提琴と君と僕の初恋と

淡雪

提琴と僕と君

 僕は、幼い頃からヴァイオリンを習っている。僕自身は何故習い始めたのか覚えていないのだけれど、両親が言うに僕がやりたいと言ったらしい。幼少期教育に熱心な両親に連れられて体験に行った沢山の習い事の中で、僕が唯一興味を示したのがヴァイオリンだったのだ、と、何度話されたか分からない。

 結局、ヴァイオリンは平凡な僕が唯一得意なこととして心の拠り所となり、中学二年になった今でも僕はヴァイオリンを弾き続けている。その腕は、小さなコンクールなら必ず銀賞以上を貰うくらいには上達している。だから、幼稚園、小学校、中学校とヴァイオリンのことばかり考えて過ごして来た僕に、友達と呼べる人が一人もいないのも、考えてみれば当然のことだ。


「うわぁ、君凄く上手いんだね……!」


 僕の通っている音楽教室には、予約すれば自由に使える練習部屋がある。家ではささやかな圧力プレッシャーを感じていた僕にとって、ここが誰にも邪魔されずに好きなことを好きなだけ出来る安息の地だった。

 同じ方向を目指す同年代は皆、僕の演奏を聞くとそっと離れて行った。普通なら天才だなんだと人に囲まれるのだろうが(僕は天才と言われるほど上手くは無いのだけれど)、無愛想な僕に周囲の人は近寄らなかった。気付けば僕は友達を作ることを諦め、一人淡々と自分の仕事さだめを果たしていた。僕は友達に飢えていたのかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。だから、控えめに開けたドアの隙間から顔を出し、感想を無邪気に告げてきた君に、僕の中で自分の聖域を侵された怒りよりも話しかけられた嬉しさが勝った。


「そんなことはないよ。僕レベルなんて、ちょっと外に出れば幾らでもいるんだ」


 ただ、僕は、同年代の女の子に対しての接し方を絶望的に知らなかった。

 あ、ミスったかも。この子もきっと、僕から離れて行ってしまう……

 僕がそう思ったのと同時に、けれど、君はふわっと笑って言った。


「それ、周りの人に言われてきたの? 私は、君の音、好きだけどな。凄く凄く優しい音。君の性格が滲み出てる気がする」


 拒絶されなかった安堵と、言われたことの強烈さに、僕は顔が一気に熱くなるのを感じた。その子にとっては軽い褒め言葉だろうに、分かりやすく動揺してしまう僕はきっと無様だ。僕は何処か君の目の届かないところに逃げ出したいような衝動を感じた。

 その時。唐突に、君のいる廊下から女の人の声が聞こえてきた。


「オト! 何してるの? 準備終わったらすぐ来てって言ったでしょ?」

「あ。そろそろ行かなきゃ。私、きっとまたここに来るから、また、今度ね。ばいばい!」


 君は早口にそう言って、ばたばたと走り去った。


 オトって、言うんだな。「音」だろうか? 音楽が好きそうなあの子にぴったりの名前だ。また、と言っていたが、また話せるのだろうか。その時までに、もっと上手く話せるようにしておかなきゃ。


 支える者が居なくなってパタンと閉まるドアを見ながら、そんなことを考えていた。多分、この時既に、僕は君に恋をしていた。




「また会ったね」


 君――オトが、ヴァイオリンを弾いている僕に話しかけたのは、意外にもそれからすぐのことだった。


「ああ、オト、だっけ? また会ったね」


 オトは、僕に名前を言われてかなり驚いたようだった。


「私、君に名前言ったっけ? とにかく、私はオトで合ってるよ。中に入っても良い?」


 僕は、今日はこの前よりは長く話せそうだな、なんて考えながら、どうぞ、と言った。


「ヴァイオリン、いつから弾いてるの?」


 すっかり聞かれ慣れた質問も、君からされたとなれば僕の耳には新鮮に聞こえた。


「物心ついた時には、既に弾いてた」


 テンプレ化した答え。普通の人ならマウントを取られた、などと思って立ち去っていく答えにも、思った通り君は興味深そうに頷いてくれた。


「それは凄いね。だからそんなに上手いんだ……。良かったら、一曲聞かせてくれない? 今弾いてたので良いからさ」

「良いよ」


 誰かのために演奏するのは、初めてだ。ヴァイオリンを肩に乗せながら、こちらを見ているだろう君のことを考える。

 一つ呼吸をして、僕は弦を動かし始めた。曲は、パガニーニ作曲のヴァイオリン協奏曲 第2番3楽章ラ・カンパネラ。僕が最近挑戦している曲。


 君の視線を意識してしまって、弦がいつもよりブレているな。そう考えた途端、更に弦がブレて、音が濁ってしまった。

 一旦、オトのことは考えないようにしよう。


「すごーい!」


 一曲を弾き終えて、僕はそっとオトの様子をうかがった。

 目をつぶって聞いていたらしいオトは、僕が見てから更に一拍置いて目を開け、その瞬間にぱちぱちぱち、と勢い良く手を叩きながら、叫んだ。


「ありがとう」


 誰かに、こんなに清々しく褒められたのは久しぶりだ。多分両親に幼い頃演奏を聞いてもらった時以来。最近の僕は、あまり両親にヴァイオリンを聞かせないから、先生の褒め言葉と言うよりは批評という表現が適しているような言葉のみを頼りに音を作っている。


「やっぱり君、才能があるんだね」


 この言葉もやっぱり何度か言われたことがあるけれど、今までの人達と違い全く嫌味に聞こえなくて、僕は嬉しかった。


「才能、というよりは幼い頃からやってるからだと思うけど。それでも嬉しいな。ありがとう」




「オトは、何か楽器をやってるの?」


 いつか僕が聞いた時、オトは困ったような顔をして言った。


「ヒロキくんに聞かせられる程じゃないから」


 それからも、僕はオトの演奏を聞いてみたい、と何度か言ってみたけれど、オトは頑なに首を振って、僕は諦めた。




 僕は、オトのことが好きだった。中学二年生にして、初めての恋。僕は例に漏れず浮かれて、君の一挙一動を信者のように追いかけた。君の素直さが、僕は好きだった。自分には無いと分かっているから、更に。

 正直、これまで僕は、自分は恋なんてしないんじゃないかと思っていた。僕はひねくれているから、他人に対して素直に接することが出来ないし、自分には無い他人の良いところを直視することもできないんじゃないか、と。それは違うと、オトに恋することで分かった。

 恋とはもっとどうしようもなく訪れるもので、時に自分が自分では無いように感情が昂り、自分よりも相手のことに価値を置くようになるものなのだ。僕は、初恋を充分に楽しんでいた。



 初恋とは、実らないものだ。実らなかった初恋は、淡い思い出として、その人の心に残りそっと影響を与え続ける。これまた例に漏れず、僕の初恋もそうだった。



 オトと知り合い、僕が恋心を自覚し、オトが練習室に来るのが決まって水曜になり、更に少し時間が過ぎた、中学三年の秋のこと。

 その日、僕は少し大きいコンクールに出ていて、幼く世界が狭かった頃とは違い、ヴァイオリンに於いても僕がであることを自覚した。僕が言っていた通り、僕程度は幾らでもいた。凡人は、どこまで行っても凡人だ。スタートラインに立つのが早かったというだけでは、追いつかれてしまうのは当然のことだ。そして、僕を追い越した後も当然天才達は歩みを止めない。だって僕は有象無象の一部だから。目を止めるに値しない、踏み台の一つ。

 表彰の時間は、僕の気持ちとは関係なしに訪れる。いつも舞台に立っていた僕は、今回は観客席に座っていた。表彰される人を見るのって、こんな気分なんだな。参加者の演奏は全て聞いていたし、かなり打ちひしがれていたので、僕はこれ以上自分以外が評価されるところなんて見ていたくなかったのだけれど。不満に思いつつ、僕は一凡人のつとめとして表彰される天才達を見ていた。

 そして、オトを見つけた。


 金賞、タカナシオト。演奏曲、パガニーニ作曲ヴァイオリン協奏曲 第2番3楽章ラ・カンパネラ。


 僕が、初めてオトに演奏した曲だった。先程聞いたラ・カンパネラはオトの演奏だったのだ。僕はわざと演奏者が良く見えない位置に座っていたので、気付かなかった。

 オトのラ・カンパネラは、思い出すと僕なんかよりも何倍も上手かった。オトが僕の演奏を、とりわけラ・カンパネラを凄い凄い、と褒めていたことを思い出す。

 オトは、いつからヴァイオリンを弾いているのだろう? ラ・カンパネラを選んだのは、何故なのだろう? 僕の演奏を上手い上手いと言い、自分が更に上手いことを隠していたのは……何故なのだろう?


 オトは、本当に僕を上手いと思っていたわけじゃ無かったんだな。僕は、絶望しながらそう結論付けた。

 お世辞だった。良くあることだ。そう。良くあることなはずだ。だから大丈夫。僕は、傷付いてなんていない。



 そのコンクールは、水曜日だった。オトが、先週「来週は予定があってここに来れそうにない」と話していたことを思い出す。その時、僕もコンクールがあって来れないから都合が良いな、と思っていたことも。僕は、僕の間抜けさを呪った。

 僕の中にあった無邪気なオトの姿は、今では全く違う姿となって僕に迫っていた。

 来週、僕はどんな顔をしてオトに会えば良いのだろうか。

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