第10話 思ってたよりも意地悪かもしれない
「おなか空いたね」
ペットショップでの買い物がひと段落ついて、景が遥香から荷物を受け取ろうとした時、彼女のお腹がきゅるると音を慣らした。特に聞こえないふりをするわけでもなく、思ったことを口にすると彼女も耳を少し赤くしながら蚊の鳴くような声で「うん」と呟いた。
腹が減るのは生きていれば当然のことなのだから、堂々としていれば良いのにと思わないこともないが、女の子としてはそうもいかないのだろう。
デリカシーなく口に出したことを反省しつつ、飲食店が並ぶフロアをざっと見て回ると、リーズナブルなパスタ専門店を発見した。「このお店はどう?」と提案すると遥香は「うん、いいね」と二つ返事で了承した。
パスタであれば、ラーメンなどと違って大きく外すことは無いし、何よりパスタが嫌いな女子などこの世に存在しないだろうという勝手な偏見から決めたのだが、間違ってはいなかったらしい。
景は先刻の失態を取り戻した気になって意気揚々と店内に足を踏み入れる。
昼食の時間には遅いこともあって順番待ちをせずともすんなり入ることができた。赤と白を基調とした明るい雰囲気の店内の奥へと進み、窓際の席へ通される。
木目調のテーブルの上に置かれた写真付きのメニューを二人で顔を突き合わせて覗き込んだ。
景は店の前に飾られた色とりどりの食品サンプルが入ったショーケースを眺めた時に、好みのものをピックアップしており、そのパスタがメニューにあることを確認して早々に顔を上げる。
景の対面に座る彼女は難しい顔をしてまだメニューとにらめっこしていた。普段、笑顔でいることが多い印象の遥香が眉間に皺を寄せてパスタを真剣に選んでいる様子を見て、景は微笑ましく思う。
「金谷くんは何にするの?」
「ボロネーゼ」
「あ、いいなあ」
えーどうしよう、と悩んでいる彼女が候補を一つに絞るにはまだ少し時間掛かりそうだったので、暇つぶしにでもなるかと、窓の外の景色に目を移した。
テラスの手すりと出っ張った屋根の間から、くすんだ青空に白い雲が浮かんでいるのが見える。雲と空の境界がはっきりしない。都心と言えるほど無数にビルが地面から生えているわけではないが、それなりに都会ではある。
ここから見る空はあんまり綺麗じゃない。
どこか遠い地の真っ青な空に想いを馳せていると、「決まった!」と高らかな宣言が耳に届く。
「すみませーん」
遥香はくるくると辺りを見回して遠くにいた若めの男性の店員を見つけて呼びかける。だが、店員は彼女の呼びかけに気づいていない様子だった。
景はすかさずテーブルの端にあった呼び出しベルを押す。ピンポーン、と馴染みのある音が店内に響いて先程の店員がすぐにやってきて「ご注文はお決まりで?」とにこやかに応対してくれた。
景がボロネーゼを注文し、遥香にパスすると彼女は「えっと、これ、カルボナーラ、お願いします」と何故かしどろもどろになりながらメニューを指差していた。
注文を取り終えると、店員は愛想よくテーブル上のメニューを回収して下がっていく。
「これあるなら教えてくれたらよかったのに」
目線で呼び出しベルを指しながら、口を尖らせて言う。
「その前に春日井さんが店員さんを呼んじゃったんだ」
「店員さんが気づかなかった後にだよ」
「鳴らして教えたじゃん」
我ながら屁理屈だとは思う。
「金谷くんて思ってたよりも意地悪かもしれない」
むむむ、と唸る彼女を見て景は思わず笑ってしまう。
その様子に彼女がますます口を尖らせる。あわや、機嫌を損ねた彼女がもう帰ると言い出し、プレーンの引き取りの話も無かったことにされるか、と危惧されたが、運ばれてきたクリーミーなカルボナーラを目の前にした彼女の晴れ渡る青空のような笑顔に、全くもって杞憂であったと安心した。
結局この日は、大きな荷物を持って広大なモール内を巡るのは大変だという話になり、社交辞令的に再びここに訪れる約束をして、のんびりと帰路につく運びとなった。
成長途中の短い影を車内に落として電車が揺れる。景は向かい側の窓を流れる景色をぼーっと眺めながら、頭に残った彼女の言葉を反復していた。
『きみはやっぱり優しい人なんだね』
遥香とは途中のターミナル駅で別れた。荷物が結構多くなってしまったので、彼女の家まで運ぶ手伝いを申し出たが、そこまでしてもらうのは申し訳ないから、とずっしりとした袋を景の手から受け取る。
その時に嬉しそうにはにかんだ遥香にそう言われたのだ。
優しい。果たして本当にそうだろうか?
景は自嘲気味に口の端だけで笑った。
三年前にとんでもないことをしでかしておいて、のうのうと生きている自分が優しいなど評価されている。あり得ないことだ。
脳裏に焼き付いた少女の泣き顔と涙声。数日前、もう話すことは一生無いだろうと思っていたのに、再び話しかけられた。
自分の罪を忘れるなよ、と。
独りだけ幸せになれると思ったら大間違いだぞ、と。
きっと釘を刺したのだろう。胃の底にどろどろと澱んだ感情がずっしりと溜まっていくのを感じて気分が悪くなる。
少しでもそれを吐き出したくて長い溜め息を吐く。
視線を落とした両の掌には、長時間重い紙袋を持ったことでできた紐の痕が未だにくっきりと残されていた。
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