第18話 大崎少年

 学校のプール掃除は想像よりも遥かに大変だった。

 デッキブラシの柄に寄りかかって手を休めつつ、景は考える。

 よく映画やドラマで男女がキャッキャと水を掛け合いながら楽しそうに掃除しているシーンが青春の醍醐味として描かれているが、あんなのはプール掃除ではなく、ただのプール遊びと言って差し支えなかった。


 現実のプール掃除は、放置した水槽のような生臭さに息も絶え絶え、虫の死骸が浮かぶ濁った水溜まりに足を突っ込み、なおかつ底に溜まった土や枯葉、謎のぬめりに足を取られないように細心の注意を払わなければならない、というまさに苦行そのものだった。


 汗水垂らして泥まみれになりながらも精一杯、ブラシを擦る。

 たった五人でこの広さは無理があるのではないかと景は懸念を述べたが、涼也に「心配はいらない。終わらなかったら明日もやるだけだ」とそっけなく返され、こいつは鬼か悪魔の末裔かと心の中で毒づいたのだった。


「金谷先輩、大変ですけどもう少しの辛抱です! 頑張りましょう!」


 玉のような汗を拭いつつ、悪魔を祓うが如くドライワイパーで汚れた水を押し出していると、近くにいた大崎少年が声援をくれる。そんなに辛そうに見えたのかと思って、笑顔で気丈に振る舞う。

 彼も掃除が明日にまでもつれこむのは嫌なのだろう。もちろん、景も明日もこの苦行に参加するのは勘弁願いたいので、死ぬ気で頑張ることにする。

 だが、インドア派で運動不足の景にとっては燦々と降る太陽の光のもと、長時間ずっと作業し続けられる自信はなかった。


 せっかく近くに大崎少年がいるのだから、と疲れを紛らわすためにも気になっていたことを思い切って聞いてみることにした。


「大崎くん」

「はい!」

「一個聞いてみてもいい?」

「もちろんです。なんですか?」

「涼也ってどんな先輩?」


 大崎少年が一旦手を止めて、「そうですね」と考える素振りを見せた。


「頼れる兄貴って感じの先輩です」


 再びブラシを擦り始める。


「いつも堂々としていて、寡黙だけど水泳に関する質問にはちゃんと答えてくれて、困った時には相談にも乗ってくれます」


 またブラシの手を止めて遠くにいる涼也を懐かしそうに見る。


「涼也先輩が部長だった時は五人しかいなくて、まあ今の方が少ないんですが、それでもこの人がいてくれたら大丈夫だ、なんとかなるって。そんな安心感を与えられていました。だから今の僕が涼也先輩の代わりを務められるのか、後輩たちに背中を見せられるほど立派にやれてるのかなって、正直今もすごい不安です」


 でも、と続ける。


「涼也先輩に相談したら『お前はお前らしくやれ。お前なら安心して部を任せられる』って。それ言葉だけで不思議となんでもやれる、頑張れるって勇気が湧いたんです」


 その言葉の通り、今の彼は部を背負っていく自信と責任感に溢れている様子だった。


「すみません、長々と話しちゃって」


 大崎少年は照れくさそうに笑ってもう一度プールの底を擦り始める。ブラシを握る手は力強く、心なしか先程よりも彼が逞しく見えた。

 大崎少年に感謝を伝え、景もそれに倣って大きな水溜まりを掻き消すことに精を出す。

 

 教室では基本無口で、一匹狼然として過ごしている涼也だが、水泳部では良き先輩として後輩たちから慕われている一面があることに景は驚いた。

 確かに大柄で堂々として貫禄ある様は頼りになるが、兄貴というよりはむしろ父親のイメージの方が近いのではないだろうか。

 熱いお茶を置いたちゃぶ台の前で新聞を広げている一昔前の頑固親父風の涼也をイメージする。割と似合っていると思う。ちゃぶ台返しはしそうにないが。

 いずれにせよ、後輩に頼れる存在として慕われている涼也の意外な一面を知れただけでも、プール掃除に参加した意義はあった。


 こうなるともっと別の一面も知りたくなる。ちょうど後輩人気の高い涼也の鼻を明かしてやろうと考えていたところだ。大崎少年にぶっ込んでみることにする。


「ちなみになんだけど、涼也の後輩時代ってやっぱニコニコ笑ってたりしたもんなの?」


 別のところを磨きに移動しようとしてた大崎少年が振り返る。

 ニカッという効果音が聞こえてきそうな眩しい爽やかな笑顔を景に向けた。


「金谷先輩、サボってないで手を動かしてください」


 現部長は元部長の威厳を守りつつ、サボっていた上級生である景を窘めた。

 ふん、この小僧なかなかくわせ物じゃい、と難儀な老人のような負け惜しみを胸に、景は濁った水を掻き出していくのであった。

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