願望
そぞろ歩いている内に、広場に近づき過ぎてしまっていたらしい。カラノが屋台で飲み物をもらっていると、ふと、サクラが道の先を見て、短く声を上げた。
「拙い。逃げよう、カラノ」
「どれから?」
「曲がり角の隅に立ってる、人型で長髪の三人組」
言われて見てみると、確かに三人組の姿が見えた。三人とも整った顔立ちで、一度見たら忘れないような顔をしていたが、どれもカラノは見た覚えがない。
ともあれ、サクラの様子を見る限り、詳しく聞くよりも逃げる方が先のようだ。二つ頼んでいた飲み物を、一つだけ受け取ってから、空いた手でサクラの手を引く。来た道を引き返すよりも、道を変えた方が良いと判断し、道の脇にある家の庭に逃げた。
庭と言っても、この辺りの家は人間の街のように、はっきりとした境界線で分かたれてはいない。庭から庭へ抜け、見知らぬ人の家の裏手に逃げ込んだ。
暗く見えにくかったが、家の裏には、荷物などで散らかった細道があるようだった。細道を挟んだ家の反対側にはやや急な坂があり、坂の下には、また家がある。
この場所なら、誰かが二人を探そうとしても、しばらく見つけられないだろう。
「ありがとう、助かった」
「どういう連中なんだ」
「近くに住んでいるエルフの兄弟だ。ほとんど没交渉なんだが、エルフのご多分に漏れず神が嫌いで、この催しも気に入らないから、いつもこの日だけ、わざわざ私に説教をしに来る」
深いため息が聞こえて、一つしか得られなかった飲み物を押し付けた。サクラはしばらく遠慮していたが、カラノが手を引かないでいると、小声で礼を言った後に飲み始めた。立ったままでいることもないだろうと、坂に上着を敷いて座らせて、カラノ自身もその隣に腰を据える。
坂の下には灯篭の明かりもあるが、手元は、うっすらと輪郭が見える程度だ。
「気持ちは分からなくもないけど、私に言われてもな……」
呟きを聞きながら、先に聞いた言葉を反芻する。
「サクラは」
限られた時間の中で何か話さなくてはならないと、時間を惜しんで焦った結果、口を開いてしまった。だが、聞き返す声の素朴さに、やはりこの夜にその話題は相応しくないと感じた。
「いや、何でもない。それ美味いか?」
「美味しいけど」
「戻って、もらって来るかな。腹も減った」
白々しい会話だった。返事はなく、広場で鳴らされているのだろう太鼓の音が、いやに大きく聞こえる。
何でもないように、サクラが言った。
「何か言いたいことがあるなら、私に構わず言えばいい。どうせ最後なんだ」
カラノ自身よりも、これから起こることを受け入れる覚悟があるように思えた。相槌を打とうとしたが、喉の奥でこもって、声にならない。
焦りの結果だとしても、咄嗟に口に出たのは、今日一日、気にしていたからだ。
「皆宴会と呼ぶが、今日のこれは、祭だよな」
「そうだ」
準備段階で見かけた、どこか真剣で必死な雰囲気のある村人や、サクラの昼の山登りのことを考えれば明らかだ。この催しには、ただ皆で飲み食いするだけでない意味が存在している。エルフの兄弟がこの催しを気に入らないというのも、つまりこれが、神にまつわる儀礼だからだ。
「エルフ程ではないが、嫌だと思う奴は多いからな。息抜きや備蓄の消費の意味合いもあるから、出来るだけ多くが楽しめるように、祭とは言わないようにしている」
「なるほど」
「それで、私は、何なんだ」
確かにこれが核心ではない。まだ少し問いかけるか迷っていたが、じきに身の溶けるような暗闇と、地に響く太鼓の音が、躊躇をあやふやにした。
「サクラは、神を恨んではいないのか」
「恨み?」
意外そうな反応にぎくりとしたが、すぐ、サクラはさっぱりとした口調で答えた。
「恨んではいない。人間が主で、魔物は全て従という法を敷いたことに、理不尽さは感じるし、肯定や崇拝もしたくはないが。神教以外の、エルフや一部の魔物たちの間に伝わっている神話を聞いてみると――」
「そんなものがあるのか?」
「あぁ、ある。ただ、神教の神話程まとまっていない、と言うか、小さい話であることが多い。例えば、トウジ山に住んでいた、山を主祭する魔法使いヴノーと神が、酒の飲み比べをしたら、神が負けた。だからヴノーは、トウジ山に住む人々のために、神の目をもらったとか」
カラノも神教はよく知らないが、神教の中にそういった情けない話があるという印象はない。
「そういう話を知っていくうちに、恨むような気持ちはなくなっていったな。許したと言うよりは、期待しなくなった、という感じだけど。神は、縋る程の相手じゃない。それに、私はあいつらのために、祈らなければならない。神話を知らなくても、恨みを持ち続けるのは難しかっただろう」
神が祈りを聞き入れるのは、祈ったのが人間である時だけだ。魔物が神に祈るためには、人間に託すしかない。そして、人間も魔物も、その多くは祈らずにはいられない。現世での幸福や死後の安寧、理不尽とも言える生まれへの恨み辛みも、ある意味では祈りだ。
ほんの少し、落胆があった。
「お前は恨んでいるのか」
無言で首を振ってから、見えないことに気がつく。口に出して答えようとしても、上手く言葉が見つからない。
街にいた頃は、神なんていい加減なものだと思っていた。だが、サクラと同じようでいて、少し違ったものだった。
根本にあったのは、無関心だ。大切なのはサラサだけで、それ以外は全てどうでもよかった。
だが、今は違う。リアやサクラに出会った。生まれ持った体質や、魔物の立場の低さに、苦しみを感じている二人。それを見ていると、怒りや虚しさに苛まれる。そしてその感情は行き所を求める。
「俺自身の恨み、と言うよりは……。もし、サクラが恨んでいたら、死んだ時、代わりに神に言ってやろうかと思って」
「おい」
強く腕を殴られた。
「……はっきりさせるか、迷っていたんだが。お前、お前はっ!」
堪え切れないといったように、サクラは低く抑えようとしながらも、声を荒げる。隣り合っていると、声から細かな震えまで聞き取れた。
「今夜、リアに殺されてやるつもりなのか」
ふと、ずっと聞こえていた広場からの音楽が途切れ、拍手や歓声が響いた。じきに収まり、静寂が訪れる。風と虫の音、乱れた呼吸が耳に入る。
呼吸の中に、涙の気配が混じっている。
「死にたがっているのは、知っている。何故かは知らないが……。でも、何だとしても、私は……」
その先を言わないように、という強い自制心を感じた。何を言われたところで、カラノには約束が出来ない。その心遣いはありがたかった。
だが、自制心ではどうにもならない涙が、暗闇の中で流れている。
話したところで苦しめるだけだから、と言わずにいた話が、今更、喉に引っかかった小骨のように存在を主張して来る。
けして正しくはないだろうが、それを話す方がまだ、サクラに対して誠実であるように思えた。
「もしかしたら、聞かなければ良かったと後悔させるかも知れないが、聞いてくれないか」
「……何を」
「俺が死にたいと思う理由。……俺が死んだ時、少しましに思えるかも知れない」
「……いいよ。私に構わず話せって言ったろ」
どうせ最後だ、という思いは、恥ずかしさや躊躇いを断ち切る。サクラが一夜、自由を身にまとったのも、カラノがサクラを口説くのも、最後だからだ。
「呪いの話だ。以前にも少し話をしたと思うが、俺は生まれつき、人間が持ち得ないはずの特性を持っている」
サラサ以外の人に話すのは、生まれて初めてだった。
「あの、体の、鱗のようなもののことか?」
「あぁ、そう話したか。関係はあるが、鱗は生まれつきではない。俺が生まれつき持っている特性は、涙を流すと、海にいる、魔物……なのかも分からない存在が、俺を「迎えに」来る、というものだ。まあ、そいつの本当の目的は分からないらしいから、もしかしたら、「殺しに」だったりするのかも知れないが」
「……は?」
「俺もどうしてそうなのか、説明は出来ない。そう生まれた、としか。そして、そいつは動く度に大波を起こし、酷い時には嵐を起こしながら、俺のところまで来ようとする。すると街は壊れて、人は死ぬ」
「じゃ、じゃあ、今ここでお前が泣いたら」
「恐らく、山ごと皆、海に飲み込まれる」
この時点で、サクラが怯えて逃げてしまうことも、覚悟していた。だが、サクラはカラノの隣に居続けた。
「話の腰を折って悪かった。続きを」
どう思ったのか聞きたいという衝動に一瞬駆られたが、抑えた。サクラの反応を探らないようにしながら、再び口を開く。
「こういう規格外を、災いや災禍、災厄、逆に幸いなどと呼ぶらしい。そして、災いがこの世界に大きな影響を与えた時に、枷――あるいは罰として、神から与えられるのが、呪いだ。俺の体にある鱗は呪いによるもので、具体的に言えば、俺は泣けば泣く程、体が魚に近づいていくらしい。だから、正確に言えば、鱗は生まれつきではない。まあ、これはあまり重要ではないか」
「そんなこと……いや、今はいい。それで?」
話しているうちに、自分の中にずっとわだかまっていた感情が、形を取りつつあった。災いと呪いに関しては、もうほとんど感情が動かされるようなことはないと思っていたのだが、実際に口に出してみると、案外に違う。
「呪いがあっても、すぐに機能する訳ではない。もし俺が泣き続けたら、俺の全身がすっかり魚になって、涙を流す機能をなくすまで、被害は止まない。実際、俺は記憶もないような頃に、両親や、他の多くの人を殺している。だから、これ以上犠牲を出す前に、俺は死ぬべきだ」
心臓の動きが強くなったように感じる。
「そう、思っている。今も。だが、まだ死ぬことは出来ていない……何故だと思う?」
「最悪の質問だ。答えないからな」
「サクラのそういうところが好きだ」
「……話したくないのなら、止めてもいいんだぞ」
気遣わしげに言われて、苦笑いする。数回深く息を吸って吐き、肺の中の空気を入れ替える。
喉がひりつくようだ。
「ここにいる奴らには、俺が死ぬ程の価値があるのか?」
最早懐かしい潮風を思う。魔物を道具として扱いながら、生活を営む。魔物に肩入れする人間は変人と見なされ忌み嫌われる。あの街は、サラサがいたことを除けば、ありふれた普通の街だった。
そんなもののために死ぬ気にはなれなかった。
「死ぬべきだと思う反面、ここが、死んで守るのに値するのか、ずっと納得がいかなかった、のだろう。自覚したのは最近だが。単純に、怖くて、死にたくないから、死なないのだと思っていた。だが、よく考えてみると、そういうことだ。死んでもいいと思える程、俺には大切なものがなかった」
自覚したのは、間違いなくリアがきっかけだ。リアの自由さに触れて、自分の内面にあるものへ向き合わされた結果、覆い隠していたものが剥がれて、芯が露出してしまった。
その上、リアは、大切なものになってしまった。
「リアには死ぬ価値があったから、護衛をしているのか」
確かめるような問いには答えず、暗闇の中のサクラに目を向ける。
「サクラ」
泡のように湧いた、いくつかの言葉を飲み込んだ。
「だから、悪いばかりでもない」
顔を戻して、息をつく。まだ息苦しさはあったが、不思議と胸の底が温かくなったように感じる。
「しかし、サクラの恨みを自殺の動機にしようとしたのは、我ながら酷かった。さっきの悪い話の、お返しということにしてくれ」
いつの間にか、広場では次の演目が始まっていた。さすがに、最後のリアの演目だけは聞きに行かなくてはならない。人も大勢集まるだろうから、少し早めに行く方がいいだろう。
「俺も、言いたいことが言えたような気がする。ありがとう。エルフもどこかに行っただろうし、そろそろ広場に行こう」
「……うん」
暗闇に隠れながら、人気のない場所で道に戻る。飲み物や食事をもらって、広場へ向かう。
このまま、永遠に続きそうなくらいに楽しげな声が、満ちている。大気に酒の混じるような夜だ。
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