今朝

 夜に小雨が降ったらしく、魔物たちの村には湿った獣の臭いが立ち込めていた。まだ、酒の臭いもほのかに混じっている。


「雨の影響はほとんどないだろう。こいつらの脚なら、少なくとも明日までには船着き場に着く」


 しかし、昨晩それなりに酔っていたはずのサクラには、昨日の残り香はなかった。さっぱりした顔をして、朝からいつも通り、仕事の指示出しなどを行っていた。


「急ぐ旅ではありませんから、私たちはいつになっても構いません。……それよりも、安全と快適さを重視して頂けるとありがたい。具体的には──」


 車のそばでは、案内役兼車の動力として選抜された獣人が、あくびをしながら待っている。リアの言葉の途中で、獣人に軽く挨拶しつつ、カラノは車の中を覗き込んだ。普段作物や盗品を運んでいる荷車の流用だ。木製の箱に、座布団が二枚敷かれている。ほとんど素のままだ。車の振動を軽減させられそうにはない。

 リアの言葉に割って入って言った。


「リアは体が軽いから、石に乗り上げた拍子に吹っ飛ぶかも知れない。手に傷があるから、今はつかむ力も弱まっている」

「あぁ、なるほど。すると、座布団もう少しと、縄もあった方がいいか。少し待っていてくれ。すぐ戻る」

「一人では大変だろう。俺も行く」

「いってらっしゃい」


 狙った訳ではないが、結果的に二人になった。

 サクラが向かう物置の検討はついていた。並んで歩き始めたものの、微妙な沈黙が降りた。

 話し込むには短く、無言で歩くには少し長い距離だ。

 何か言うべき言葉があったはずだと考えるが、月並みな別れの挨拶しか思い浮かばない。


「ガフミで用事を済ませたら、その後どうするのかは、決めているのか?」


 明るい調子でサクラが言った。


「いや、全く。言われて気がついた」

「やっぱり。リアは目的を決めた旅をしなさそうだし、お前はリアにしか興味がないし」

「そんなことは。まあ趣味らしいものもないが」

「じゃあさ、行かなくてもいいけど、せっかくだから教えておく。ガフミの城から北に行ったところに、ジュウレという小さな街がある。おすすめだ。ガフミから近い割には住人が魔物に対して友好的だし、西側にある森林に住み着いている魔物も、温厚な奴が多い。それに景色も良い。魔物たちがきちんと森を手入れしているから」

「良いな」

「良いところだ、本当に」


 場所だけでなく、人に薦められるようなものを知っているサクラも、未来に期待を持てる自分も、良いと思った。


「行くよ」


 ジュウレについて聞いているうちに、物置についた。縄や座布団、縄でこすれないように柔らかな布などを、何がリアに良いかと相談しながら取り出した。

 荷物を抱えて、斜め後ろからサクラの横顔を見ながら、来た道を戻る。

 また少し、話題に迷う時間があった。だが、今度は自然に言葉が出て来た。


「ジュウレに着いたら──その後も話したいことが出来たら、サクラ宛に手紙を書く。届くかは分からないが」


 赤い目はちらと一瞬カラノを振り向いて、また前を見た。口元には笑みがあった。


「期待しないで待ってる」


 踏み固められた地面に咲く花のような横顔だ。

 美しい人だと、改めて思った。


 車に戻り、出発の準備を済ませた。獣人がくびきをつかんで、車を牽き始める。地面から振動が伝わって来るが、敷き詰めた緩衝材のおかげで、ある程度は軽減されていた。

 ひらりと舞うように、リアの手がサクラに別れを告げた。


「サクラさん、お元気で。あなたの道行きに幸多からんことを」

「世話になった。ありがとう」


 早朝の湿った光が、赤い髪を照らしていた。


「会えて良かった、リア、カラノ。あなたたちのことを、私は生涯忘れない」


 少しずつその姿は小さくなっていった。完全に姿が見えなくなるまで、サクラはそこに立っていた。


 山賊の集落を出て、荷台の揺れに耐えながら行き──空の色が橙色に変わり始めた頃、木々の隙間から、海が見えた。

 大小様々な船が、いくつも浮かんでいる。大きな港と街も確認出来た。

 あの港から、サクラに紹介された船頭の船に乗り、海を渡ってガフミに入る。関所越えはさして難しくないと言われたが、その後は分からない。リアを捕らえたい人々や殺したい人々は、ますます数を増やして向かって来るだろう。

 そしてリアがどうしたいのかも、カラノは知らない。

 隣の肩を叩いた。


「海だ」


 村を出てから、最低限の返事をするだけで、ほとんどずっと沈黙し続けていたリアは、外套の頭巾を持ち上げて海を見ると、顔をしかめた。

 何も言わずにまた頭巾を被り、一節、囁くように歌う。心地よいのに、痛切な寂しさも感じさせる調べだ。

 元々、海を渡る道程を避けるよう言ったのは、リアだった。


「昔ここで何があったのか、聞いてもいいか。アンタがこれから、何をするつもりなのかも」


 リアの過去について、カラノが知っていることは少ない。レウという名。その名が広く畏れられていること。現在のガフミ王がリアの息子で、息子と先代の王のことを、恐らくまだ特別に思っている。

 サラサと知り合いだったことを鑑みれば、呪いを受けたのもその時だろう。

 そして、呪いを受けたということは、つまり、神に世界の均衡を壊しかねない力と判断される程に、人間を大勢殺している。カラノが生まれた時、産声で親族も含めて島を一つ沈めたように。


「言いたくなかったらいい」

「いいんだ」

「聞けても聞けなくても、過去にアンタが何をやっていても、いいと思えるようになった。俺のすることは変わらない」

「それ、知る必要ある?」


 拒絶のような、見定めのような、微妙な調子だった。


「今ここに、私と一緒にいる。カラノさんはそれで満足しているのでしょう。それなら、私たちがここにいること以外には、何もいらないのではないかしら」


 肯定を返しながら、ぼんやりと考える。

 リアの過去について知ることは、ずっと重要な課題の一つとして、カラノの頭にあった。理由はいくつもあった。好きでいていい人物なのかという葛藤や、他人からリアについて聞かされる腹立たしさ、単純に好きな相手について知りたい思い。

 だが、深く知ることを恐怖して、留まっていた。

 知りたい理由を連ねるだけでは、足りないように感じた。今、改めてリアに問いかけたのは、元々持っていた理由だけが理由ではない。


「一番はけじめだ。今まで聞かなかったのは、知ろうと思わなかったからではない。アンタと深く関わりたくなかったからだった」

「は? ……どの口が。は?」

「アンタがガフミで何をしていても、知らなかったで済ませられるかなと」

「ああ、なるほどそういう」

「冗談だが」

「冗談かよ」

「気持ちの上でも一線は引いていた。少し前なら、俺はアンタが死んでも泣かなかったと思う。悲しみはしただろうが……好きな詩の登場人物が死んだ、くらいの距離感で」


 車を牽く獣人がいるため、災いと呪いについては口にしない。何も知らず聞いている方にしたら奇妙な会話だろうが、獣人は黙々と車を牽いてくれていた。


「だが、今は、泣く。それも泣かないように、もたかが詩の登場人物、と努めて距離を置こうとしても、泣いてしまうだろう。アンタの思いを、俺は自分のことのように感じてしまう。そこまで思い入れたら、線引きにはもう意味はない。……だったら、いっそ、真剣に詩を聞いて、真剣に泣く方が良い。そういう心の変化があったから、その一歩として聞いた。俺自身のことであって、アンタに強要する気はさらさらないが」

「……」


 海のある方角を見たが、もう木々に隠されてしまっていた。

 がたん、と車が石につまずく。


「疲れていないか、リア。港に着いたら慌ただしくなる。今のうちに、休憩を入れてもいいかも知れない」

「カラノさんは?」

「俺は大丈夫」

「じゃあ、いい。このまま」


 しばらくして、また海が見えた。先程よりも日の輝きが強くなり、波が光っていた。澄んだ青と入り混じって、得も言われぬ階調を織りなしている。

 住んでいた街で見ていた海とは、ずいぶんと違って見える。


「綺麗な海でしょう」


 考えていたことを見透かしたように言われた。どこか寂しさの混じる声だった。


「かの美しき死の海ならば、月の囁きまでも聞くことが出来るでしょう。……綺麗なのは、小さな生き物が少なくて、光がよく透るせい。魚共には少し生きづらい海だけれど、その分漁師も来ないし、加えて海の魔法使いが住んでいるという伝説もあったから、昔は多くの魔物がここを寝床にしていた……と。私も、聞いた話。私が生まれた頃には既に、ここは海魔の楽園ではなくなっていたから」


 話を聞いて、老いた漁師たちが同じような話をしていことを思い出した。その記憶に引きずられて、さらに会話がよみがえる。

 魔物ばかり住む海。そのそばにあるガフミは、集落と呼ぶのが精々というくらいに、小さく地味な場所だった。

 だからこそ、一代にして集落を、今の巨大な港街に発展させた人物に対して、ガフミの人々は並々ならぬ畏敬の念を抱いているのだという。

 重苦しいため息の後しばし、言葉は途切れる。


「私には、カラノさんが進んで、自分に枷をつけたがっているように思える」


 外套で表情は隠されている。


「愚かだと思う。けれど……私も、その重みの心地良さが、まるで分からない訳ではない」


 木々に隠れ、現れる度に、海との距離は近づいていた。日もまた海を目指して落ちていく。


「それに、退屈な船旅にちょうどいい詩になるかも。だから続きは、また明日」


 楽しみだ、と言った。上手く声が出ず、囁くような声になった。だが、リアは「どうぞお楽しみに」と笑った。

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