよく効いた教室内を跳ね回って落下した。

 この二者面談の場には自分と先生しかいないのだから先生の自問自答でなければ、当然自分に向けられた評価であることは言うまでもない。すぐにそれに気づいて落っこちた言葉を拾う。


「そうですかね」

「笑顔が嘘くさくなくなった」


 嘘くさくなくなった、ということは前までは嘘くさい笑顔を振りまいていたのか。

 全くもって酷い言われようだ。だが、その言葉に妙に納得してしまう自分もいた。

 

 確かに少し前まで、涼也に対しては感情のない空虚な笑みを浮かべていたし、遥香に対してもなるべく関わらないようにわざと壁を感じさせるような愛想笑いで敬遠していたかもしれない。

 改めて自分の行いを振り返ってみると酷い奴だ、と思わざるを得ない。

 高田先生の評価は正当なものだった。普段は生徒なんかに興味無いといった態度をとっているが、やはり教師だけあって生徒のことはお見通しなのだろう。

 それを鑑みると、前まで居心地の悪さしか感じなかった眼鏡越しに射抜かれるような先生の目が、そんなに嫌なものじゃないと思えるようになってきた。


 先生の言う通り、この頃本心から笑うことが増えたような気がする。それは果たして良い事なのかそれとも悪いことなのか。笑える資格なんて自分にあっただろうか。


「まあ、そうだな。金谷は中間に引き続き期末の成績も悪くないし、進路も定まっているようだからうるさいことは言わない。後は後悔のないように頑張るだけだな」


 手元の資料に目を落としながら、高田先生が静かな調子で二者面談の総括を述べる。

 景は「はい」と素直に返事をするが、どうしても彼の後半の言葉に引っかかりを覚えた。


「先生、ひとつ聞いてもいいですか」

「なんだ」

「もし後悔したら、どうすればいいんでしょうか」


 景は少し躊躇ってから、一語一語を噛み締めるように尋ねた。景の質問を耳にして高田先生は彼の心を見透かさんとするような目つきで「そうだな」と考える素振りを見せた。


「良い後悔と悪い後悔がある。良い後悔は挑戦して失敗した時だ。この後悔はいくらしても良い。反省として次の挑戦に生かせるはずだからだ。逆に悪い後悔の仕方ってのは逃げたのを後悔する時だな」


景は静かに頷く。


「別に逃げるのが悪いって言ってるんじゃない。ただ、半端な気持ちで逃げるのはやめた方がいい。逃げるんなら最後まで逃げ切れ。そしたらそれはもう挑戦となんら変わらなくなる。逃げ切る覚悟がないなら初めから逃げるべきじゃない」


「だから、金谷。もしお前が今逃げたことを後悔しているなら、放り出したもんを取りに行けばいい。それが出来ないって言うなら、もう死ぬまで逃げ切るしかないな」


 ふっ、と高田先生は面白い冗談でも言ったかのように笑った。

 自分は最期の瞬間まで逃げ切れることができるだろうか。


「先生は」

「ああ」

「先生は後悔したことはあるんですか」

「あるな」


高田先生は遠い目で教室の後方にある黒板の方を見る。


「どんな時でしたか」


しばしの考えるような沈黙があって綺麗に髭が剃られた口を開く。


「俺が金谷の年の頃はもっとガキでな、教師だった親にしょっちゅう反発してた。大学に入ったら親の反対を押し切って家を出ていった。それで自立したつもりだったんだよ、学費は親に出してもらってるのにな」


口元がほんの僅かに緩んだ気がした。


「大学二年生になるかならないかくらいの時に交通事故で父親が亡くなった。おかしな気分だったよ。生きてた時はうるさい父親から逃げ回ったのに、いざ死んだら逆に父親の影を追うようになったんだから」

「だから、先生は先生になったんですか」

「どうだろう。ただ後悔する毎日を終わりにしたかったからかもしれない」


 その先は怖くて聞けなかった。

 今も後悔しているか、なんて。


「さて、後続も詰まってるし二者面談はこの辺でいいか」


 高田先生は腕時計を一瞥すると、二人の間に流れた僅かな沈黙を吹き飛ばすかのようにいつもより少し明るい調子をつくって、机の上を片付け始める。景も促されるままに席を立って礼を言い、教室を出ようと扉に手をかける。手をかけて、立ち止まって半身で振り返る。


「先生、また今度なんかあったら話してもいいですか」

「やだね。めんどくさい。お前、友達いっぱいいるだろ。そいつらに相談乗ってもらえ」


 高田先生はいつものつまらなそうな顔に戻って言った。

 突き放すような口調だったが、その声にはどこか優しさを感じる。

 この先生は、実のところ生徒のこと大好きなのかもしれないと頬を緩ませながら、今まで誤解していたことを心の中でそっと謝る。


 教室を出る前に高田先生から「次の奴を呼んでくれ」と言われたので、教室前の廊下で待ちぼうけを食らったであろう哀れな人に声をかけようと扉を開けた。

 そこで座って待っていたのは頬を膨らませた結衣だった。


「景くんおそいよぉー!」

「ごめんごめん。というか出席番号、次じゃなくない?」


 予想外の人物の登場に当然の疑問が湧く。


「急用があって順番変えてもらっちゃった」


 えへへ、と特に悪びれる様子もなく無邪気に笑う。

 だが、無邪気だったのも束の間、細められた目がすぐに品定めをするような嫌らしいものに変わって、帰ろうとする景を「それよりも」と引き留めた。


「どうなのぉ春日井ちゃんとは!」

「……どうもこうもただの友達だよ」


 相変わらず粘着質な結衣に辟易しつつ、律儀に答える。


 遥香とプレーン散歩友達協定を結んでからおよそ一ヶ月。

 遥香と景は偶の間隔で学校外でも会っていた。もちろんプレーンも一緒に。

 会う場所は遥香の家から近く、景の家からも程々に近い協定を結んだ例の大きな公園に落ち着いた。

 だいたい、休日か午前授業の日の太陽が傾き始めた頃に待ち合わせて、一時間程度公園内を流しつつ、くだらない話に興じるのだが、これが結構楽しかった。

 受験や期末試験の勉強に疲れた脳を緑が溢れる自然の中で休めて、愛らしいプレーンに癒される。遥香と交わす冗談や決まった掛け合いも心地いい。

 そしてふとした彼女の表情や仕草に奪われそうになる目を必死に取り返す。


 正直、遥香との間に流れる穏やかな流れる時間が、日々が、ずっと続けばいいなと思っていた。

 だが、それをわざわざ目の前にいる恋愛脳に教えてやる義理はなかった。

 こういう手合いとはあんまり深く関わりたくはない。一を話すと、さも当然のごとく尾鰭に背鰭、豪勢に胸鰭まで付けて、最早、原型を留めていない話をペラペラペラペラと他人に吹聴して回るのだ。

 適当に盛られた話を聞きつけたゴシップ好きにあれこれ詮索されるのは勘弁だった。


 景は長きにわたる結衣との戦いの中で培われた技を駆使する。まずその一。


「俺のことよりも成瀬さんのとこはどうなの?」


 ユウくんとかいう結衣の彼氏との微塵も興味のない近況をあえて訊くことで自分に関する話題を逸らしつつ、結衣のお喋り欲を満足させて早々に退散してもらう作戦だ。


「え! 聞きたい? 最近さぁ、ますますユウくんがかっこよくなっちゃってさー! 昨日なんか……」


 一応作戦は成功したが、ここからが長い。結衣が充分話した、と感じるまで景の聞き上手は続くのだ。

 これは早急に録音したチャイムを鳴らして会話を強制終了させる作戦その二に移行した方が良いだろう、とポケットに入れた携帯電話を操作しようとしたが、その必要はなくなった。


「おい、いつまでくっちゃべってんだ」


 がらり、と背後の扉が滑り、隙間からしかめ面の高田先生が顔を覗かせた。


「あ、せんせーも聞いてくださいよー! 昨日ユウくんと」

「そのユウくんは国立志望なんだろ。お前も頑張らないとな、成瀬。ほら、さっさと面談始めるぞ」


 高田先生はぴしゃりと言い放ち、結衣はうー、とか、えー、とかぶつくさ言いながらも教室へ入っていった。

 高田先生の巧みな技に景は感動し、尊敬の念を抱いた。

 結衣の彼氏ユウくんの志望校を把握し、彼女の弱点である「成績があまりよろしくないこと」につけ込み、無駄話を阻止せんとする。鮮やかなる手並みにお見事と言わざるを得ない。

 景は敬意を表して先生を調教師と呼ばせていただくことにし、弟子入りでもしようか、と冗談半分に考えるのだった。

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