第6話 大変だな
軽快なエンジン音がいやに大きく響く。少しタバコ臭い車内で、景は助手席に座っていた。隣にはハンドルを持つ眼鏡をかけた壮年の男性。膝の上には今朝拾ったばかりの子犬。奇妙な組み合わせだ、と他人事のように思う。
どうしてこんなことになったのか、一瞬、自分自身の状況が呑み込めなくなりそうになるが、すぐに先刻のやりとりを思い出す。
やっとの思いで辿り着いた事務室には、朝と同じ事務員がいた。
事務員に子犬と少し待つように言われ、指示通り大人しく数分待っていると担任の
正直、電車にどうやって乗るか困っていたので、ご厚意にありがたく甘えることにした。
前方の信号が赤になって、車が緩やかに減速する。やがて完全に停止すると、エンジンも稼働をやめてしまった。
車内を静寂が支配する。
常ならば、アイドリングストップ機能を恨めしく思いながら、何か話題のひとつでも振っているところだが、今日に限ってはそんな気は全く起きなかった。朝から色々ありすぎてすっかり疲れ切ってしまっていた。
ちらり、と隣の運転席を盗み見る。
上半分が縁取りされたハーフリムの眼鏡の奥は、真っ直ぐに前を見つめていた。景は先生が運転に集中していることに内心ほっとする。
高田先生は生徒をよく観察していると思う。だが、熱血というよりはむしろ生徒になど全く興味ない、といった印象で決して生徒と深く関わろうとはしない。連絡事項だけ伝えてさっさと終わらせる淡白な朝夕のホームルームは、彼の性格を表しているようだった。
ただ、意外にも生徒からはそれなりに人気があった。高校生という不安定な時期の心に、ずけずけと土足で上がり込んでこない安心感。精一杯、虚勢を張ってつくりあげた壁を絶対に超えてこない距離感が多くの生徒にとって心地よいのだろう。
だが、景は少し苦手だった。
目だ。目が苦手だった。眼鏡越しにこちらの心の中を見透かすような、そんな目。
心に踏み入らず、壁だって越えてこないが、遠くから確かに覗かれている。静観している。その目で射抜かれると、浅はかな自分の考えや過去でさえ丸裸にされるような気がして気が休まらないのだ。
「金谷も大変だな」
静謐を穿ったのは、青信号になって再び稼働し始めるエンジンではなく、高田先生の低い声だった。
「なにがですか?」
突然、話しかけられたことに驚いて思わず聞き返してしまう。
「俺の記憶では」
メトロノームの如くウインカーが一定のリズムを刻む。先生は左折のタイミングで言葉を止めて、後ろを軽く振り返る。
「俺の記憶では子犬を預かるのは奥平だったんだがな」
再開された言葉とともに口の端がわずかに吊り上がって皺が深くなる。
「そうですね、僕の記憶でもそのはずだったんですが、直輝のマンションはペット禁止だったみたいで。代わりに僕が預かることになりました」
先生は小さく鼻から息を漏らすと、「そうか」と短く一言だけ答えてそれっきり会話は途絶えた。言外に「何かあれば相談しろよ」と親身になってくれている気がしないでもない。だが、その真意を真っ直ぐ前を見つめる横顔から推して量ることはついぞできなかった。
如何にして先生の心を読み取らんやとする景からその意識を切り離したのは、他でもない彼の膝の上に抱えられていた子犬だった。子犬が居心地悪そうに身じろぎしている。
子犬を片腕に抱え、もう一方の手で膝の上に敷いているくたびれた毛布の皺を伸ばしてやる。子犬は再び毛布の上に優しく下ろされると、景の手を小さな舌でちろちろと舐め始めた。
不安に感じているのだろうか。景は恐る恐る毛だるまみたいな背中を撫でてみた。
柔らかくて温かい。子犬の息遣いが手のひらから伝わってくる。こちらの温かさも背中から伝わったのか、子犬はだんだん舐める間隔が広がって、やがて寝息を立てるようになった。
わずかな達成感に浸って窓の外に目をやる。日もだいぶ傾いてきているが、まだ明るい。ヘッドライトを点灯している車は少数だった。
ゆえに驚いた。
線路の下を潜るアンダーパスに入った瞬間、突然目の前に現れた、今まで見たこともないほど優しい顔をした自分に。
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