第19話 ラーメン、食べにいかない?
日が大きく傾き、空が茜色に染まり始めた頃、長きに渡った泥や藻との戦いは終焉を迎えた。
「片付けはこっちでやっとくから先に着替えててくれ」という涼也の言葉に甘えて、景は後輩たちに労いの声をかけつつ、一足先に制服への着替えを済ませる。
気だるげな足取りでフェンスの扉を潜り、幅の狭い急な階段を降りていく。心地いい疲れに重くなる瞼を擦りながら、プール掃除が始まる前に涼也を待っていたベンチに身を任せることにした。
部活動を終えて帰宅する生徒たちの笑い声がオレンジの校庭に響く。
すっかり冷えたそよ風が熱を持った体にちょうどいい。空は青から紅へ続くグラデーションのキャンバスに雲を描き出していた。
どうして夕暮れはこんなにも懐かしい気持ちにさせるのだろう。
一度たりとも同じ場所で同じ色の夕焼けの空を見たことがないのに、昔どこかで見た覚えがあると感じるのだ。
歳をとると夕日が沈んでいくをの見て涙する人がいるが、きっとその人が今までに見てきた何百、何千と見てきた夕暮れ時の光景が一気に流れ込んできて、溢れかえってしまうのだと思う。おんぼろのベンチに座って見た今日の夕焼けも、いつか必ず記憶の底から湧き出でて一粒の雫となって地面に落ちていくに違いない。
ふいに、風ではない実体を持った冷たい何かが頬に押し当てられる。声を上げて驚き、飛び上がった景が後ろを振り返ると缶ジュースを持った制服姿の涼也が立っていた。
「お疲れ」
「あ、ああお疲れ」
涼也がこういうことをするタイプだとは思わなかったので余計に驚いた。
二本ある缶ジュースのうち一本を渡しつつ、涼也が景の隣に腰を掛けるとベンチから苦しそうな悲鳴が聞こえた。彼は特に気にする様子もなく、プルタブに手をかける。カシュッという小気味いい音が二つ弾けた時、涼也が口を開いた。
「今日は助かった」
「いやいや、役に立てたかどうか」
言葉は続かない。気を利かせてか、カラスが二人の間を取り持つ。
だんだんと薄暗くなっていく校庭を眺めながら、炭酸が喉で暴れるのを感じた。
郷愁的な光景を目の当たりにしているせいか、沈黙にいつもの気まずさはない。
しばらく静寂の時が流れる。それから何分、何時間経っただろうか。手にある缶ジュースが半分ほど減った頃だった。
「金谷、お前は──」
涼也が沈黙を破る。景は彼の方に顔を向けて反応を示す。
わざわざ言葉で返事をしなくても充分だと思った。いつだって言葉は過分になりがちで、本当に伝えたいことがある時以外には多くを語る必要などないのだから。
だが、次の彼の予想だにしなかった言葉には思わず耳を疑った。
「お前は胸派か、それとも尻派なのか」
「……え?」
一瞬、意味がわからなかった。一瞬どころかしっかり噛み砕いて反芻しても理解できなかった。
「どういうこと?」
「そのままの意味だ」
涼也は真っ直ぐ前を見たまま答える。景は困惑した。
ノスタルジックな空気の中、堅物そうな男から持ちかけられる猥談。その真意を測ろうと横顔を見つめるが、至って真面目な顔つきだった。
場を和ませるためか、それとも本当にただただ気になって聞いてきただけなのか。いずれにせよ、涼也の予期しないアプローチにはできるだけ応えたいと思った。
しかし、生憎と質問に対する回答を持ち合わせていなかった。
景にとって女性に魅力を感じる部分としての胸も尻はいずれも等価値であり、とてもじゃないが優劣などつけられなかった。
だからといって、ここで「どっちも」などと答えては興醒めもいいところである。考えるに考えた挙げ句、もうひとつの答えを導き出した。
「脚派かな」
景がそう呟くのを聞くや否や、涼也は目を丸くして驚いた表情を向ける。
涼也があまりに驚愕したので、それに景も驚いて目を見開く。
時にして数秒、お互いの瞳孔が通じあって、ついぞ涼也が破顔する。
「ぐはははっ、脚か。くっくっ」
かつて目にしたことがないほど、豪快に大笑いする涼也の姿がそこにはあった。腹を抱えて目に涙を浮かべるほどだ。
涼也につられて景も笑い出してしまう。
何がそんなにおもしろいのかと訊かれれば決して何もおもしろいことはない。
だが、一度堰を切ったように溢れ出した笑いはなかなか収まらないのだ。笑い声が笑いを呼んで、また笑う。腹が捩れてもう完全に元には戻らないんじゃないかと心配になるほど笑った。
いつしか薄暗くなった校庭に重なり合った二人の笑い声がカラスの鳴き声に交ざって響く。
遠くを過ぎる生徒がいったい何事かという様子で顔をこちらに向けているが、そんなの全くお構いなしだった。
例えこの先どんな辛い未来が待っていようと、この瞬間の思い出だけ片手に握っていれば生きていける、不思議とそんな気さえしてくる。
ひとしきり笑い合って二人とも腹筋にかなり負荷がかかった後、もしかしたらそろそろ憧れのシックスパックになっているかもしれないだなんて期待していたら、すでにシックスパッカーの涼也が「お前って結構変態なんだな」と悪い笑顔をした。
割とよくある趣向だと反論したが、胸か尻の選択肢を与えられていて新たに脚を持ち出す奴は変態だろうと切り捨てられてしまった。
確かにそうかもしれないが、それを言い出したら夕焼けを見て感傷に浸っているところに、いきなり猥談を持ちかける涼也はどうなんだと抗議した。涼也はなんでもないことのように「男が二人集まりゃ猥談も始まるだろ」と名言に聞こえるような言葉でお茶を濁した。
それから、二人は辺りが暗くなってお互いの顔の輪郭がぼやけて見えるようになるまで色んな話をした。
涼也に彼女がいることを告げられたり、その彼女がつい先刻一緒にプール掃除をしていた後輩の女の子であることを知ったり、その彼女とは事を済ませているという暴露をされたり。
それから直輝のこと。
彼は意外にも硬派らしく女の子と付き合った経験はあるが、手も繋いだことがないことに驚いたり、そんな彼に好きな人がいて本人は今のところ隠しているようだがバレバレだと笑ったり、その想い人が春日井遥香だというのは見ていればわかると共感したり。
「次はお前の番だぞ」
景は遥香に想いを告げられた先日の一件を話すか悩んだ。
でもやっぱりほいほいと言うべきことではないと思い直して、中学生時代の当たり障りのないような恋愛経験を語ることにした。
中学生二年生の時、告白されたことをきっかけに付き合うことになって、そして自らの過ちで別れたというどこにでもある話。
肝心な部分は隠したままにしたところに自分の弱さと臆病さが滲み出ている。
かなり曖昧でぼやけた語りになったが涼也は特に追及してこなかった。静かに耳を傾けて時折、相槌をくれた。
それがありがたくて目頭が熱くなる。夕日を見て感傷的になった心をまだ引きずっているのだろうか。
景はいっそ何を失おうと何もかも吐き出して、全てを曝け出して楽になろうかとも考えた。
だが、恐怖が鎌首をもたげて景の喉笛を掻き切って声を出せなくする。
結局、臆病な自分は臆病なまま変わることができずに、この先も逃げて隠れて顔色を窺うだけの人生を送っていくのだろう。
悔しさと諦めが入り混じった感情を溜め息に滲ませながら、すっかりと日は沈み、星が浮かび始めた濃い空を見上げるばかりだった。
どちらともなく帰り支度を始め、並んで帰路についた頃には駅の明るさが眩しいと感じる時間となっていた。
「俺はお前の話聞けて良かった」
「たいした話はしてないけどね」
そう、本当にたいした話はしていないのだ。
「それでも、良かった」
彼の言う「良かった」にどんな意が込められているか、知りうることは到底叶わないが、自分と同じ思いに違いない、そう断言できる。
今日、涼也と話すことが出来て良かった。もし、プール掃除に誘われなかったら、あるいは断っていたら卒業まで彼と積極的に関わろうとはしなかっただろう。
一生、近くて遠い存在のままだった。
「今度さ」
「おう」
「直輝と三人でラーメン、食べにいかない?」
「ああ、いいな」
未だかつて、これほどまでにわくわくする約束があっただろうか。
三人でカウンターに並んでラーメンを啜る。
たったそれだけのことだが、想像するだけで心が躍った。
豚骨スープを飲み交わした時、友情はより強固に、付き合いは生涯に亘る。
漠然としたそんな予感に身を震わす自分が不思議でたまらなかった。
「じゃあな、変態」
「変態じゃないけど……また明日」
手を上げる涼也の極悪人みたいな笑顔を最後に別々のプラットホームへと別れる。明日、学校へ行くのが少しだけ楽しみになった。
直輝の体調は良くなっただろうか。もし学校で会えたら復帰祝いにコーラの一本でも贈ってやろう。
景はホームへ続く階段を弾むように降りていくのであった。
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