第5話 ねえ

 帰りのホームルームの終了を告げるチャイムが鳴って放課後を迎える。

 直輝はチャイムが聞くや否や、元気よく別れの挨拶をして教室を飛び出していった。彼は三年生の最後の大会を控えて、より一層サッカーに身が入っているらしい。


 景は今後のことを考えて、面倒だな、と少し憂鬱になりつつ、たらたらと帰る準備を整えていた。

 クラスの半分くらいが教室を出ていった頃、景もようやく帰り支度を済ませる。まだ残っていた涼也にまた明日、と告げて、後方の扉から廊下へと繰り出す。


 いつものように昇降口がある一階へと続く階段を降りる、わけではなく、今日は階段がある方向とは逆、渡り廊下の方へと足を向けた。事務室は、普段授業を受けている教室のある棟とは別の特別棟にある。だから、事務室に用がある場合は、ぐるっと校内を遠回りしなければならない。


 気だるげな足取りで廊下を進んでいく。ふと、窓の外に目をやると、部活動に勤しむ者たちの姿があった。

 野球部の独特な掛け声。サッカー部の空を裂くようなホイッスル。テニス部の心地よい打球音。陸上部の大地を蹴る鈍い響き。

 羨ましい、と思う。あんなふうに好きなことに熱中出来たら。気の合う仲間と汗を流せたら。ひとつの目標に向かって必死に頑張れたら。

 いずれも自分には似つかわしくない。それどころかそんな資格はとうの昔に剥奪されているはずだ。何もかも忘れて部活動に精を出しているところなど、想像しただけで反吐が出る。


 ぼんやりしていたら、いつの間にか突き当たりまで来ていた。ゆっくりと角を曲がって渡り廊下へと差し掛かる。西日が窓を突き抜けてリノリウムの床に明るく反射する。眩しさに思わず目を細めた。


 ゆえに、すぐには気づかなかった。

  前方から歩いてくる一人の少女に。


 その少女が誰であるか。それを認めた瞬間、景の心臓はどくん、と大きく脈打つ。全身の毛穴がぶわっと開き、額に汗が浮かぶ。


内田梨花うちだりかだ。


 クラスでは基本的に三人で行動している。自分も彼女も。

 こんなふうに一対一で対峙するのは中学三年生だったあの日以来、初めてのことだった。

 極力、彼女の方は見ないようにする。自然と歩を早めそうになる足をどうにか宥めて、何も気にしていないかのように振る舞う。

 すれ違うまであと三メートル。あとほんのわずかな短い距離が永遠に感じられた。


 一メートル。

 七〇センチ。

 五〇センチ。

 七〇センチ。


 胸を撫で下ろす。それも束の間。


「ねえ」


 突然、世界から音が消え去ったかに思えた。あるいは、彼女の透き通るような声に世界が息を呑んだか。

 梨花に後ろから声をかけられたのだ。景は全身が硬直したようにただ、その場に立ち止まる。


「犬、拾ったのね」

「……ああ、うん」


 声が遠くの方より跳ね返ってくる感じからして、彼女もこちらを振り返らずに話しかけているのだろう。


「ふーん」


 相変わらず、遠くから響いてくる。

 彼女は今どんな顔をしているのかはわからない。渡り廊下に反響して声色もいまいち掴めない。


「意外ね」


 彼女がこちらに顔を向けたのが、見なくてもわかった。

 抑揚なく発せられた彼女の言葉は、はっきりと耳に届き、直に鼓膜を震わせた。そしてその意味が脳へとじんわりと染み込んでいくようだった。 


 意外。意外だろうか。確かに意外かもしれない。いや、どうだろう。


 返事をすることが出来ない。頭の中で彼女の短い言葉を何度も噛み砕いて、薄く延ばして、もう一度丸めてその真意を汲み取ろうとする。だが、考えれば考えるほど余計にわからなくなった。


 熱い。暑くないはずなのに熱い。頬を汗がつたう。脳はとっくにオーバーヒートしているのに、身体の芯はどんどん温度を下げていく。あまりの温度差に風邪を引きそうだった。


 何分、何時間経っただろうか。実際には数秒しか経っていないのだろう。

 そのまま、彼女は返事を待たずしてその場を立ち去った。渡り廊下に響き渡る、徐々に小さくなる足音だけを残して。

 彼女の足音が聞こえなくなってようやく、世界が音を取り戻した。校庭で青春を謳歌している生徒たちの賑わしい声が再生される。


 呼吸を思い出して一つ大きく息を吐いたところで、はたと気づく。

 子犬を連れて校内を歩くことはできないから、外を回って職員玄関から事務室へ向かうべきだったことに。そのことにもっと早く気づいていれば、彼女と邂逅することはなかったのに。だが、今更悔やんだところでもはや後の祭りであった。

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