案3:横長の月
黒部先輩はときどき、部室で手紙を書いている。僕が入ると隠してしまうので内容も宛先もわからない。ひとつだけ、赤いシールが目立っていた。
「どなた宛か、興味があります」
「あまりプライベートに踏み込むものではないよ」
「部室で書くあたり、家では書けない事情がありそうですね」
「きみはめざといね。チョコをあげよう」
肯定も否定もせずにやりすごす。黒部先輩がよく使う手だ。ここで鞄から出てくる、いつもブラックサンダーチョコも少し気になる。一目で義理とわかるチョコ、パッケージにそう書いてあった。僕をどう思っているのか、こうして遠回しに何度も伝えている。悔しいので今日ばかりは反撃の準備をしてきた。
鞄から手が出て、空間と入り口がぽっかりと待っている。見計らって、見計らって。僕はポケットの浅瀬に指を伸ばした。引っかかりを準備してある。家で何度も練習した。内側の縫い目に引っかかるとか、引っかかりだけが抜けるとかの、つまらない失敗を予習した。確実に決める。反撃を叩き込む。
黒部先輩の手が出た。同時に、僕のポケットの中身も。ふたつのチョコレートがすれ違う。片方は机に、もう片方は先輩の鞄に。
「きみは、積極的だね」
「貰うばっかりでは情けないですから」
「今日は特別な日だよ、挨拶をしてからと思ったけど」
先輩が手をどかした下は、いつものブラックサンダーとは別のチョコレートがあった。GODIVAのブランドロゴは僕もよく覚えている。
「さて、きみからの品を見ようか」
黒部先輩も僕も同じチョコレートを持ってきていた。空きテナントに新しく入った店だ。生活圏が重なればもちろん同じ店を知っている。だけど重要なのはそこじゃない。ケチな黒部先輩が珍しく高級品を買ってきた。これがバレンタインデーなら大喜びだったが、あいにく冬でも寒い時期でもない。
「同じチョコ、ですか」
「そうだねえ。一目で義理とわかるチョコだ」
「え?」
「知らないかい? 誰もが高級品と知っているから、義理チョコとしての人気も高いよ」
たった2年が大き過ぎた。僕が選んだ品をそう使う人がいる。確かに僕は社交的とは決して言えない。学校でも家族でもない話し相手はといえば『プレイヤー・アンノウンズ・バトル・グラウンド』で知り合ったボイスチャット相手だけだ。画面の向こうにいる誰かと、倒したとか倒されたとか言い合いながらゲームをする。名前も顔も知らない誰かと、ゲームの話題ならできる。同時にゲーム以外の話題は何ひとつとして出したことがない。
黒部先輩に情けないところを見せてしまった。そう打ちひしがれた僕を、先輩は気にせずに封を開けた。チョコレートの豊かな香りが広がる。嗅ぐだけで少しだけ心が休まった。
「おい、顔をあげたまえよ」
先輩の口が、横長の月になっていた。チョコレートをつまみあげて目で舐め回す。焦茶色の宝石があるなら、きっとこんな絵になる。
「きみは知らなかったみたいだから、ふふ、ありがたく食べよう。交換もするかい?」
今日がバレンタインデーなら、これ以上ない喜びかもしれない。だから今から冬に備える。これ以上を提示するために。
*
黒部先輩は応援ボタンを押し、鞄へ手を伸ばした。化粧ポーチの中からブラックサンダーチョコを出す。今日は2個も。
「きみにも分けてあげよう。こうまで求めているとは思わなかった」
「決してそんなつもりで書いたのでは」
「私がそんなつもりになった。理由は十分だろう。受け取りたまえ」
両手で器を作り、床を見つめて待つ。剣を戴く姿勢に、黒部先輩はお上品な笑いを漏らして、ブラックサンダーチョコを置いた。同時に、指が手に触れた。落とせば触れないのに、側面を持てば触れないのに、黒部先輩は底面で持って、置くときに触れた。
「こんな話を読んだら、期待するのが礼儀というもの。来年の2月に私たちがどうなっているか、たのしみにしてるよ」
先輩は封を開けた。僕も開ける。先輩はひと口で食べていたので、もっと小さいと思っていた。僕は前歯を半分の位置に突き立てた。難関な固さではないが、崩れるような脆さでもない。
黒部先輩は今日に限って、口に含む前に中身を眺めていた。作中と同じ、宝石を眺めるように。惜しいのはブラックサンダーチョコはごつごつしていて、宝石と呼ぶには難がある。削り出す前の原石なら当てはめられるかもしれない。
「横長の月とは、こんな口かな」
僕はきっと情けない顔をした。先輩の笑い声がそう教えた。答える前にチョコレートの半分を齧り、咀嚼が全てを隠した。
先輩の歯は月と同じ色をしていた。
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