小雨

 葉ずれの音しか聞こえない。虫の音も獣の声も魔物の気配もしない。

 トウジ山がこうも静かであるのは、サクラが知る限り初めてだった。彼の人は本当に、たった二人を除いて、山にいる全てを、眠らせたのだ。

 恐ろしい。しかし、立ち止まることも出来ない。起きてしまったからには、待ってなどいられない。

 保管所もまた静かだった。人がいるとは思えない程に。だが、そこには確かに、人影があった。

 白と青の対比が目映い。空間から浮き出ている。一瞬目を奪われたが、それは本当に一瞬だった。

 足元に、人が、倒れていた。

 首元は赤く、血がついている。

 体中から力が抜けた。


「あ……」

「し、死んでないから! 殺してない! 寝ているだけ!」


 珍しく泡を食った態度が真実らしく感じられて、ほっと胸に温かなものが広がる。ただ、実際に見てみなければ分からないと思い直して、近づいた。まだ少し足は震えていた。

 胸は上下しているし、顔色はそう悪くない。やはり首に血はついているが、傷跡は見当たらなかった。そして落ち着いて見れば、リアの手の方が血塗れだ。


「サクラさん。毛布はある?」


 夜番が使うものがある。サクラが無意識に毛布のある天幕に視線を向けると、リアは自身で取りに行った。

 見つけて戻り、甲斐甲斐しくカラノにかけてやっている。


「御身は、負けたのか?」

「いいえ。……勝ったとも言い難いけれど。きっと私と、まだ、行くつもりでしょうから」


 自嘲気味な笑みだが、少し泣きそうにも見えた。


「私が弱いばかりに。……」


 視線が、謝意を伝えて来る。

 だが、サクラ自身は実のところ、勝敗にはあまり興味がなかった。どの道カラノはいなくなる。二人の生死と、それぞれの思いが遂げられるかどうかは気になっていたが、それはもう分かっている。

 今の問いで確認したかったのは別のことだ。

 つまり、リアは従属の立場としてではなく、優しさで毛布をかけてやったのだと、寝顔に目を移しながら思う。


「そうか。では案内をする者たちには、同行する人間が増えたと伝えておく」

「お手数をおかけします。色々とありがとう」

「元はと言えば、私たちがここに御身を連れて来てしまったせいだ。礼には及ばない」

「そうでした。とは言え、礼は礼として」


 地面を滑るような動きでリアが近づく。思わず身を引いたが、あっさりと距離を詰められた。

 血のついていない方の手が、サクラの手を恭しくつかむ。薬指の先にリアの唇が軽く触れた。

 耳馴染みのない発音で、ぼそりと何か言うのが聞こえる。恐らくはリアの種族で使われていた言語だ。意味は分からないが、胸に温もりが広がる。

 微笑みは、村にいる多くの親たちを思わせた。


「おまじない。あなた自身の鼓動が道しるべになる。迷いが生まれたら、この手を胸に当てて思い出して」


 単なる礼ではない。優しさは自分にも向けられている。

 そっと離されて、瞬く間に薄れていく手の感触を思いながら、憐れを覚えた。

 ほとんどの生物に勝る力を持つ魔物が、人間に通じる優しさを知っていること。その魔物がかつてのレウであることが、サクラを複雑な気分にさせる。自分が、その優しさを享受していいものであるのかも分からない。


「リア。一つお尋ねしてもよろしいだろうか。失礼な問いであるかも知れないのだが」

「どうぞ。失礼だと思ったら答えないから、ご遠慮なく」

「では、恐れ多くもお尋ねする。御身は、御身の意志で……その道しるべに従って、ガフミに向かっているのか。それとも、アリステラのような外圧に追われた結果、ここにいるのか。お聞かせ願いたい」


 リアの顔には笑みが浮かぶ。見かけ上、笑みの形をしていても、その内側にある感情は分からない。魔物は人間ではない。様々な魔物と触れて来た経験から、リアの人となりを知った今でも、サクラは完全に警戒心をなくすことは出来ない。自動的に、捕食のための釣り餌である可能性が、頭の片隅に立ち上がる。

 幸い、怒らせはしなかったようだ。


「そのどちらでもある。鼓動がこの土地を呼んでいた。けれど、追って来る人がいなければ、道行のどこかで臆して、道を逸れていたかもしれない」

「臆す? 何故──あ、いえ。申し訳ない」

「人間の街というのは、多くの魔物にとって恐ろしい所ではないかしら」


 冗談めかした言い方だったが、本音らしさもあった。


「まして、かつて囚われていた街ともなれば」

「……失礼した」

「ふふ、ごめんなさい。性なのか、どうも虐めたくなってしまって。お気になさらず。……実際、臆すと言うと、少し違うのかも知れない。私にも分からなくて。カラノさんなら、この人妙に聡いところがあるから、良い言葉を教えてくれるかも知れないけれど」


 視線がカラノに向く。そう言えば、何故こいつは寝ているのだろうと不思議に思う。


「そう言えば、サクラさん酔い潰れたって。大丈夫?」


 不意に変わった話題に、その内容に、息が詰まった。


「あ、あぁ……。大丈夫、です。ご心配をおかけしてすまない……」

「体に支障をきたしていないのであれば、申し分ありません。むしろ、最後にその愛らしいお顔が見られて嬉しいくらい。たまには良いでしょう、のぼせてしまうのも」


 頬に血が上る。一眠りして酔いは覚めたが、記憶はしっかりと残っている。

 むしろ、忘れなくて良かったとも、密かに思う。らしくなくても、欲しいものに手を伸ばすと決めた夜だった。上手くいかないこともあったが、カラノのおかげもあって、自由でいられた。


「うん。良い、夜だった。したいことが出来た。時間をくれてありがとう、リア。他にも多くのことを、感謝し切れない程、感謝している」


 軽く目が細められて、絹で出来たような手がサクラの首の後ろに回される。熱っぽく、柔らかな体に包まれる。


「良かった」


 耳元で、悲しくなるような声がした。

 人間への憎悪はないのか、何故優しく出来るのか、何のために再び、因縁のあるガフミへ行くのか。直接的な問いかけは避けてしまったが、疑問はやはり尽きない。

 だが、それを聞くべきは、自分ではない。

 リアの背に手を回した。


「おや、雨」


 ふと呟くと、ぎゅうと少し苦しいくらいに力を込めてから、リアは腕を離した。


「今夜は雨は降らないと……」


 村の魔物たちの言葉を思い出しながら言った途端、サクラも、額にぽつりと雨が落ちるのを感じた。空を仰ぐが、雲は一つもかかっていない。

 はらはらと花びらのように雨が降り始める。


「呼んでしまったみたい。難儀な人」


 カラノの顔を覗き込みながら、リアが言う。目元を雑に拭う仕草を見て、カラノから聞いた話を思い出した。胃の腑の冷えるような心地がした。


「災いと、呪い……」


 もし、このまま泣き続けたら、山は海に沈み、そしてカラノは魚になる。


「聞いたの。忘れた方がいい。面倒事の種でしかないから」

「恐れ多くも……」

「忘れられる訳なかったか。好きな人のことですもの。私としたことが、馬鹿を言った」

「今更なんだが、その手のからかいは、少し控えては頂けないだろうか」

「からかい?」

「……何でもない」

「この世界を作る時、神は無数の間違いを犯した。その間違いの中には、この世界を滅ぼしかねないものもあった。……災いについて口にするのは、そう言うのと同じことだと言えば、サクラさんならお分かりになるでしょう」


 神教において、神は間違えないことになっている。例えば教会でそう口に出して言えば、厳しく折檻されるだろう。

 言うだけであれば、それだけで済む。

 悪魔、の二文字が頭に浮かんだ。

 単なる悪口として口さがないものに使われることもあるが、その呼称は、神教においては特別な意味を持っている。神教の教えを破壊しかねないもの、神の在り方を変えかねないもの、神教に代わる新たな宗教を生み出しかねないものを、そう呼ぶのである。

 そしてその所業は、歪んだ理論による洗脳や、魔術による強制的で大規模な精神操作によって成される、と説明されている。リアが悪魔と呼ばれる原因は、引き起こした事件の他に、この辺りにもあるだろう。

 だが、神教に対して少し疑り深い目を持っていれば、まだ他にも悪魔と呼ばれる条件があることに気がつく。

 神の欠点を証明するものもまた、そう呼ばれる。

 世界にとって何の意味もなく、容易く世界を海に沈め得る、人間。

 もし、神教の人間たちが、カラノという存在の正当性を証明出来なければ、カラノもまた悪魔と呼ばれるだろう。そして神教にひびを入れる前に、闇に葬られる。当然、それを知っている人々も道連れだろう。


「体を冷やすといけない。じき止むでしょうから、そこの納戸で雨止みを待ちましょう」


 逃げるように、軽い調子の誘いにうなずいた。


「あ、カラノはどうやって。引きずるか」

「放って置いてあげましょう」


 毛布までかけていたくせに、急に突き放したと不思議に思う。問いかける前に、リアは苦笑しながら答えた。


「これもたぶん恋だから」


 雨は五分程で降り止んだ。心なしか空気からは、生臭い、海の匂いがした。

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