一夜
「今夜は久しぶりに、ゆっくり眠れると思っていたんだが。残念だ、本当に……」
強い虫除けの香が、鼻の奥を刺激する。左肩の傷にまで沁みるような匂いで、安穏が遠ざかる。
歩き続けてもかえって能率が落ちると判断し、サクラに案内された廃屋で、仮眠を取ることにしたものの、目も冴えて、眠る気になれない。
「野宿自体はまあ良いが、森の中、というのに、中々慣れない。リアと会う前は、ずっと海のそばに住んでいたんだ、俺は。いやまあ、別に、そうは言っても、海が好きと明確に思ったこともなかったが」
「……」
「最近、妙に波の音が恋しい。これがいわゆる、里心という奴か」
「……」
「海路を使っていたら、こんな風にアンタと野宿することも、なかっただろう。リアの希望だから文句はないが……少し不思議だ。海が嫌いな訳でもないだろうに。理由を聞くことは、この先あるかな」
「……知らないのか」
突然虚空から声が帰って来て、驚いた。角度から姿が見えないことは分かっていたが、思わず寝台を見上げる。
「聞いていたのか。寝たかと」
「聞いてないと思っていたのに、話していたのか、お前」
「無言より、何か話している方がまだ、安心出来るかと思って」
「変な奴……」
捕虜であり、リアを拐った仇ではあるものの、落ち着いてしまえば、過度に虐めるのは気が引ける。リアを返すための取引の材料にすることも考えると、むしろ、きちんと休んでいてほしい。
「縛っているところは痛くないか」
「……そちらは痛くない。お前に切られた箇所は痛むがな」
逃げられないように、手を結ぶだけでなく、サクラの足も、紐で寝台の足と繋いでいる。切られた箇所は手当てをしたが、これ以上出来ることはない。どうせ嫌味だろうから「どうも」と流した。
ぎしりと、頭上で寝台が軋んだ。
床とは言え、隣にカラノが寝ているのに休めと言うのは、無理筋かも知れないと思い直す。
「知らないのか、と言うのは。サクラはリアが海路を取らない理由を、知っているのか」
「そういうことじゃない。愛なきレウが、一緒にいることを選んだくらいの人間なのに、そんなことも秘密にされているのか、と意外に思っただけだ。恋仲のように……見え、た、と言うか。少なくとも、アリステラが言うようなものではなく、リアも、お前を頼っているように感じたから」
改めて、リアとの関係を言われると、複雑な気分になった。好意を交わし、口づけがあった。体を重ねたことはないが、恋仲と言うのに不十分ではないはずだ。だが、何となく、サクラの言葉を肯定することも出来ない。
「俺自身があまり、知ろうとしていないから。どうしてなのかと聞いたことがないから、教えられていないだけかも知れない」
「何だ。じゃあ、聞けばいいだけじゃないか」
「……仰る通り」
当たり前の答えに笑ってしまう。
考えてみると、リアがそばにいない時間は久しぶりで、こうしてリア以外の相手にリアへの思いを口にするのは、初めてかも知れなかった。
「俺は、リアが愛なきレウと呼ばれる理由も知らない。何故ガフミを目指しているのかも」
深く考える前に思いが漏れて、気づくとそう言っていた。
「最初は、その理由が、俺でも許せないことだったら困ると思っていただけだった。いや、今も少し思っているが。ただ、今はそれより……それを知った後、俺自身がどうなるのかが怖い。悪魔と呼ばれる理由が、救いようのない酷いものでも、なお、好きだったら。俺は人間と言えるのか」
もうとっくに手遅れではあるが、恐怖自体がなくなった訳ではない。
得体の知れないものと向き合い、自分が変化する。木っ端か、あるいは渦潮そのものかは分からないが、異なるものになっていく。
ふと、サクラからの返事が途絶えていることに気がついた。
「……つまらない話だったな。リアのように、詩でも歌えれば良かったが」
「え。あ、いや違う! 単純に驚いていたんだ! あいつが愛なきレウだと、知らずに一緒にいたのか、お前」
「そう呼ばれていたことは知っているが」
「レウが何をしたのかは?」
「知らない」
「知らっ……いや、そうか。私の周りには知る者が多いが、人間の間では、忌避される話だったな。でも、それならもしかして、ガフミ王の跡継ぎ問題も知らないのか?」
全く思わぬ言葉だった。
ガフミの政情が不安定だという話は、何度か耳にしたことがある。そのせいで地方での揉め事も増加しているとも聞く。ただ、それとリアを結びつけたことはない。
「リアと、関係があるのか」
「あるも何も……現ガフミ王はレウの息子だ」
言葉には重量が存在していたらしい。巨人の手のひらで押さえつけられたかのように、体が動かなくなった。
「この際だから言うが、アリステラも一応、ガフミの急進派の一人だと聞いている。まああいつの場合は独断専行と言うか、私情に突っ走っている気があるが」
「ま……待った。急進派って何だ」
「……私も全てを把握している訳ではないが。今のガフミはいくつかの派閥に分かれている。大きなところだと二つ、ザクセン王の血脈を保つべきとする保守派と、王は実力で決めるべきだと主張する進歩派だ。そして急進派は、どちらかと言えば、進歩派に属している。急進派は簡単に言えば、政治を変えるためなら、現ガフミ王の殺害も厭わない奴らだ。当然、愛なきレウの利用も手段の一つとなるだろう。母として人質に取るなり、魔術を使わせるなり……ただでさえ、いくらでも利用出来る魔物だからな。急進派以外にも欲しがる者は多いだろうし、面倒になる前に殺そうという人間もいるだろう」
揉め事を起こしやすいというだけでは説明のつかない襲撃の多さには、納得がいった。サラサに助けを求めて来たのも、恐らく、世を忍ぶ魔法使いならば、政治には関与していないことが確実だったからだ。
大した覚悟もなしに、一度に多くのことを知ってしまった。ずっと避けていたにも関わらず、子供がいることまで。
瞼の上に腕を置き、深呼吸した。虫除けの香とほこりの臭いが混じっていた。
「サクラも、アリステラと同じ目的で?」
「私たちは単なる雇われだ。……ただ、仲間の中には、人間憎しで、ガフミを壊すのに協力してやろう、という動機を持つ者も、いる」
不服そうな口ぶりだった。雰囲気からしてサクラたちは、賊に近しい荒くれ者の集団だ。拠点の方向も考慮に含めると、恐らく、トウジ山に根城を構える山賊だろう。そして、山賊をやるような魔物の集団が、人間が主体となる社会を憎んでいないはずがない。社会が混乱することで胸がすくと思うのは自然だ。
カラノには、むしろ、サクラの方が奇妙に思えた。
聞き返そうか迷っているうちに、今度はサクラから問いかけられた。
「私のことはいい。それより、聞かれるまま答えてしまったが……その。どう、だった」
「どう、と言うのは。分かりやすかったとは思う。ガフミに入る前にきちんと知れて良かった。ありがとう」
「……どういたしまして」
「あと、本人の口からいきなり聞くよりは、落ち着いて聞けた気がする。さすがに王の母だというのには驚いたが、それもリアから聞くより良かった。本当に、サクラが親切な人で助かったと思っている」
「おいお前、からかっていないか」
自分のためでもあるのだろうが、廃屋を案内してくれたことといい、サクラには言動の端々から、隠し切れない人の良さを感じる。それで、からかってしまった。どうやらリアに感化されてしまっている。
「ごめん。からかった。ただ、本心だから。心配してくれたんだろう。ありがとう」
寝返りをうつ、衣擦れの音がした。
「分からなく、なかったから……」
「何が?」
しんと、沈黙が降りた。
一つ、思い当たることがなくもない。
最も小柄で、容易くカラノに隙をつかれる程度の力ながらも、魔物を取りまとめる立場でいることなど、サクラには分からない点が多い。人間からは生まれない鮮やかな赤髪から、一見した時には魔物だと思っていたが、今までに魔術を使う素振りも見せない。
サクラは魔物なのか、人間なのか。
もし、人間の身で魔物たちに思い入れているのなら、ある意味ではカラノと同じ境遇と言える。
だが、直接的に問いかけるのは躊躇われた。黙ったのも、話したくないという意志の表れだろう。
もう大分話した。そろそろ、きちんと休憩を入れた方が良い。
「アンタのおかげか、少し眠くなって来た。寝ていいか」
「何故私に許可を……。勝手に寝ればいいだろう」
「日が昇る前には出るから」
万が一にも寝過ごさないよう、手の甲に硬貨を置いて、目を瞑る。
いくら知ったところで、死ねば意味はない。
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