トウジ山
怪我
夢を見ていることは分かっていたが、瞼も指先も動かない。
実際に目の当たりにしたのは数回だ。生まれた時に起きて、母や父は無論のこと、生まれ故郷全てを押し流してしまったらしいが、それ以降はサラサが封じてくれていた。
深い緑色の壁のような津波が、目前に迫る。その中には、何か、黒いものがいる。
逃げ出したカラノを、いつまでも追いかけて来る。
だが、上手く足が動かない。手を振ることも出来ない。
嫌な予感がする。予感ではない、と否定する。
背に、腕に、胸に、腿に、蠢き。
単なる当然の帰結だ。
災いが起きているのだから、呪いも目覚める。
「カラノさん、カラノさん。起きて。囲まれている」
一気に、現実に引き戻された。
「人数は」
「三方向に二人ずつ。けれど穴はある。練度も低いようだから、今逃げれば逃げ切れる。行きましょう」
かすんだ目で木々を見渡すが、日暮れ時で視界は悪く、人の気配はまるで感じない。耳の良いリアにしか分からないだろう。
先導はリアに任せ、焚き火を消して、荷物を持つ。
だが、いざ出発しようとした時、左脇腹に鈍い痛みが走った。声は上げずに耐えたが、リアは何故か振り向いた。
「カラノさん? ……この前の傷が痛む? さっきも、うなされていたけど。熱や痙攣はない? 大丈夫?」
大丈夫、と気持ちの上では言いたかったが、仕事として護衛を引き受けていることを考えると、嘘はつけなかった。一週間程前、リアを襲った人物から受けた傷は、徐々に体力を削っている。傷そのものは大したことはないが、恐らく刃に魔術か弱い毒が塗布されていた。その上、このところまともな宿屋が見つからず、回復に専念出来ない。
「正直なところ、応とは言えない状態だ。逃げるだけなら問題はないが、複数人と会敵したら危ういかも知れない」
「え……ちょっと」
「極力守る。だが、いざという時には一人で逃げる覚悟もしておいてくれ。――申し訳ない」
リアは鳥目だ。夜に一人で森を歩くのは、襲撃がなかったとしても、自殺行為である。だから、本来であれば、この状況に陥っている時点で、護衛としては失格だ。
だが、こうなってしまった。
寄り道を繰り返しながらも、着実に道を進み、とうとう視界にトウジ山が見える場所にまで来た。これでやっとガフミまでの道のりの半分だと一息ついたものの、そこからが大変だった。今までの道のりが、順調だったと言える程に。
原因はやはり、トウジ山だ。魔物の巣窟と言われる山。見た目には何てことのない山だったが、近づいた途端、周辺の街の治安は、これまで通って来た街に比べて、確実に悪化した。魔物に乗っ取られていたり、街自体が消滅していることも珍しくはなかった。地図の精度は著しく落ち、宿を探すためには行き合った隊商などに話を聞くしかなかったが、宿も隊商も、進むに連れて徐々に減っていく。
リアが選択した、海路を使わず、トウジ山をかすめて進む行路を同道出来る隊商も、まだ見つかっていない。今やもう、ガフミへ行くのに、陸路はほとんど使われなくなっているらしい。
「……ひとまず、この場から離れる」
声を潜めてリアが言う。
「腕は、つかんでもいい?」
「右腕なら」
宙を彷徨った手を、右腕に誘う。熱い手は、いつもより躊躇いがちに腕をつかんで、カラノを引っ張った。
結果としては、誰にも遭うことなく、無事に逃げ出すことが出来た。そして、二日後には村を発見し、村長の家に数日、投宿させてもらえることになった。
「傷薬、頂いて来た」
昼下がりの気怠げな空気の中に、淡々とした声が染みる。顔を上げると、リアはひょいと持っていた箱を掲げた。
「ありがとう」
「どういたしまして。それより、聞きたいのだけど、今あなたが背を持たせかけている物の名前を知っている? 寝台、と言うのだけど。床より柔らかくて、座りやすく、眠ることが出来る」
「知っている。俺もたまに使う」
「馬鹿言ってないで、寝台を使いなさい、怪我人」
「先に言い始めたのはアンタだろうが」
もう使う人はいないからと用意してもらったものの、この部屋には、寝台が一つしかない。カラノは当然、リアが使うべきだと思っている。だから動かないでいたら、魔術によって強制的に移動させられた。
「手当てまで、して差し上げましょうか」
寝台に腰かけて見上げるリアには、妙な迫力があった。
「気持ちだけ受け取っておく。それと、大変申し上げにくいのだが」
「出てけ、って言うんでしょう。分かってるからごゆっくり」
押し付けるように、薬箱を手渡された。そのままリアは踵を返し、部屋を出て行こうとする。
薬を借りて来てほしいと、カラノが頼んだ訳ではない。何も言っていないのに、リア自ら借りて来てくれた。リアにしてみれば、金を払って雇っている相手が、仕事に失敗している状態であるにも関わらず。単に、早く治して働けという意図でしかないかも知れないが、嬉しかった。
だからこそ、やはり、白黒つけておかなくてはならない。
薬箱を開けながら、背に声をかけた。
「いや、話したいことがあるから、いてくれ。ただ、そう、いつも通り、俺のことは見ないでほしい。反物織りの鶴と思って。目を背けるとか瞑るとかして」
「……はいはい。窓の外でも見ているから」
寝台脇の小さな机が、蹴られて窓の近くに寄せられた。リアに座られて、不平を漏らすように軋んだ音を立てる。
リアの視線が窓を向くのを待って、服をたくし上げた。少し気持ちが急いていて、傷の確認をしながらではあったが、早速口火を切った。
「ここからの話だが、アンタ、他に人を雇った方がいい。今の調子だと、ガフミまでまだかかる。無事に着けるかも、怪しい」
傷はほとんど塞がっていた。僅かに倦怠感が残るだけで、大したことはない。だが、大したことはないと思えている内に手を打って置かなければ、じき致命傷を負うことになる。
「いつ着くかは……気にしていない」
「だとしても、時間がかかればかかる程、アンタの場合、危険は増える。……過去に何をしたか知らないが、懸賞金でもかかっているんじゃないか、アンタ」
「さあ」
「それと特に、いつからか知らないが、妙な輩が付きまとっているだろう」
「左利きの人のこと?」
一瞬見かけた弓矢や剣の使い方から、いつの間にかそういうあだ名になっていた。あだ名をつけざるを得ない程に存在感があった。
「あれは腕が立つ。しかも、ほとんど姿をつかませない。俺より上手だ。アンタに付きまとう他の輩を殺したり、気味の悪い手紙を寄越したりで、目的がよく分からないが、もしあれが何か仕掛けて来たら、俺はアンタを守り切れないかも知れない。対策するなら今の内だ」
「あの人は、確かに……」
少なくとも今の状態では進めない、と判断するのに充分な要素は、提示した。
薬箱を閉じる。長く使われてすり減り、丸みを帯びた木の音がする。
窓の外で鳥が鳴いている。
「手当ては終わった。リア、もうこちらを向いても構わない」
立ち上がる拍子に、小さな机はまた鳴った。
リアはこちらを向かず、窓を開けようとする。だが、建付けが悪いようで、窓は半分も開かない。仕方なくカラノが、リアの背後から手を伸ばして開いてやる。涼しい風が吹き込んだ。
白髪が流れて、ちらと耳が見える。
「出立はいつにする。俺はあと丸一日休めば大丈夫そうだ」
「……では、明後日の朝に」
「分かった。それまでに考えをまとめておいてくれ。村長にも言って来る」
「ありがとう、カラノさん」
無意識に、糸で引かれるように、手がリアの首元に伸びた。肌に触れて、体温を感じたいという欲求が、場違いにも、燻る火のように腹の底で燃えていた。
触れる直前、ほんの少し逡巡はあったが、結局ほとんど悩まず、形の良いうなじを撫でた。
いくらか前なら堪えていたような気もするが、今はもう触れずにいる方が惜しかった。
呆気なく襲撃で命を落とすことも、もう用済みと解雇されることも、有り得てしまう時間に来ている。
「好きにすればいい、リア。アンタの旅だ」
返事はなく、その目はじっと窓の外を見ていた。考え事をしているのだろう。そう思い、そっとしておくことにした。
それを後にカラノは悔いる。
外から、風に乗って、リアにだけ声が届いていた。
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