水の子

花房

生誕


 ここにいることに気づいたのはいつからだっただろうか。


 ぼくが始まった日の記憶を想起してみると、思い起こされるのは茫洋ぼうようと広がる何も無い黒い空間だけだった。

 上も下も見えるもの全ては黒。ぼくというものも黒で、世界とぼくという境界線は目視できない分、酷く曖昧あいまいなものだった。気を抜けばすぐにでもこの黒の中に溶け込んで、ぼくはぼくだったことすら忘れてしまいそうだ。

 ぼくはそのひろがる黒の海の中、ある日ぽっかりと黒点こくてんのように浮かび上がっただけに過ぎない。ぼくはまだこの世界であるともいえるし、ぼくが自分を『ぼく』だと言わなければ、誰も何もぼくを証明できない。

 黒の中に生まれた黒は、誰に見つけてもらえるだろう。目に見えない蠢きを、一体誰が見つけられるというのか。

 黒い海は寒い。氷の中に身を浸しているように、てつき、突き刺さり、えていく。乱雑らんざつに捨てられた針山はりやまに沈んでいるかのような痛みの中、僕は何日も何日もそこで無為むいに時を過ごした。

 音もなくうねりを繰り返す海の中で、ぼくは少しずつ黒い海の水を吸い、崩れやすい自分の身体を粘土のようにね続け、ひっそりと『ぼく』というものを作り続けていた。

 少しずつ、少しずつ、誰かが捨てて隠し、溜まり続けて水嵩みずかさを増す悲哀ひあいの海を漂いながら、ぼくはぼくの身体をぎのように繋ぎ合わせ続けた。


 悪夢を通り越した無我むが涅槃ねはんを食べながら、ぼくは気づいたことがある。

 この水は黒ではない。一見いっけん墨汁ぼくじゅうのような色をしているのだが、海から切り離し孤立こりつさせてみると、水は海としての終わりを迎える。ただの『水』となったそれの輪郭りんかくを見ると、その水は淡く透き通った青色をていしていたのだ。

 ぼくは気付く。この青色こそが、この海の本質となる色なのだ。悲壮ひそうはらあいの色、それがあまりにも濃くなり過ぎて、美しくもはかない色は、ねっとりと沈んだ黒にしか見えなくなってしまっていた。

 こんなになるまで、この場所に水を捨てた誰かは、青い感情を溜め込んでいたのか。

 ぼくはぼくの身体が青い輪郭りんかくほそく光らせているのに気づいて、かなしくなった。

 悲壮ひそうの感情は、果ての見えない海になるまで、誰かの心をむしばんでいたのだろうか。

 それならば、悲哀ひあいから生まれた黒点こくてんであるぼくは、ぼくという海を捨てた誰かの心を、同じくむしばむことになるのだろうか。


 本質の色をに宿し、誰かの暗くよどんだ暗闇くらやみを、あいの色で薄く照らす。

 どこまでも暗いこの空間は、ぼくの小さな身体の光では、到底とうていてを照らすことは叶わなかった。そもそも、この場所に果てがあるのかどうかすら疑問ではあるのだが。

 おのれの半径10センチ程度を照らすのがやっとである小さなあお光源こうげんは、しっとりと濡れた身体からだるようにして、動き出した。

 それは明確めいかくな意志をともなっているように見えて、どこかいびつなものだった。海に沈む数多あまたの感情をむさぼり、ぎ、そこから人の感情の機微きびを真似して、どうにかこうにか形にしたつたないものに過ぎない。

 でも、今はそれで良かった。今のぼくには、それで十分だった。

 光ひとつ無い暗闇で、波は静かに打ち寄せては引いていく。その波の流れに身を任せているうちに、ぼくの身体はよどんだ海の無意識によって、初めて海の外側へと打ち上げられた。

 ちゃぷん、とコップのふちを水がすべるような感触を残し、ぼくの身体からだを取り巻いていた黒くあおい水が引いていく。悲しみが遠ざかるように、ぼくの身体中にまとわりついていた誰かの絶望が、こだまのように遠ざかっていった。赤子あかご羊水ようすいから産まれでたような、母親のたいで過ごした永遠にも似た安寧あんねいを捨て去った時のような、そんなはかない別れのような感情が、ぼくの胸中きょうちゅうを埋め尽くしていた。

 お母さん、その言葉は知っている。ぼくがお母さんと思っているこの海の水は、とても冷たい。その海の水から産まれたぼくの身体は、同様どうように冷たい。切り離された海は、分かたれた水となって、歩き出すことにした。

 足は無い。けれど、小さな手はある。使い物になるのか少々疑問の残る大きさではあるが、物は使つかようだ、生きていればきっと上手うまい使い方を見つけられるに違いない。

 そうだ、ぼくは生きている。産まれたのだから。


 ぼくは初めてり立った陸を歩き出した。ガラスの上をうような感触がする。陸もやはりつめたく、みがかれた大理石だいりせきのように、美しい感触は白々しらじらしい。

 虚構きょこうかためられた世界を、ぼくは歩む。ぼくを取り巻く優しいうそは、残酷ざんこくな現実をおおかくす。

 たいから出たあい断片だんぺんは、ごろされた小鳥ことりのように、せま鳥籠とりかごの中で夢を見ている。


 そこが、ぼくが最初に見た世界だった。

 やがて海の一端いったんになるであろう、彼女のうちむしばむ、心象しんしょう風景ふうけいだった。


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水の子 花房 @HanaBusaxxx

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