第17話 いや、今来たところ

 その日の放課後、景は部活動に所属していないにもかかわらず、体操服に着替えてグラウンドの隅にあるベンチに腰掛けていた。

 まだ日は高く、日中ど真ん中ほどではないが少し蒸し暑かった。年季の入ったベンチから直輝のいないサッカー部の練習風景をぼんやりと懐かしんでいると、待ち人が姿を見せた。


「すまん、待たせた」

「いや、今来たところ」


 上は白いティーシャツに下は競技用の黒い水着という出で立ちで現れた涼也と、これまたデジャブを感じるありふれた挨拶を様式美的に交わす。


「行くか」

「うん」


 景は涼也に頷いて、彼の後を追った。

 二人はグラウンドとは反対側にある、緑色のフェンスで囲われた少し高くなっている塀の一角、幅の狭い数段の階段を昇って、物々しい南京錠のかかったフェンスの扉の前まで足を運ぶ。

 涼也が手にしていた鍵で扉を開けて中に入ると、そこには藻が繁殖して濁った浅い池、ではなく一般的な二十五メートルプールが広がっていた。ドブ川のような生臭い不快な匂いが臭いが鼻をツンと刺す。


 昼休みに涼也が景に「付き合ってほしい」と頼んだのは、プール掃除の手伝いにという意味であった。

 全くもって紛らわしい頼み方だったが、そういう冗談を言うタイプには見えないので、天然がゆえに出た発言だろう。

 景の方も以前遥香と似たような会話をしていたことから、どうせそんなことだろうと特に驚きもせずに、淡々と詳しい内容を話すように促した。


「すまない、手伝ってくれて助かる」


 ところどころ剥げて、雑草が顔を出しているプールサイドを並んで歩きながら涼也が短く礼を言う。


「いいよ、どうせ帰っても特にやることないし」


 景は涼也に対し、なんでもないことのように軽く返した。

 だが、内心は少しだけ後悔していた。実際に汚れ切ったプールを目にして、これから行われるプール掃除がとんでもない重労働であることが確定したからだ。無論、そんなことはおくびにも出さない。


 涼也が景にプール掃除の手伝いを頼んだ理由は、ひとえに人手不足がゆえにだそうだ。

 涼也は元水泳部だった。既に引退して久しいが、水泳部OBとしてシーズンを迎える水泳部の活動のためにプール掃除を手伝うのが伝統なのだという。

 景の高校にはプールの授業が無く、プールを使用するのは基本的に水泳部のみなので、先生たちや業者ではなく、水泳部員たちでプール掃除をしなければならないのだ。

 だが、元々水泳部は少ない人数で活動しており、少数精鋭といえば聞こえはいいが、その実、慢性的な部員不足に喘いでいた。涼也の代、つまり今の三年生は涼也一人しかおらず、このままでは手が回らないということで景が助っ人に借り出されたというのが事の次第だった。


 そういった事情を聞いてしまうと断るに断れなくなる。

 今までひとりで色々と役割こなしてきた涼也を想像すれば、とてもじゃないが嫌とは言えない。もしここで断れば、相性が悪いどころか仲まで悪くなってしまう予感がして、渋々、二つ返事でオーケーした。

 無論、渋々という態度は景の心の中に留めており、口からはしっかりと快諾の意が飛び出している。

 やはり涼也にはどこか遠慮してしまう部分があった。


 一度引き受けたのにもかかわらず、いつまでも文句を垂れていても仕方がない。気持ちを切り替えて、いい天気にやるプール掃除は意外と楽しいかもしれない、と景はポジティブに考えることにした。


 太陽の温かさを足の裏で感じつつ、涼也に続いてプールの脇にある小さな建物へと入る。

 建物中はプールサイドとは異なって薄暗く、ひんやりとした空気が頬を撫でた。

 塩素とカビが入り交じったような臭いが鼻につき、顔をしかめる。

 涼也は特に臭いを気にしている様子はなかった。鈍感なのか慣れなのか、それとも単に顔に出ないだけだろうか、などとその横顔を窺いながら考えていると彼はずいずい奥へと進んでいく。

 遅れないようにその後ろをついて行き、奥の倉庫からデッキブラシや溜まった水を切るワイパーなどの道具を手分けして外へと運び出す。外の明るさと太陽の匂いにほっとした。


「涼也先輩おはようございまーす!」


 突然かけられた横からの声に、景は思わず飛び上がりそうになる。

 見ると、涼也と同じくTシャツに水着といった格好の少年が立っていた。急に暗い屋内から明るいプールサイドに出たことで目が眩み、現れた人影に気づかなかったようだ。


「おう、今日は頼む。それとこっちは助っ人の金谷だ」

「金谷先輩、よろしくお願いします! 自分、大崎おおさきです!」


 大崎、と名乗る少年は涼也の後輩で代替わりした水泳部の現部長らしかった。

 元気溌剌としていて、歳はそんなに変わらないはずなのに若いパワーに溢れているな、と景はしみじみ思う。よろしくね、と挨拶する自分が一気に老け込んだような気がした。

 自分を見ていつも優しい笑顔で挨拶してくれる近所のおじさんはこんな気持ちになっているのだろうか。


 大崎少年の他に、これまた涼也の後輩だという二人の男子と一人の女子と軽く挨拶を交わした。

 皆元気があってきびきびと動いており、それまではどこかのほほんとしていたプールサイドの雰囲気が一気に引き締まって、太陽もさらに眩しさを増したように感じた。

 彼らより学年は上だが、本日限りの助っ人である景に対しても先輩として涼也と同様に尊重してくれている。少人数とはいえ、水泳部は立派な体育会系の運動部であることを改めて実感した。


 となると、ひとつ気になることがあった。隣に立つ涼也にも元気発剌きびきびの後輩時代があったのだろうか。

 今でこそ、堂々とした貫禄で後輩たちに倉庫から道具を運ぶように指示を出しているが、去年、一昨年は大崎少年たちのように「はい!」と大きな声で返事している側だったはずだ。


 自分よりも高い位置にある涼也の顔を横目で見る。彼は相変わらず仏頂面で後輩たちの様子を眺めていた。

 この顔から笑顔が溢れているところなんてとても考えられなかった。

 頭の中で無理やり満面の笑みを貼り付けた涼也の姿を思い浮かべる。それがあまりに可笑しくて噴き出してしまう。

 隣から視線を感じるが、流石に噴き出した理由を本人には説明できないので、涼也の視線から逃げるようにして道具を運ぶ後輩たちの元へ手伝いに駆け寄る。

 あまり乗り気ではなかったプール掃除だったが、いつしかやる気に満ち満ちていた。

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