恋人

「私が言うのも何だが、こんなに人がいたんだな」


 朝市どころか、網にかかった魚のように、広場にも道にも人がごった返している。しかも、ほとんどが酒をかっ喰らっていて、まるできちんとしようという気がない。


「どうも、村に住んでいない奴らも来ているようだ。あいつ、毎夜のようにあちこち行って、歌い回っていたから」

「そうだったな。……こんな場所、二人で使ってしまっていいんだろうか。詰めれば五、六人、座って見れるんじゃないか」


 手すりから手を離し、サクラは振り返る。下からの明かりが、困ったような表情を照らしている。

 根っからの遠慮深さに微笑ましさを感じながら、カラノは立ち上がって、サクラの左に立った。

 普段は雑貨を取り扱っている店の、二階にある張り出しである。広場からは若干外れた位置だが、視線が高いため遮るものはなく、舞台をしっかりと見ることが出来る。今行われている演劇も、表情まではともかく、身振り手振りを見るのに支障はない。

 二階は主に物置として使っていて、張り出しも人を迎えられるようなものではないと、店主は恐縮していたが、厚意か、今夜は二人分の椅子と、卓が一つ設えられていた。卓の上には、小さな手燭も置かれている。


「気が引けるのも、分からなくはないが。あの混雑の中から数人減ったところで、焼け石に水だろう。それに、そんなことを考えながら見るよりも、心置きなく満喫した方が、リアにも店主にも喜ばれると思う」


 店主に話を通し、この場所を抑えていたのはリアだった。数日前に話していたらしいが、カラノとサクラが知ったのは、ついさっきだ。場所を探していたところ、リアの親衛隊に突然話しかけられて案内されたため、カラノも実はまだ、どことなく気持ちが追いついていない。


「と、いう訳で、飲もう」


 椅子に戻って、杯に酒を注いだ。爽やかな香ばしさが鼻を抜けていく。この村でよく飲まれる酒の中では比較的、度数の低い酒らしいが、念のため自分の分は、炭酸水で薄めた。

 食事も持って来てある。

 サクラの肩から力が抜ける。ふらりと椅子に腰かける。喧騒に紛れて、椅子の軋む音がした。


「乾杯」


 応える声は酷く落ち着いている。横目に見ると、一気に杯を傾けていた。

 下と切り離されてしまったかのように、静かな空気が流れている。


「お前、リアのどこが好きなんだ?」


 食事を取っていると、何の気もなさそうに、軽く聞かれた。

 すぐに答えられず考えていると、サクラは何も言わず、淡々と杯に酒を注いで、あっという間に空にした。またすぐ次を注ぐ。カラノが何か言うまで、止まらなさそうな勢いだった。


「とりあえず、見た目と声」

「あぁ、まあ……他には?」

「……」

「それは照れか? それとも、他には思いつかない?」


 好きだと思った瞬間は、いくらでも思い浮かぶ。だが、それを言葉にしようとすると、思い描いていた情景が雲散霧消する。

 その時、広場の方が明らかにざわめいた。期待を含んだ声が上がり、騒ぎはすぐ、波のように全体に伝わっていく。

 会話を中断して、立ち上がって広場を臨んだ。

 舞台の中心に人が立っている。どこから調達して来たのか、火明かりの中でも目立つ、輝石のついた青色の服を着ていた。同じ色の薄い布で、口元を隠している。

 体の前で、願うように両手が組まれる。


「今晩は」


 声は、耳元から聞こえた。

 隣でサクラが咄嗟に振り返るのを見て、ほのかに愉快さを覚える。下にいる観客たちの声にも、不安や怯えが滲む。

 それに構わず、リアは言う。


「ふふ、ごめんなさい。ぼんやりとしていたから、驚かせたくなってしまって。――星を見ていたの? そうね、今夜は空気が澄んでいるから、よく見える」


 声は隣に移る。まるで、二人で夜空を見ているかのように聞こえる。観客の中にも、思わず夜空を見上げてしまうものがいる。恐らく、今日の空模様を見て、詩を決めたのだろう。実際、星のよく見える夜だ。

 信じがたいとでも思っていそうに、リアの語りの途中、サクラが声を上げた。


「これは、声の位置を変えているのか? いや、それだけならまだしも……まさか、ここにいる一人一人に、同じことを? 聞いたことないぞそんな規模」


 魔物には色々といる。似たような種を比べるのでもなければ、何が普通で何が異常だとは言い難い。だがリアに関しては、悩むものはいないだろう。明らかに、一人で街一つ、容易く崩壊させてしまえる力を、普通とは到底言えない。

 吐息まで、そばに聞こえる。つむじ風が落ち葉を巻き上げるように、声が観客の意識を拐っていく。


「そう言えば、私、こんな空を見ていると、昔、四季のある土地で聞いた詩を思い出すのです。夭折の童話作家が作ったという詩。……"彼ハ小さな星です/片隅にまたたいています"」


 至る所から、様々な楽器の音が、雨垂れのように聞こえ始める。演奏している人々があちこちに見える。場所によって聞こえる音は違うようだ。カラノのいる場所からは、弦を指で弾く音が一際大きく聞こえた。


「"太陽の雄弁もありません/月の叙情も持ちません/金星の魔術もないのです/彼は小さな星です"……」


 穏やかな節回しとささやかな魔術が、詩を広げていく。始まりにしては切ない詩だった。日々を生きることに精一杯の人々には、気づくことも大変なくらい、小さな心の詩だった。

 一曲終わって、カラノは呼吸を思い出す。


「良い夜ね。星の光だけでなく、私の声もよく通る。せっかくですから、今夜は星を見て、詩を楽しみながら、一緒に過ごしましょう。あなたに聞いて頂きたい詩が、それこそ、星の数ほどあるの!」


 リアの口上を聞きながら、手すりの上で腕を組み、観客たちを見下ろした。

 魔物であることを隠すため、人間の前では抑制されている力が、思う存分に発揮されている。ほとんどの魔物がリアの虜だ。

 これを相手取り、その上に勝利しなければならないことを考えると、改めてうそ寒い心地になる。


「次は、星を探すために故郷を出た、目の見えない少年の詩を、聞いてくださいな」


 曲が流れ始め、詩が始まった。うさぎが跳ね回るような音だ。静まり返っていた観客たちの中に、少しずつ和気あいあいとした雰囲気が漂い始めた。展開に合わせて手拍子や指笛、歓声が飛び交い、笑い声が上がり、隣人との会話を弾ませる。

 その中心にリアがいる。

 普段は斜に構えたような態度や、人をからかうようなことばかり言うリアが、心底楽しそうに、嬉しそうに、歌っている。見ている側が照れてしまうくらいに、純粋な喜びを浮かべている。


「本当に好きそうな顔をする」


 可笑しそうな声に、はっとして右を向いた。赤い瞳が、呆れたようにカラノを見上げていた。


「悪い。申し訳ない……」

「全く。体がここにいても、心がここにないのでは、意味がない」


 申し訳ないという言葉通り、カラノは何も言わず恥じ入るしかない。

 ひとしきりサクラは笑う。

 それから、手すりの上に置いたままだった左手に、温かな手が触れた。

 微かに口が動いた。詩にかき消されて、何を言っているかまでは聞き取れない。聞き返しながら少し身を屈めると、不意に、顔が近づいた。

 酒のにおいが香る。

 身を引こうとすると、弱く手を抑えられた。


「私にとってのお前も、そういう存在なんだからな」


 詩よりも近く、すぐそばで、詩を押し退けるように言われる。

 赤い瞳にこもった切実さに、心臓が爪で引っ掻かれるような痛みを覚えた。酔っているのだとしても、酔っているからと無下には出来ない。


「ありがとう」


 そう言うと、手をつかむ力が強くなった。


「……何も分かってない」

「サクラ?」

「私が言いたいのは、だから」


 目の淵から涙が溢れ、つと頬を流れていった。


「お前が死んだら、私の心も死ぬってことだ」


 眉間に寄っていた皺が緩み、険しさが崩れていく。脆く、無防備な、子供のような表情だ。実際、余程の過疎地でもなければまだ子供扱いされる年齢だろうと、目の前の表情から逃げるように考えた。


「死なないで。苦しくても生きて」


 だが、炎のような赤と、涙が眩しい。


「何をしてるか想像する自由くらい、残してくれよ」


 倒れかかるように体が寄せられる。手に載る重みが増す。

 触れた肌から、明るい音楽とは裏腹の震えを感じていた。

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