同情

「失礼。傷に良い軟膏をもらってき――うわっ! すまない! ……ん?」

「……忙しない。落ち着け」


 カラノも突然開いた扉に驚いていたが、顔を赤くしたり目を見開いたりと、瞬く間に表情が変わるサクラが可笑しく、驚く機を逸した。


「薬はありがとう。とりあえず、扉を閉めてくれるか。リアには見られたくない」


 薬箱を置いたきり戻って来なかったため、てっきり放置されたものと思い、服を脱いで手当てを始めていた。サクラの背後、廊下にリアの気配はないが、少し落ち着かない。


「あ、あぁ……。悪い」


 扉は後ろ手に閉められた。サクラはそのまま、草を編んで作られた床に、あぐらをかいて座る。

 部屋を出て行く気はないらしいと悟り、家主に出て行けとも言いにくく、軟膏の入った壺を受け取って、残りの包帯を解く。

 その間、一応、あまり目を向けないようにはしているようだが、ちらちらと体に視線を感じた。気になる気持ちは理解出来るが、逡巡があった。

 この体のことを自分以外に知る者は、この世にいない。リアにすら話していない。説明する義理はない。

 だが、この際サクラになら、話しても良いかという気になった。


「面倒だから詳細は省くが、俺も生まれが少々、特異だったらしい。人間らしからぬ特性をいくつか抱えている。これは、その一つだ」


 自分の体に目を落とすと、脇腹や胸元に、きらきらと光るような箇所がある。それぞれは硬貨にも満たないような範囲だが、どうしても目を引く。

 まるで、ではなく、まさしくこれは、魚の鱗だ。

 生まれ落ちた村を、親族諸共沈ませた災いへの戒めとして、かけられた呪い。

 涙を流す程に、カラノの体は、魚に近づいていく。


「奇妙な……いや、この言い方は良くないな。お前の体のことではなく、何と言うか……神の意図は、推し量り難い」


 言葉を選んだ結果、やけに堅苦しい言い回しになっているのが微笑ましい。


「気を遣わなくていい。俺はこの体が嫌いだ。リアが知ることにさえならなければ良いから、見るも触るも好きにしな」

「お前、これも言っていないのか?」


 廃屋で話したのは昨晩のはずだが、ずいぶんと前のように感じる。そう思いながら、首を振った。


「言ってはいないが、それとこれとは話が違う。この体に関しては、これからも話すつもりはない。明かしたところで何にもならない。ただ俺が嫌な気分になって終わるだけだ」

「……まあ、部外者の私が、口出し出来ることではないが」


 体の鱗についての話をしている時とは違い、全く遠慮なく、呆れ顔をされた。


「お前ら、会話以前にもう少し、お互い、歩み寄りの気持ちを持った方が良いんじゃないか」

「……俺には歩み寄る気持ちがある」

「ないよ」


 一刀両断され、考え込む。サクラは飽きたらしく、どうでもよさそうにあくびをした後、横から軟膏を取って足に塗り始めた。

 仲間を二人殺され、自分自身も傷つけられた割に、軟膏まで持って来るサクラも、それなりに奇妙だ。

 昼過ぎの光の中で、赤髪はより一層鮮やかに映えている。


「この後、お前が殺した二人と、アリステラを燃やすんだが、来るか」


 心を読まれたかのような間合いに、思わず目が泳いだ。


「ちなみに、リアは来るそうだ。何もしないとは言っていたが、信用ならない。手綱を締める人が欲しいんだが……正直なところ、お前が来てくれると、助かる」

「俺はあくまでリアの味方なんだが」


 赤眼が意味深に見つめて来た。何を伝えられているのかは分からないが、実際のところ、この目に頼まれたら断れない予感がある。


「とりあえず、行きはする。俺も一目くらいは、顔を見ておきたい」


 手当てを終えて、食事を頂いてから、階下に降りた。

 二階はサクラの家だが、一階は村の集会場になっている。広々とした板敷きの間では、小柄な魔物たちが駆け回っていた。魔物の年齢は背丈だけでは計れないが、恐らく子供だろう。獣人や子鬼など、異なる種族が入り混じって遊んでいるのは、やや珍しい光景だった。

 そして、リアが壁に寄りかかっている。カラノには見向きもせず、子供たちを盛り上げるように、詩と手拍子を続ける。手には包帯はなく、痛がる素振りもない。

 優しげな眼差しに、リアにも子供がいることを思い出した。現ガフミ王という特異な立場の人ではあるが、子供には違いない。

 待っていると、程良いところで切り上げて、カラノとサクラのところへ寄って来た。


「昨日の飼い犬は今日の飼い主」

「上での話、聞いていたな」

「聞こえただけ。ところで、上裸で密室に二人きりは、人間的にはどうなの?」

「うるさい」


 三人で集会所を出て、火葬場があると言う、昨晩の保管所へ向かう。保管所までは距離があり、村の中を通っている間は、あちこちで噂話をされている気配を感じた。ただ、それもあまり気にならないくらい、村の風景は興味深かった。

 今朝はあまり見る余裕がなかったが、改めて見渡してみると、人間の村とは大分異なる。特に目につくのは、家の統一感のなさだ。それぞれ、魔物が望む形に合わせて作っているのだろう。木や藁で出来ていたり、地面に穴を掘っていたりと、様々である。

 人間の街では、魔物たちの生き方はほとんど強制的に、人間の生き方に統一される。通常の魔物の集落では、基本的に同族同士で集まるため、その種族が住みやすい形を取る。


「面白い村だ。共生関係にある魔物二種が、十数人で寄り集まって暮らしているのは見たことがあるが、これだけの大所帯は初めて見た」

「……最初はうちも、十数人だった」


 噛み締めるような口調に、耳を傾ける。


「私たちを囚えていた魔物売りが、近くで事故を起こして死んだんだ。人間の街にも行けないから、皆で協力して、ここに住処を作って暮らし始めた。そうしたら段々と、トウジ山に住んではいたが、一人では生き残れないような魔物が合流して来て、じき子供も生まれて、これだけになった」


 見たところ、サクラはカラノよりも年下だ。だが、この歳になるまでにした経験は恐らく、カラノのそれよりも、密度も重量も上だろう。

 すごいと思う。ただ、サクラの口ぶりを聞くと、安易にすごいとは言えない。言葉を選びあぐねていると、先にリアが口を開いた。


「サクラ様の優しさあっての隆盛ですね。サクラ様は、姫には向いておられます。そばに優秀な者を置けば、ゆくゆくはここに、魔物たちの国を作れるやも知れません」

「つまり、御身は、私は為政者には向いていない、と思われているのだな」

「いいえ。為政者に向いている人間などおりませんから」

「……」

「サクラ様自身が、その立場にあるのを辛く感じているようには、お見受けしておりますが。先の言葉に嘘偽りはございません。この村の現状は、サクラ様のお力によるものであり、類稀な成果と、私は思っております」

「なるほど。……そうか」


 思うところがあるようで、サクラの目は、どこか遠くを見ている。

 保管所まではまだ距離があると言うのに、息が詰まる。

 関係性から言えば、仲良くある方がおかしいのだが、しばらく滞在する村でこの緊張感が続くのも、厄介ではある。今のは振った話題が悪かったにしても、無駄にサクラを落ち込ませたり、煽ったりするのは避けるべきだろう。

 横を歩く、リアに目を移す。


「アンタ、サクラに対して、ずっとその口調で行く気か? 俺もやりにくいから、止めて欲しいんだが」

「あっ、それは正直……そうしてもらえると……」

「ほら」


 横目でにらまれたが、受け流す。慇懃な態度を取る時には、リアなりに理由があるのは知っているが、今回は、嫌がらせ以上の意味が見出だせない。結局リアが折れた。


「ま、いいでしょう。代わりに、レウと呼ばないで。他の者にもリアと呼ばせるようにして」

「分かった。周知しておく」


 口調だけでどうにかなるものでもないだろうが、ひとまず、上流階級めいた嫌味は、少しは減らせただろう。

 サクラの話に対する感想も、カラノの中でやっと決まった。


「話が戻るんだが、良ければこの村の話を、もっと聞かせてほしい。今のところ興味本位ではあるんだが、良い話でも悪い話でも、聞いておかなければいつか、後悔する気がする」

「聞きたい、のか。別に、こんな話で良ければ、いくらでも話すが」


 村やサクラ自身について、何くれとなく話しているうちに、保管所に着いた。昨晩、魔物たちが敷き詰められていた空間は、今はがらんとしている。警備以外に、幾人か魔物が所在なさげに立っていた。一人、サクラに何か物言いたげにしていたが、カラノとリアを見て目を背ける。


「今気がついたんだが、俺たちは距離を取っておくべきだったのでは」

「物陰から襲われるようなことがないといいけど」

「こそこそ話しても、聞こえる奴には聞こえている、というのは、言わなくても知っているな」


 他の魔物たちの手前か、やや威圧的に咎められた。


「遺体はそこの天幕の中にある。お前らが用があるのは、アリステラだけだろう。二人の遺体には触れるな。入り口で監視しているからな」


 ここで事を荒立てても得はない。大人しくうなずき、天幕の入り口を塞いでいた覆いをよける。こもった空気には、血の臭いが混じっていた。

 布を通って薄まった光の中に、遺体が三つ並んでいる。どれも布で覆い隠されていたが、右端の遺体だけが、明らかに他二つよりも小さかった。

 細い指が布を剥ぐ。

 明るいところで顔を見るのは、初めてだ。火明かりに照らされていた時には嫌らしい顔に見えたが、今見ても、やはり腹立たしい顔をしていた。血の気がなくても、育ちの良さが滲み出ている。


「私の後に、誰か、とどめを刺してくれたのか」


 リアの指先が、アリステラの首元を撫でた。包帯が巻かれている。

 昨晩のリアは、かなり強く自己暗示をかけているように見えたが、それでも、声だけで殺すことは出来なかったらしい。あるいは、呪いを警戒して、あえて殺さなかったのかも知れない。

 布をさらにめくって、胸元まで見たところで、リアは言う。


「サクラさん、アリステラの遺品は?」

「全て剥いだ」

「そちらも後で見せてほしいのだけど、いいかしら。横取りする気はないから」

「構わない。あとで持って来させる」


 足元まで見て、ほんの一瞬、そっと額を撫でてから、布を被せ直した。胸の内で嫉妬の炎がちらつくが、死んだ者に対しては成す術もない。リアに合わせて合掌し、天幕を出た。


「皆、別れは告げたな」


 幾人かの来訪の後、サクラの言葉を皮切りに、黒子のように顔を隠した魔物が、天幕へ入っていく。火葬場まで運んで行くのだろう。


「あれらは力を尽くし、生を全うした。私は、あれらと過ごした時間、交わした言葉を胸に刻み、けして忘れないことをここに誓う。……各々思うところはあるだろうが、今日はあれらを偲びながら、心身を休めてほしい」

「サクラ」


 参列していた魔物が呼びかけた。毛に、白が交じっている。


「悔やまずとも良い。あいつの命運だ。あいつ自身、受け入れておるだろう。だが、お前のその時には、愚息を確かに、冥界まで連れて行っておくれよ」


 違和感のある言葉だった。そう言えば、と肝心の話を聞いていなかったことに、気がつく。

 人間を神の愛し子、魔物を道具として見做す神教に、山賊として生きるような魔物は帰依していないはずだ。

 それならば、ここにいる魔物たちの死を思う時、何を拠り所にするのだろう。


「分かっている。必ず」

「ありがとう、サクラ」


 老いた魔物は深く頭を下げた。他に声を上げるものはなく、遺体は担架に載せられて行った。

 残された魔物たちは各々、立ち話をしたり、村に向かって歩き出したりする。サクラも黒子たちに指示を出していて、戻るまでには少し暇がありそうだ。

 カラノには、アリステラの顔以上に、この場所で、確かめておきたいことがある。

 サクラがいる限りは大丈夫だと踏んで、リアと別れ、カラノは小屋を訪れた。

 昨晩、アリステラが横たわっていた小屋である。鍵はかかっていない。

 佇まいから、散らかった、物置のような室内を想像していたが、中を見てみると、むしろ殺風景なくらいに物は少なかった。ただそれは常のことではないようで、床や壁には、置かれていた物の形を象るような日焼けの跡が残っていた。

 奥には、外側から板で塞がれた、格子窓がある。

 格子には縄がくくりつけられ、ぶらんと垂れ下がっていた。

 縄の先端には、僅かではあるものの血が付着し、繊維が固まっている。切り口は、あまり綺麗ではない。

 縄を手放し、部屋の隅に目を移す。元々置かれていた物を退かしてまで、この小屋に運び込まれた物。覆い隠していた布を退けると、足錠と口枷が現れた。はっきりと考えていた訳ではなかったが、予感はあったから、驚かなかった。

 初めてここへ来た時、この小屋の扉だけが開き、中にアリステラが倒れているのが見えた。

 痕跡を見る限り、やはりリアは一度、この小屋に閉じ込められたのだろう。手を縄で吊るされ、口も足も拘束されたが、どうにかして抜け出して、アリステラに魔術をかけた。正しい順序は不明だが、およそそういった経緯だっただろう。

 拘束されたとなれば、リアの憤りも理解出来る。

 それ以上は特に確認するべき箇所は見当たらず、小屋を出た。元いた場所にリアはいない。辺りを見回していると、横合い、足元から声をかけられた。


「いないいない、ばあ」

「どうせ驚かすなら、もう少し楽しそうにしろ」

「この空間の不愉快さが勝ってしまって」


 地面に膝をついて、リアの目線に合わせる。リアは地面に胡座をかき、風呂敷を広げていた。風呂敷の上に載っているのは、畳まれた衣服や、いくつかの宝飾品だ。ざっと眺め、アリステラの物だと悟る。


「金目の物を探している、訳ではないな」

「ガフミに入るのに、役に立つ物がないかと思って。入ってからでもいいけど。ついでに滞在のお礼として、簡単な鑑定」


 一つ、明らかに他より状態の悪い、首飾りがあった。銀の鎖の先に、大きな楕円の飾りがついている。リアが無造作に手に取って、楕円の飾りを開いた。どうやら開閉式になっており、内部に物を入れられるようになっているらしい。


「えっ……」


 小声ではあったが、それは心底驚いたような声だった。何が入っていたのかと、中を覗き込む。

 古ぼけた肖像画だった。小さいが、精緻な筆遣いで、何が描かれているのかはっきりと分かる。

 上品な紫を身にまとった、白髪の麗人。幸福そうな、穏やかな微笑みは見慣れないが、その相貌は見間違えようがない。


「……こんな物、大事そうに持って死んで、報われない人」


 風呂敷の上に落とされて、軽い音を立てた。そんなことでも壊れそうなくらい、飾りの金具は脆く見えた。


「今の首飾り、欲しい。もらっていいか」


 いかにも鬱陶しそうな目で見られた。


「何だってこんな物。目の前に本物がいるでしょう」

「それはそれ。それに、物自体が欲しいと言うよりは……同じ奴を好きになったよしみに、一つくらい、持って行ってやってもいいかと」


 罠にはめられたことや、リアと一緒にいるカラノに対して幾度となく行われた嫌がらせなど、アリステラには腹立たしい思い出が多いが、そればかりでもない。例えば、宿の前で、矮人が切り捨てられていることがあった。後から思えば、強盗のために追って来ていた矮人を、カラノが気づくより先に退治してくれていたのだった。アリステラとカラノは、リアを守ることに関しては、ある種の協力関係にもあった。


「まあ……何にせよ、了承取るなら私でなく、サクラさんに。たぶん、いいと言うとは思うけど。物自体には価値はないし、持っていたら、一般的に言うところの呪いの品みたいに、厄介事ばかり引き寄せそうだし」

「サクラはどこに?」

「忙しいとかで、先に戻るようにって。これはざっと見たら人に渡してしまうし、とりあえずそれは取っておいて、後で確認したら」


 首飾りを拾い上げる。

 恐らくはレウと呼ばれていた頃の肖像画。穏やかな笑み。画家による虚構の可能性は頭にはあったが、関係なく、胸騒ぎがする。

 一通り見終わったリアが、風呂敷を畳み始めた。


「カラノさんは、用事は済んだ」

「ひとまずは」


 首飾りを懐に仕舞い、リアと共に保管所を後にする。ふと、あの小屋で気になったことを思い出して、道すがら問いかけた。


「あの小屋から抜け出すのは、どうやった。拘束されていたように見えたが、まさかアンタ、縄抜けまで出来るのか?」

「あぁ、あれ。別に、皮膚の下に小さい刃を埋め込んであるから、取り出して、後は地道に切っただけ」


 耳を疑ったが、差し出された手には確かに、不自然な四角い痕が残っていた。昨晩、リアの手を濡らしていた血も、刃を取り出した時のものだったらしい。

 呆れ、感嘆、不甲斐なさがない交ぜになる。感情を握り潰すように、手を繋いだ。

 リアには教えていないが、泣くと魚に変じていく呪いのせいで、カラノは人間にしては体温が低い。逆に、リアは人間より体温が高い。だからカラノはリアに直接、長く触れられていると、火傷を負ってしまいかねない。

 だが、火傷など些細なことに思えた。

 振りほどかれることはなく、村に着くまで、人間より高い体温と低い体温が、混ざり合っていた。


 サクラと話すことが出来たのは、葬儀から四日後の晩だった。

 集会所の戸が開く気配がして、台所に置いた丸椅子に腰かけていたカラノは、座ったまま身を乗り出して、玄関を窺った。サクラは、かなり疲れた様子だった。台所についている明かりにも気がつかない様子で、二階への階段を上って行こうとする。


「おかえり」

「あっ、あぁ、お前か。ただいま。……何をしてるんだ」


 明日の朝食で使う食料の下ごしらえをしていた。足元に置いたたらいには、芋の皮が小山を作っている。サクラとリアの分だけでなく、集会所で食事をする他の村人の分まで含んでいるため、それなりの量が必要だ。

 また一つ、皮をむき終わった芋をざるに移す。

 苦笑混じりのため息をつかれた。


「助かるよ。お前も、リアも、進んで村の奴らと接してくれるお陰で、思っていたよりも反発がない。それどころか、良い息抜きになっているみたいだ」


 外からは、今日も微かに、リアの歌声が聞こえる。リアは村に来てから連日、夜になると村をほっつき歩き、辻や誰かしらの家で歌っている。その詩に魅入られて、多くの魔物がリアに親しみを抱くようになっていた。来た日に比べると、村での風当たりが弱くなっているのは、カラノも感じている。


「リアはともかく、俺はここで、少し手伝っているだけだ」

「そうかな。相談に乗ってもらった、と何人か話していた。嬉しそうだったぞ」

「まあ、アンタの気苦労が少しでも減ったなら、何より」


 言いながら、リアの肖像画がはめ込まれた首飾りを外した。サクラの暇がありそうな時に聞こうと思って、ずっと首から下げていた。声をかけたのも、そろそろ首飾りの処遇を決めたかったからだ。


「疲れているところ申し訳ないんだが、頼みたいことがある。アリステラの遺品を一つ、もらいたい。これを」

「これは……なるほど。妃の姿絵か。他の妃の物は見たことがあるが、リアの絵は初めて見た。よく残っていたものだ」


 手渡した首飾りを明かりにかざし、サクラは言う。「他の妃」という言葉が気になりはしたが、長く引き止めるのも気が引けて、疑問は胸に仕舞った。


「金は払う。金額はそちらで決めていい」

「いいよ。むしろ引き取ってくれ。厄を呼びそうだ」

「リアも同じようなことを言っていた。呪いの品のようになりそうだと」

「案外、あの人は自分の厄介さに自覚的だな。自覚した上で無視をしているだけで」


 笑いつつ、ありがたく首飾りを懐に仕舞った。


「話はそれだけだ。引き止めて悪かった。おやすみ」


 明かりが揺れる。言葉になり切らない、吐息のような戸惑いの気配がした。足が、前を通り過ぎていく。


「水でも飲んでいくかな。喉が渇いたから」


 どことなくわざとらしい言い方だったが、指摘する程野暮ではない。下ごしらえにはまだ時間がかかるし、何か話したいのだとしても、ただ眠る前にゆっくりしたいのだとしても、付き合うのにやぶさかではない。

 杯を持ったサクラは、台所の戸棚に背を寄りかからせて座った。

 しんとすると、リアの歌声がはっきりと聞こえる。


「その姿絵のことは、リアも知っているんだよな。ついでに何か聞けたか。リアの、昔の話」

「何も」

「そんな気がしていた」


 笑い混じりの言葉に、何も言い返せない。

 今のところリアとは、停戦の状態にある。怪我が治ったら、リアとはあの夜の続きをしなければならない。それが理由の三割で、あとの七割はやはり、意気地のなさである。リアの思いを知って、心から共感するようになることへの恐怖が、胸に深く根を下ろしている。

 あの晩、リアを止めるために、狂気に片足を入れた時に、一線を越えた感覚があった。

 死にたいという願いを、初めて口に出した。

 あれこそが剥き出しの己だと、「錯覚」しそうになった。

 でも、とサクラが続ける。


「お前は嫌だと思うかも知れないが、私は、実は、その……少し、安心してるんだ。お前の、そういうところに」

「意気地のないところに?」

「ごめん」

「怒ってはいないが、気になるならいくらでも許すから、聞かせてくれないか。アンタをもっと安心させたいから」

「何だそれ……。はは」

「それくらいしか出来なくて、申し訳ないが」


 沈黙が降りた。

 短い期間ではあるが、それだけでも、この村におけるサクラの苦難は、察するに余りあるものだった。

 肉体的な強さを持たない人間もどきへの蔑み、人間という特権的な種族に対するやっかみ。

 さらに、その上に、サクラは唯一の人間として、尊重され過ぎている。

 神教においては、魔物は人間の道具として創られている。故に、魔物と神との関係には、必ずその間に人間が入り込む。

 例えば、葬儀の時の「冥界まで連れて行ってくれ」という言葉も、リアによれば、神教の教えに由来するものだそうだ。魔物は、生前仕えた人間が、死後その魔物を許すまで冥界には行けず、それまではこの世界の中にある悪念の吹き溜まりで、生前に犯した罪を償い続けなければならない。

 神教を信仰しているものは、この村ではそう多くはないだろうが、恐らくサクラは、ただ一人の人間として、死んだ魔物たちの将来を背負わされ続けている。

 死後の安寧を確実にするため、わざと揉め事を起こしてから、自分で解決したように見せるもの。他を蹴落としてでも、手柄を立てようとするもの。

 サクラに対して特に興味がないものは、もっと人間の街のように便利にしろと、ただ文句を言うばかり。

 人間とも魔物とも言い切れないサクラは、人間としても魔物としても扱われ、あるいは扱われず、常に窮地に立たされている。

 詩が一曲終わり、拍手の音と歓声が響いて、また次の詩が始まった。


「……お前を見ていると、思い出す」


 床に投げ出されていた足が、小さく折り畳まれていく。


「檻が壊れて、あいつらに、一緒に行こうと言われた日」


 口調こそ穏やかではあったが、胸に迫る切迫感があった。堰を切ったようにと言うより、水桶の底に入ったひびからじわりと漏れ出すような、致命的な雰囲気を感じた。

 目をそらし、包丁で芋の皮を剥いていく。


「あの時、私はまだ小さくて、正確にその時の状況を理解していたとは言えなかったが……一緒に行ったら、もう引き返せないという感覚はあった。ここで、自分は一度死ぬんだ、と思った。……そこで、すっぱりと死に切れていたら。いや、何と言ったらいいか……その時までの私、みたいなものを、諦め切れなかった、から。今も、決め事なんかであいつらに合わせる度、あの頃の自分が、死に続けている気がする」


 水を飲み、喉が鳴る。飲み終わった後に吐かれた短い息に、鬱屈の気配がする。


「安心するのは、そう感じているのが、私だけではないと思えるからだ。お前の恐怖と、私の感情とは、厳密には違うものだろうが。自分が……魔物に近づく、という恐れを、一部分でも、一方的にでも、共有出来る相手がいて、正直、嬉しい」


 喜びを、罪のように言う。


「……ごめん」


 その上また謝った。

 仕方がない。本当は、サクラ自身が自分を許せないのだろう。

 そしてその克己心が、この村においては誰を助けることもなく、自分を苦しめる鎖にしかならないことも、サクラはきっと分かっている。

 だが、そんな、生きるのには必要のないがらくたによって、形作られる自分がいる。それを捨て去れば、生きていくことは出来ても、自分の形を失う。それは結局、自由ではない。

 包丁が少し深く芋を抉った。柄を握る手に、いつの間にか力がこもっている。

 体内に残った息を全て吐き切っても、喉の奥が煙る。


「かわいそうに」


 外の笑い声が耳障りだ。だが、魔物たちを罵倒しなかったのは、家族だというサクラの言葉を覚えていたからだった。これ以上、サクラの気苦労にはなれない。

 リアのように、詩を歌えれば良かったと、少し悔いる。たとえ泡沫だとしても、その僅かな空気で延びる命がある。カラノは苛立ちや悲しみを、破壊に変える術しか持たない。

 せめて、出来ることはしようと思った。包丁と芋をたらいに置いて、手拭きの布を取りながら、意識して口角を上げた。薄暗くてよく見えなくても、笑みを作れば声が明るく変わることを、リアに教わった。


「もし、先にサクラと会っていたら、俺は今でも育った街にいたかも知れない。俺も魔物狂いと呼ばれて、ろくな扱いをされなかったが、サクラがいたら、孤独も紛れただろう」

「──先でなければ、駄目なのか」


 手拭き布を、床に落とした。


「何でもない。話したら、楽になった。ありがとう」

「それは良かった」

「……そろそろ寝るよ。お前も、ありがたいが、程々でいいから」


 杯を棚に戻して、どこか足早に、逃げるように前を通り過ぎていく。


「首飾りの件、ありがとう」


 身を乗り出して改めてそう声をかけると、サクラの影は階段の前で立ち止まった。


「もしかしたら、リアは、ガフミでの過去を、お前に聞かれたくないのかも知れない。ああいう人なら、大した思い入れもないだろうと、私は思っていたんだが。様子を見ていると、案外……大切そうで」


 最近のリアは、ふとした時、気が抜けた様子で、ガフミのある方角を見ていることがある。聞かれたくないかはともかく、大切には思っているだろう。


「まあ、もし駄目でも、骨は拾ってやる。おやすみ」


 返事も聞かず、階段を上って行った。少しの間、頭上で足音がして、それもじき消える。


「おやすみ」


 天井の暗がりを仰ぎ呟いた。

 サクラが行ったら、片付けて眠るつもりでいたが、腰が上がらない。

 考えもしなかった、と言えば嘘になる。リアに解雇を通告されれば、いよいよ身の振り方を改めなければならない。

 育ったあの街への帰郷を考え、一人旅を考え、アリステラのようにリアに付きまとうことも考え、その最後に、考えた。

 拗ねたような声を思い返す。

 この村への定住という選択肢も、あるのかも知れない。

 ただ、どの道を選ぶにせよ、その前にはリアとの対峙が控えている。戦うことになるのか、説得でどうにかなるのかは分からない。だが少なくとも、何もしないことはしたくない。

 どれだけ状況が過酷でも、サクラは、魔物たちを助けることを選んだのだ。

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