第20話 大地を踏みならす大怪獣
きっかけは遥香から景へと送られた一通のメッセージだった。
『今日空いてるよね? プーちゃんのお散歩に付き合ってほしい!』
なぜ、空いていると決めつけられるのかと疑問に思いつつ、『ごめん、これから出かける用事があって行けない』と返す。
本当は用事などないが、告白の一件から遥香とはまともに会話しておらず、妙に気まずい。それに、休みの日にわざわざ外に出るのは面倒だったので適当な理由で断ることにした。
少しだけ、ほんの少しだけプレーンに会いたいという気持ちが無きにしも非ずではある。しかし、リスクとリターンが見合っていないので今回は泣く泣く見送る。
彼はそういう計算ができる男なのだ。
土曜日の昼下がり、刑事物のドラマの再放送を流し見しながら再びソファに寝っ転がる。
なんて穏やかな休日だろうかと感動さえ覚えていると、再び携帯電話から軽快な通知音が鳴った。
面倒そうに体を捩ってテーブルの上に放ったそれを手に取る。安穏を邪魔した通知音の正体は、思ったより早く来た遥香からの返信だった。
どうせ『そっか、残念(泣いてる顔文字)また今度ね!』みたいな内容だろうから、適当にスタンプでも押して終わらそう。そう考えていた景は予想外の返信内容に目を疑った。
『あれ? なっちゃんからにーちゃん今日家にいるよって教えてもらったんだけどなー』
景はソファに張った根をぶった斬ってダイニングテーブルでチョコレート菓子をつまんでいるなっちゃん、もとい妹の方を慌てて見る。
「あははー」
右手でピースしながらアホっぽい笑顔を浮かべている妹の姿に思わず拳を握りしめた。
だが、景はとても優しい兄だったのでテーブルの上に残っていた彼女のチョコレート菓子を全て没収し、唖然とする彼女の目の前で平らげるだけで許してやるのだった。
最寄りのバス停で次のバスが来るのをぼーっと待つ。
結局、あの後、根負けして遥香と約束した公園まで路線バスに揺られて出かける羽目になった。遥香の家は景が思っていたよりも近い距離にあった。
近所といってもバスで大体二十分ほどで、自転車だとその倍くらいはかかる。
わざわざ汗塗れかつ足をパンパンにしてまでペダルを漕ぐ理由もないので、普段はあまり乗る機会のないバスで目的地の公園へと向かうことにした。
休日の昼下がりだけあってバスはそこそこ混雑していたが、運良く窓際の席を陣取ることに成功した。窓の外を流れていく街中の景色に目をやりながら、電車よりもゆっくりと過ぎていく時間を楽しむ。
景はバスでの旅を結構気に入っていた。普通車の何倍も大きい車体で唸るような加速音を轟かせているのに、実際はあまり早くないところがどうにも愛おしい。
電車は無機質な鉄の塊がただレールを滑っているだけに感じるが、バスには心があってひたむきに頑張っている姿を想像してしまう。
青い座席のシートだって電車と似たような質感のはずだが、バスの方にはどこか安心感と温もりがあるように感じるのだ。
これからは多少不便になるがバス通学に切り替えようか、などと思案していると、あっという間に目的地のバス停まで到着してしまった。
愛しのバスに別れを告げて歩道に降り立つ。ここから公園までは目と鼻の先だった。重たい足を引き摺ってどうにか公園の入り口まで辿り着く。
公園は市町村名を冠しているだけあってかなり広く、案内板がなければ迷ってしまいそうだった。
遥香からは公園を指定されただけで具体的な待ち合わせ場所は聞いていない。
まあ、同じ公園にいればそのうち出会えるだろうと特に連絡もせずにぶらぶらと足に任せて気ままに公園内を流すことにした。
石畳の遊歩道を歩けば、青々と茂る木の隙間から太陽が顔を覗かせ、足元に落ちた木漏れ日はひらひらと風に合わせて揺れている。
鮮やかな色を写し出す木々や草花の青い香りが鼻孔をくすぐって植物も自分と同じように呼吸していることを感じる。
左手に広がるだだっ広い原っぱからは子どもたちが駆け回り、楽しそうな声が頭上を飛び越えていく。
公園には喧騒や雑踏とは無縁の安らぎと平和が存在していた。何も考えず、何にも囚われずにただそこに存在しているだけでいれたらどれほど幸せなことだろうか。
木陰になっている遊歩道から燦々と陽が降り注ぐ原っぱの芝生へと足を踏み入れる。
寝っ転がったら気持ちいいかもしれない。
そう思った時にはもうすでに芝生の上で大の字になっていた。
日光をいっぱいに浴びて伸びた芝がいい具合のクッションとなって体を沈める。目を閉じると青い香りがさらに濃くなる。たまには家のくたびれたソファでなく、天然のカーペットの上で太陽を浴びながら昼寝に興じるのも悪くない。
芝生の隙間を縫う微風に吹かれてうとうとしていると、突然、ぬとっととした不快な何かに頬を撫でられた。
「うあっ」
何事かと、閉じていた瞼を開くとそこにはなんと大地を踏みならす大怪獣、ではなく、くりっとした目の見覚えのある茶色い柴犬がいた。そいつが景の顔を覗き込んでいる。
「プレーン」
景が上半身を起こして名前を呼ぶと柴犬は嬉しそうにくるんと丸まった尻尾をぶんぶん回しながら飛びついて、朝食の食パンに塗ったジャムがついていたかと思うほどその顔を舐め回した。
まさしく感動の再会である。
「やっほ、金谷くん」
プレーンのリードを持つ遥香がいたずらっぽい笑みで後ろから登場する。
彼女の声をしっかりと聞くのは久しぶりな気がした。
「ああ、春日井さんおはよう」
「もう昼過ぎだよ」
「俺は今昼寝から起きたところ」
「もう、約束したのに」
「一方的に押し切って取り付けるのは約束じゃなくて束縛だよ」
何が面白いのか景にはさっぱりわからなかったが、彼女は楽しそうにくるくる笑った。
想像していた気まずい雰囲気にはなりそうになくて一安心する。
プレーンの散歩というだけあって彼女は髪を後ろで縛ってポニーテールにしているようだ。服は前に見たロングスカートではなく、シャツインのパンツスタイルで見る者に動きやすそうな印象を与えていた。
ひと通り景の顔を舐めきって満足したのかプレーンが余韻を楽しむように舌をぺろぺろ出しつつも離れる。青々とした芝生の上では枯れ芝のような毛並みが映えていた。
「リード持つ?」
これ幸いとばかりに立ち上がった景に遥香が手に持った赤いリードを差し出す。
「いいの?」
「もちろん」
景はありがたく彼女からリードを受け取る。
それを見るが早いかプレーンが駆け出した。プレーンに引きずられるようにして景も歩き始める。
プレーンはハーネスを枯れ芝に食い込ませて「あたしについてきなさい」と言わんばかりにぐいぐいと景を先導し、半歩遅れて景の後ろを遥香がついていく。
ぷりぷりと可愛く尻を振って歩くプレーンの背中は、景が家で預かっていた時よりもたくましくなっていた。
少し見ないうちに大きくなったものだと我が子の成長に胸中涙を流していると、遥香が「一旦リード貸して」と感傷な気分に水を差してきた。
渋々リードを手渡すとあら不思議、プレーンがぐいぐいと引っ張るのをやめて遥香の隣に付くではないか。景が目を点にして驚いたのを見て遥香はふふっと微笑む。
「今、並んで歩けるように訓練してる途中なの。わたしの時はちゃんとできるんだけど、金谷くんだとプーちゃん張り切っちゃうみたい」
そういうことだったのか、なかなか愛い奴め、と景が足元のプレーンに視線を落とすと、遥香がいたずらに余計な一言を付け足した。
「それか単に舐められてるだけかも」
景と遥香の間を歩く、まだあどけなさの残る顔つきのお転婆娘が黒い鼻をふがっ、と鳴らした。
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