第8話 青春一番

 往々にして早く起きた日は、早く学校に来てしまうものだ。

 家でゆっくりと読書や勉強するか、あるいは外に出てランニングでもすれば有意義と言えるだろうが、朝から精力的に活動することを景は良しとしなかった。

 ただでさえ、ものぐさで怠惰の限りを尽くす景にとって、毎日遅刻も欠席もせずに学校に赴くということは全身全霊を振り絞っているゆえの奇跡的な所業なのだ。この上、朝一から頑張ったらとてもじゃないが夕方まで体力が持たない。

 そういうわけで早起きした朝は何をするわけでもなく、ただただ時間を持て余し、その結果、家を早く出てしまうのだった。

 一聞する何とも無駄が多いという感想を抱きかねないがそうでもない。学校に早く来るのには理由があった。


 景は朝早い時間の人がほとんどいない校舎が好きだった。

 放課後も人は居ないけれど、それとは違う。朝の学校は空気が澄んでいる気がする。日中溜め込んだ淀みみたいな息苦しさが放課後の空気にはあるけれど、朝にはそれがすっかり浄化されて、ぴんと張り詰めたハープの弦のような静謐が場を支配している。それが心地いい。その心地よさを感じるためだけにわざわざ早く来るのだ。


 誰もいない廊下を気分よく闊歩する。

 きっと教室にも誰もいないだろう、と浮き浮きして扉を引くが、あっけなくその予想は裏切られた。


「おはよう」


 窓際で机に腰掛けて外を見ていたらしき少女が振り返って微笑む。肩にかかった髪の毛がふわりと浮いて落ち着く。

 五月の太陽に照らされた少女、春日井遥香かすがいはるかだった。


「おはよう」


 思わず見惚れてしまいそうになるのを堪えて、短く挨拶を返して席に着いて鞄を下ろす。


「早いね」

「たまたま早く起きちゃって。でも春日井さんの方が早い」

「まあね。今日朝練あると思ってたらなかったの。暇になっちゃったから外眺めてた」


 ふふん、と得意げに鼻を鳴らしているが、なぜ得意げなのかはわからない。

 彼女は気分良さそうに浮いた足をぱたぱた揺らしている。眩しそうに目を細めている横顔がぱっとこちらを向いた。また、髪の毛がふわり。


「ね、昨日の話なんだけどね……」

「ああ、子犬引き取ってくれることになったんだよね。ありがとう、ほんとに助かった」


ううん、と遥香は首を横に振る。


「わたし、ずっとわんちゃん飼いたかったの。むしろこっちがありがとうだよ」


 変わらず、足をぷらぷらさせながら、自然に顔を綻ばせた。暖かな陽を湛える柔らかな雰囲気の彼女は、五月の陽射しと関係なしに眩しい。


「でね、ひとつお願いがあるんだけど」


 上目遣いの遥香に対抗して、景も目で続きを促す。

 躊躇いがちに唇が揺れて、やがて決心したようにきっ、と結ばれる。


「わたしと、付き合ってくれない?」


 風が吹いた。

 立春を過ぎて初めて吹く、冬の名残を飛ばして新しい春をもたらす強い風。それを春一番と呼ぶならば、夏の気配を感じさせる爽やかな薫風は、青春一番とでも言えるだろうか。

 彼女の衝撃的な告白は青春一番に乗って高く高く空へと抜けていった。

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