第11話 ありえないな

 翌日の日曜日も景は珍しくパジャマから外着に着替えていた。

 ただ、今日は特に外出する用事はない。そう、外出する用事はないのだが、反対にお客さんが家を訪れる用事があったので、わざわざ着替えていたのだ。

 そして、そのお客さんというのが――


「おはよう、金谷くん」


 春日井遥香、と彼女がプレーンを迎えるにあたってお伺いをたてた御方々。景からしてみればまさに雲の上に住まう天上の神々の如き存在。つまり、彼女の両親だった。


 昨日半日、景と行動を共にした彼女がなぜ両親を連れて金谷邸を訪れたか。それはプレーンを引き取るためだった。

 彼女は両親と共に黒いミニバンに乗って現れた。あらかじめ遥香から大体の到着予定時間を知らされていた景は、お出迎え役としてあくびをしながら玄関先で日向ぼっこする金蛇と一緒に待ち惚けていたのだが、唐突に現れた黒くて威圧感のある大きい車がそのまま家の前に停車し、かなり動揺した。

 一瞬、誘拐の二文字が頭を過るが、黒光りするドアがスライドして後部座席から悠々と遥香が降りてくるのを見て、ほっと胸を撫で下ろしたのであった。


 遥香の父親は車の厳つさに似合わずおっとりしており、穏やかそうな柔らかい物腰の男性だった。それこそ七福神に参加していそうな雰囲気を漂わせている。

 母親の方はくりっとした目とふわっと笑う仕草が遥香にそっくりだった。この場合、遥香が母親に似ている、というのが正しい因果関係なのかもしれないが。


 普段の五倍くらいの営業スマイルを顔に貼り付け、遥香と彼女の両親と挨拶を交わし、玄関の扉を開けて家の中へと招き入れる。

 外の騒がしい様子を聞きつけたのだろう、すでに景の両親が玄関で待っており、歓迎した。二組の両親はそれぞれ定型の挨拶を交わしつつ、リビングへとぞろぞろ移動していく。

 伸縮式のダイニングテーブルを目一杯伸ばしているはずなのに、金谷家四人と春日井家三人、総勢七人が席に着くとテーブルがいつもよりかなり狭く感じた。

 普段は滅多に飲まない紅茶に口をつけつつ、大人たちの会話を聞いていた。時折、話を振られるので大袈裟な愛想笑いも交えて丁寧に返しつつ、また紅茶に口をつける。

 景が不意にテーブルから視線を外すと、景の妹と遥香がダイニングテーブルからソファの方に移動していて、プレーンと戯れながら楽しげに話していた。

 女子は何故あんなに仲良くなるのが早いんだろうか、と少し羨ましく思いながら何とは無しにその様子を眺めていると、遥香にちょいちょいと手招きされた。

 会話に夢中な大人たちの気を逸らさないようにそっと席を立って、ソファの方に向かう。


「かわいいね」


 プレーンを見ながら遥香が微笑む。


「ああ、うんそうだね」


 景は退屈なテーブルの場から解放してくれたことに心の中で感謝しつつ答える。

 プレーンは妹が放ったテニスボールを追っかけて遊んでいた。

 出会った当初はプレーンのことを結構大人しい子犬だと感じていたが、日が経つごとに段々とやんちゃな一面を知ることになった。今はテニスボールにぞっこんらしく、軽く転がしてやると脇目も振らずに一生懸命追いかける。

 ちなみに、躾けていないので当たり前と言われればそうだが、悲しいかな、転がしてやったボールが手元に戻ってくることはない。


 妹が「私、トイレ行ってこよーっと」と何故か芝居がかったような物言いで部屋を出ていったので、代わりに涎塗れの毛羽だったテニスボールを転がしてやる。ボールが転がってるんだかプレーンが転がってるんだかわからないくらいにわちゃわちゃしているのを見て思わず笑ってしまう。


 不意に、プレーンのこんな姿を見られるのも今日で最後なのか、と物寂しい気分が押し寄せる。初めこそ厄介に思っていたけれど、今ではかわいい姪っ子みたいなものだった。たった一週間足らずで心を奪うなんて将来は魔性の女になるに違いない、とプレーンの将来を憂う。


「寂しい?」


 知らず知らずのうちに心を埋め尽くしていく寂寥感が表情にまで出ていたのか、遥香が尋ねる。


「まあ、ちょっと」


 顔を覗き込んでくる遥香を一瞥してから正直に答える。


「たまに会いにおいでよ。その方がプレーンちゃんも喜ぶよきっと」


 どうだろう。数日程度一緒に暮らしただけのやつなんてすぐに忘れてしまうのではないだろうか。

 プレーンが新しい飼い主、遥香の元で暖かい家族に囲まれて幸せな暮らしを送っている姿を想像すれば、寂しいが忘れてしまうのも頷ける。

 でも、それでいいのだ。過去を振り返っていては前には進めないのだから。

 我ながらどの口が言っているのだ、と苦笑し、ため息をついた。

 全部忘れて全部一からやり直したい。そう願ってしまう自分の情けなさに腹が立った。

 やっぱり断ろう。

 そう決心して顔を上げた先、彼女の瞳が景を掴んで離さなかった。


「おいでよ、ね?」


 吸い込まれそうなほど深くて、有無を言わせない強さを湛えた瞳だった。だから、決心がいとも簡単に揺らいで、頷いてしまうのも仕方のないなのだろう。

 


「ぶれええんまだねええ、げんぎでねええ」


 隣で号泣する妹の感受性の高さに若干引きつつ、プレーンに別れの言葉をかける。

 プレーンは出会った時と変わらず、何もわかっていないようなきょとんとした顔で遥香の細い腕に抱かれていた。わずか数日前の出来事に懐かしさを覚えるが、大人しいプレーンを余所に隣で妹がわんわん泣いているので感傷に浸る暇もない。


 家の前に出て遥香とご両親に最後の挨拶をした後、彼らが車に乗り込むのを見届ける。遥香はプレーンを抱っこしながら、器用に胸元で小さく手を振って後部座席へと姿を消す。

 低く唸るとようなエンジン音を従えてゆっくりと動き出した黒いミニバンに手を振り、やがて赤いテールランプが角を曲がって見えなくなるまで見送りは続いた。

 意外にあっさりした別れだったと思う。確かに寂しいが、たかが数日同じ屋根の下で暮らしただけだ。未だに隣で啜り泣いている妹のように涙を流して感動的な別れは演出できなかった。

 それでも何となく名残惜しくて、両親が一足先に家の中へと戻っていった後もその場に残っていた。同じように残った妹もセンチメンタルなのだろう。

 勝手にそう共感していたがどうやら彼女は違ったようだ。


「兄ちゃん、あの人と付き合ってるの?」


 涙声で何を言い出すのかと思えば。


「そんなわけないだろ」

「だよね。釣り合わないし」


 でも、と続ける。


「あの人たぶんにーちゃんのこと好きだと思う」


 そんなわけないだろ、とすぐに斬り捨てられなかった。それは照れているわけでも嬉しく思っているわけでもなく、心のどこかで彼女からの好意に気づいていたからだった。鈍感を装って気づかないふりをして腹の奥底に押し込めていた意識を掘り起こされて動揺した。

 だが、再び心の隅に追いやって気づかないふりを続けることにする。今までも、この先も彼女から好意を受け取ることは決してない。自分には誰かから好かれる資格などないのだから。


「ありえないな」


 そう絞り出した景の顔は苦々しく歪んでいた。

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