第7話 マドレーヌのプレーン

 ようやく自分の部屋のベッドに倒れ込んだ時には、すでに時計は二十一時を回っていた。


「うああー」


 疲れ切ったおっさんみたいなうめき声を出す。実際、景は予想もしない出来事が連続した一日を終えて、本当に疲れ切っていた。


 どうにか母親に子犬を数日預かる許可をもらうことができて一安心したのも束の間、リビングに置いてあった座布団のど真ん中に子犬が思いっきりおしっこをかましたため、阿鼻叫喚のてんやわんやの大騒ぎだった。

 トイレシートやらドッグフードやら、必要なものをダッシュで近所のペットショップに買いに走り、一夜も経たずしてリビングの一角に子犬の寝床となるスペースを築いた。子犬が敷かれた毛布の上で寝たのを見届けて、自室に凱旋したのである。まさにナポレオンも舌を巻くほどの率先ぶりに自分で自分を讃え崇めた。


 密かな自画自賛によってどうにか意識を保っていると、まだ自分がワイシャツを着たままだったことに気づく。のっそりとベッドから起き上がり、足を引き摺るようにして向かいのクローゼットを開けた。鉛のように重い腕を持ち上げて、ワイシャツのボタンを外していく。

 面倒だから風呂は明日にしてしまおうか、などとぼんやり考えていると、ベッドの上に放った携帯電話からぽこん、と間抜けな音が聞こえた。

 どうせ直輝とかそこらだろうと適当にメッセージアプリを開くと、予想外の人物に一瞬固まる。

 通知は春日井遥香かすがいはるかからメッセージを受信したことを知らせていた。彼女のメッセージ欄に指を滑らす。


『夜遅くにごめんね! わんちゃんのことなんだけどお母さんに頼んだら飼ってもいいって!』

『それでいろいろ揃えたいんだけど、先輩のご教示願えませんか?』


 そういえば連絡するって言ってたな、と今朝の会話を思い起こす。ここには代わりに返事をしてくれる直輝はいない。ざっと文面に目を通して、働かない頭で精一杯内容を理解して『おっけー』と一言返信した。


 後に、この時の返信をもっと慎重にしていれば、と後悔することになるが、兎にも角にも眠さが限界に来ていて景の頭はすでにスリープモードに入っていた。

 着替えは諦めて再びベッドになだれ込む。睡魔に襲われるがままに瞼を閉じれば、すぐに意識は遠のいていった。

 規則的な呼吸音だけが部屋に満たされていく。



 翌朝、カーテンの隙間から漏れる光が普段よりも弱いことで、いつもより早い時間に目覚めたのだと知る。

 ベッドの上で上体を起こして大きく伸びをする。それからだるそうに立ち上がり、欠伸をひとつ。昨日、風呂に入ってないからか腹が痒い。

 ぼりぼりと掻きながら部屋のドアを開けて階段を降りる。まだ半分寝ている頭を叩き起すべく、シャワーを浴びに浴室へと向かった。

 だが、途中で喉がカラカラに乾いていることに気づいて、進路変更。面舵いっぱい。リビングのドアノブに手をかける。


 部屋に入った瞬間、ぎょっとした。薄暗い室内に浮かぶ怪しい二つの光。恐る恐る部屋の電気をつけると、こちらを興味深そうに見ている子犬が一匹。


 子犬、もとい『プレーン』だった。


 『プレーン』は、昨日、景の妹が子犬につけた名前だった。

 様々な色の柴犬の中で、子犬の色が一番想像しやすいスタンダードな赤茶の毛並みだったことに由来しているらしい。

 最初、景はプレーンと聞いて、自分の大好物であるマドレーヌからとったのかと思っていたが、由来についてよくよく聞いてみるとそんなことはなく、単なる思い込みだったことを知った。

 だが、実際に子犬はマドレーヌのプレーンのような色をしているので、愛着を込めて景もプレーンと呼ばせてもらうことにした。

 

 景はプレーンのことを大人しいな、と感じていた。拾ってから今に至るまで一度も吠える姿を目にしていなかったからだ。環境の変化に慣れないせいだろうか。

 傍によってできる限り優しく撫でてやる。プレーンはされるがままに撫でられる。


 捨てられてから、その日のうちに新しい飼い主が見つかるなんて本当にツイてるやつだと思う。捨てられる時点でツイてはいないのかもしれないけれど。

 だが、少なくとも景にとってはツイていた。

 中学一年生の頃のように拾ったはいいものの、自分では飼えない、新しい飼い主も見つからない、最後には保健所に連れられるのを見送るだけ、なんてことにはならなくて。


 彼女は自分が捨てられたことに気づいているのだろうか。もし気づいていたとしたら、捨てられたことを恨んでいるだろうか。悲しんでいるだろうか。もしかすると律儀に前の飼い主が現れるのを今も大人しく待っているのかもしれない。

 そこまで考えて、やめた。

 子犬の気持ちなんてわかるわけがない、と自分で自分の考えを一蹴した。思いっきり遠くに蹴飛ばした。

 それでも、まだ喉に何かがつっかえているような気がして、景は冷蔵庫から取り出した冷たい牛乳で勢いよく押し流したのだった。

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