火花
「この鈴が鳴ったら開始。それでいい?」
高級そうだが所々欠けた器の、縁から縁へ丸太橋のように渡された枝の中頃に、鈴のついた紐がくくりつけられている。
手燭で、枝の紐のかかった箇所へ火をつける。枝はじりじりと燃えて、ふと折れた。同時に鈴が落ちて、器と触れるからんという音と、鈴の音が響いた。
「準備の時間がいるなら、その分長くするけど」
「準備?」
「罠の点検とか」
「ない。俺は一分もあればいい」
使うのは、柄と柄を紐で結びつけた、呪いの双剣だけだ。
「左様で。一分は情緒がないから、五分くらいにしましょう」
器の中の鈴を拾い、束ねた枝に結びつける。器の底に燃え種を広げた。
どこに置くかと、周囲を見渡す。
宴会の夜までも、保管所の警備をしていた魔物たちは、今は保管所の隅で眠っている。物見櫓や天幕、倉庫などが立ち並び、中央から大きな焚き火がそれらを照らしているが、どこか寒々しい雰囲気があった。
単に、カラノ自身の心持ちのせいかも知れない。
近くの天幕の中に器を置いた。
燃え種に火が移される。火の舌先が、枝に触れる。
決着は一瞬でつくだろう。
リアの声が早いか、カラノの刃が早いか。それだけのことだ。
物見櫓のそばにリアが移動する。ここに来た最初の日、魔物たちをひれ伏させて、女王のような佇まいでそこに立っていたのを、ほんの数日前のことのように思い出す。
それならと、カラノはその日、リアと向き合った場所に立った。間に障害物はない。距離は普段の歩幅で三十歩程。
「もっと近づかなくていいの?」
「情緒がないだろう」
「よく出来ました」
最後の会話は、短く終わった。
両手に剣を持つ。
ふと、鈴が鳴った。
刹那頭を殴られる。声が響く。地に伏せよ、と命じられる。
息、まばたき、生理的な指令にすら割り込んで、頭を抑えつけられる。
先んじて地面を蹴っていなければ、居た場所にそのまま縛られていただろう。跳び出した勢いで体が動いている間に、手元で双剣をぶつけ合った。歯の根を震わす耳障りな金属音が、支配されかかっていた思考に亀裂を生む。
まだ、リアの声は喉奥にある。今カラノに届いているのは、恐らく、声の前に吐き出された、人間の耳では聞き取れない程に微かな息の震えだけだ。
これから、この震えが声に変わる。
一歩、地面を踏み、膝が折れる前にすぐさま跳ぶ。
命が叫ぶ。単なる繰り返しでは、リアとの間にある距離を超えられない。打開の一手を打たなければならない。
例えば、剣を片方飛ばしてしまうのはどうだと、経験が言う。狙いが逸れたらリアを殺してしまうと、親愛が拒む。殺しては駄目なのかと、虚無が嘲笑う。
その迷いの内に一音。
左足が奪われかかった。
反射で左手を地面につき、咄嗟に右手もついた。力づくで前転して、無様に転ぶことは避けたが、態勢を立て直そうとした時には、格段に足が重くなっていた。不愉快な感覚ではない。むしろ優しい。微睡み、陽だまり、満腹、柔肌、潮騒、歌声。内から引きずり出された穏やかな記憶が絡みついて来る。
そして少し、悲しくなった。
この心地よさも、リアにとっては、自分を一処に縛り付ける不自由なのだと気がついた。
リアの目を見た。この暗さでは、きっとリアにはカラノの姿は見えていないだろう。だからリアのためではない。自身のために、見る。
既に三音。
足を動かす。
思考は形を成していない。カラノ自身の思考と、リアの指令が混ざり合い、大渦そのものになってしまった。
だが、動けている。
距離を縮める。
逆らうのではなく、大渦のその流れよりもさらに速く行けばいい。この先に、一時の心地良さよりも、リアの愛よりも手に入れたいものがある。最も自分が焦がれるもの。その象徴。
小石のような、ほんの少しの悲しみが、星のように輝いている。
四音。
青空に近づく。
「──ぇ、っお、う、いた」
締め上げられた喉から出たような、か細い声を聞いて、意識が帰って来た。
同時に膝が落ちた。
そのまま倒れ込みそうになって、咄嗟に、左手に持った剣を地面に突き立てる。下を見ないよう、顔を上げるが、視界は茫洋としていた。目に映っているものの名前を上手く思い出せない。
ただ、右手からは、柔らかな肉にめり込む感触がまざまざと伝わって来る。
視界の右端に、鮮やかな赤が映る。
リアの手の中から血が滴っていた。指の隙間から、刃の鈍い輝きが見えた。
指が刃をさらに強く握った。押し返す力を感じる。対抗して、押し込もうとしたが、剣はびくともしなかった。ちょうど力が拮抗しているようだ。
腕力に関して、リアは人間の子供程度しかない。つまり今のカラノにも、およそその程度の腕力しかないということになる。
笑ってしまう。
魔術を使おうとする気配を感じて、笑いながら、右手を離した。
「悪いな、リア」
リアの姿が消える。同様に、リアの目からもカラノの姿は消えているだろう。
そして、苦しんでいるはずだ。
双子が作った相似の剣。持っている者同士を憎しみ合わせる災いと、持っている者同士で姿を見えなくする呪い。
対するは、悪意を持つと、魔術を使えなくなる呪い。
相性の悪さに関しては、これより上のものはないだろう。
本当は使いたくなかった。
左手だけでは体を支え切れなくなり、カラノも横向きに倒れた。中身を引っかき回されたように頭が痛い。慣れて、いつもは何のこともなくやり過ごせる双剣の呪いも、今は荷が重い。
左手からも剣を離すと、うずくまるリアの姿が見えるようになった。手にはまだ、剣が逆向きに握られている。
目が合った。
リアの手が、地面をつかむように伸ばされた。這いずり始める。その目はカラノに向いている。呼吸もまだ上手く出来ていなさそうだったが、止まることはなく、カラノのすぐそばまで来た。
剣が振り上げられる。血が落ちた。
見上げると、剣の切っ先が一つの点に見えた。
希った、リアの真心と死が、目の前にある。
カラノが持っていたもう片方の剣もまた、すぐ手に取れる位置にある。ほんの少し触れるだけで、災いは発動する。リアもその危険に気がついてはいるだろうが、警戒する素振りは見せない。
いくつもの道が現れて、消えた。
選ぶより先、気づけば、一度離した剣を引き寄せていた。剣を手に取ったとて、それを持ち上げる程の気力はない。分かっていたが、そうしていた。
リアの姿は見えなくなった。代わりに、少し歪んだ夜空が見える。
胸に広がったのは、舞う埃を浮かび上がらせる、部屋の隙間から差す細い光のような、ぼんやりとした喜びと寂しさと、充実。
思い描いていたものと違っても、納得がいかなくても、やり直したいことがあっても、思い通りにならなくても、出来る限りは好きなようにして、ここに辿り着いたのだという実感がある。
きっと自由だったのだと思う。
最後に出来ることとして、カラノは大人しく、自分を突き刺す痛みを待った。
だが、剣は逸れて、首の皮一枚だけを切った。
上手く刺せなかったのかと、最初は思った。だが到底狙いが逸れるような距離ではなかった。
次に、殺害では足りないのかと思った。憎悪の発露にも色々な形がある。考えてみると、リアはもし憎む相手がいたら、殺害以上のことをしそうだ。ただ逆に、憎悪の念に囚われることを疎んで、すっかり忘れてしまいそうな気もする。
道を逸れかけた思考を打ち消して、リアのいる辺りを見た。
同時に高く、舌打ちが響いた。
「さっさと、離れて……」
「何で?」
剣が傾き、ほんの少し首の裂け目を広げる。
「私の、負け、に……な、る」
「負け? 勝ちだろう、誰がどう見ても」
「ちがぁ──っく、あ」
「それに、アンタの負けになるなら、俺が言うことを聞く必要がない。力づくでやれ。そういう喧嘩だろう、これは」
苦しげな声とともに、胸の辺りに重みがかかった。
どことなく、リアが何に怒っているかは察していた。剣の災いによって操られることだろう。リアは自身にかけられた呪いすら、自己洗脳によって回避している。他の災いや呪いで行動を支配されることなど、目的が同じだったとしても、許せるはずがない。
咄嗟ではあったが、どこかで確かに分かっていて剣を手に取った。
少しの間、剣は首元で震えていた。だが、ふと大きな咳き込みが聞こえて、その拍子に剣はリアの手から離れたようだった。呪いの条件から外れて、眼下に、胸に顔を埋めて苦しむリアが現れる。
少し考えて、カラノも、左手の剣を手放した。
まだリアは苦しげにしている。
奇妙な時間だった。胸の上で苦しむリア、最早指一本動かすのも億劫で、ただ待つしかないカラノ。これも余生と言うのかと、益体のないことを思う。その辺りで、思考がまとまらないことに気がついた。どうやら脳が疲れているらしい。精神操作系の魔術を受けて、今もまだ正式には解かれていないのだから、仕方がない。
ため息をついて、夜空を仰いだ。
「熱い……」
触れられている箇所から、痛みのような熱が広がっていく。
カラノの独り言のすぐ後、ふと胸が軽くなって、熱が微かに和らいだ。
「大丈夫か?」
「……ふざけた真似を」
「元気そうでよかっ、ぐ」
「黙って」
もう呼吸の乱れはない。
「あなたのせいで心が割れそう。ねえ、殺さなければかわいそうって思うのに、死んで欲しくない」
それどころか、カラノの首を絞める元気もあった。
「私は──くそ! 私はっ!」
首が絞められているせいで、何も言えない。意識も危うい。
「好きなのに!」
悲しい声を聞きながら、何も出来ない。微かに思う。死ぬのは、やはり怖い。
何もかもが遠ざかる。
だが、ふと喉の圧迫感が失せた。
喉から肺にかけて、急に入って来た空気に驚いたかのように痛む。
何より先に思ったのは、まだ生きていることへの喜びだった。
それから、リアは大丈夫かと不安を覚える。だが状況を問うどころでなく、しばらく咳き込んだ。咳き込みながら、リアの呪いによる苦しみに思いを馳せる。首元についたリアの血が臭った。
やっと落ち着いた頃、左肩を殴られた。アリステラに切られた辺りだ。
「傷を、殴るな。もう治ってるから意味ねぇし」
「……動けないくらいの怪我をしたら、カラノさんは諦めてくれる?」
「生殺しにされるくらいなら大泣きする。ガフミごと沈めてやる」
「嘘をつくなら、もっと上手について」
「……」
「いよいよ情けない人」
怒ったような顔のまま、視線を逸らされる。
「私も他人のこと言えないけど」
ぎこちない笑みが浮かんだ。今までに見た中で、最も醜い表情だ。
「ごめんなさい。殺してあげられそうにない。殺したいし……それに邪魔なのも本当だけど。しかもあんな、ふざけたことしやがって。くそが」
「素が出てるが」
「あれのせいで、分からなくなった。心が分裂して……気が狂いそうだった。何あれ。呪い?」
「ではない方。サラサは確か、仲違いの双剣と」
「仲違いね。はは、天敵」
日が落ちるように笑みが消えた。
「いや、けれど、気が狂ったから殺せなくなったんじゃない。ぐちゃぐちゃになったせいで……レウが」
血の流れる手のひらに、視線が落ちた。
「ちゃんとかっこよく勝って欲しいとも、思ってた」
独り言のように言う。心が閉じている。
「私を好きにして欲しかった。誰か……もうカラノさんでなくてもいい、誰か。私のことを徹底的に──いっそ絶望するくらいに、虜にしてくれたら。私はもう自分の本音に耳を澄ませて、息を殺さなくて済む。それなのに弱い人間ばかり好きになる」
誰かと言いながら、特定の人物を想っている。これまでリアが好きになって来た人々。恐らくは、リアが自ら再起不能にした人々、マカリオス邸で対峙した聖職者たちや、アリステラなども皆含むだろう。
直感でしかなかったが、中でも強く思い出しているのは、ガフミの先代の王のように感じられた。
時の止まったような静寂が訪れる。
弱音を言いながら、リアは決断するという確信がカラノにはある。リアは自分が最も自由でいられる選択を続けていく。時に不自由を望み、自分自身すらも切り捨てることで、自由からも自由でいる。
「たぶん、それは無理だ、リア」
だから、本当は何も言う必要はない。そもそも敗者には物を言う権利はない。
「たとえアンタより強い人がいたとしても。美しい声の鳥から声を奪って鳥籠に閉じ込めることに、誰が耐えられる。アンタの声を愛する程自分にその仕打ちが返って来る。俺もそうだ。アンタが双剣に勝ってくれて、嬉しかった」
胸に広がる思いは祈りに似ていた。
「きっと、アンタがここにいるのは、アンタの強さだけが理由ではない。アンタに恋した人が願ったからだ」
一人に願いを背負わせることは酷だと、よく知っている。だが、願いをかけてしまう気持ちも、同じくらい分かる。小さな星の光すら眩しく思える世界で、空の夢を見せられたら、その光に焦がれずにはいられない。
この世界が悪い。
「詩を」
届く必要はないと思っていたから、ぼんやりと言った。
「だが、それもアンタは無視していい。楽師でも悪党でも英雄でも、何でも好きな自分になればいい」
それからもしばらく、静かだった。少し眠くなり始めた頃、リアの唇が薄く開くのを見た。
「カラノさんは、本当にいいの? まだ勝負はついてないけど」
淡々としていた。単なる確認に過ぎない。既にリアの中に決意はあると分かる。
「指の一本も動かない。あと俺に出来るのは、寝ることくらいだ。リアに従う。……それにそうでなくても俺はいい。俺は今日一日、自由だった。自由の結果が今だ」
「じゃあ、仕方ないか」
血塗れた指がカラノの耳殻をなぞる。秘密を告白するように口が近づいた。
粉砂糖をまぶしたような声。
「カラノさん。私より長生きして」
否応なしにうなずかされた。
言った通り、元より拒むつもりもなかった。ただ、些細な疑問がある。
「アンタ寿命は?」
「よく分かんないんだな、これが。言ったっけ。私、人間とセイレーンの混ざり物だから。サラサには早死にするって言われたけど、それが人間基準なのかセイレーン基準なのかは分からない」
「初耳だ。ちなみにセイレーンの寿命は?」
「エルフ程ではない。長くても二百年くらいじゃなかったかしら」
「そう、分かった。まあ……頑張るか」
泣くと災いを呼び寄せる魂を持って生まれた。まるで自分に優しくない世界のために死にたくはなかったが、死ぬべきだとはずっと思っていた。泣かないように生きるのも辛い。リアと共にある中で、自然と納得のいく形で死ぬ機会はないかと願っていた。
そのはずが、生き続ける方法を探す羽目になっている。
可笑しさが勝って、笑いながら目を瞑った。
「命令は、それだけ?」
「今はそれだけ」
「では、他は俺の好きにしていいと。ガフミの先までついて行くのも」
「……今後気に入らないことがあったら、またその時に改めて、決闘状叩きつけてやるから。それまでは好きになさい」
「了解。ところで、そろそろさっきの魔術、解いてほしい。それと少しだけ寝ていいか」
「子守詩を歌ってあげる」
「子供扱いは止めろ」
「嫌なら、止めさせてみたら」
体が軽くなる錯覚を覚えた。もう自由に動けるだろう。だが同時に、温かな海に沈んでいくような心地もした。
「"揺籃のうたを/カナリヤが歌ふよ"……」
まろやかな幸福に、今度はそのまま身を任せた。
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