道草

 魔物の数珠繋ぎが、屋敷までの道を進んでいく。

 コボルトに小鬼、ゴブリン、サハギン、骸骨、人間の足だけの物、布を被った物。その他様々な魔物。どれも目は深く落ち窪み、呼吸には意志がない。

 その様は葬列に似ていた。

 屋敷の庭に通されたそれらを睥睨すると、地主は満足げに鼻を鳴らした。


「ご苦労。今回も良い働きですね」


 地主が声をかけたのは、お抱えの魔物売りだ。弱気そうな顔をしているが、通常の魔物売りとは違い、野生の魔物だけでなく、他人の持ち物を盗んで売り買いする外道だった。

 もっとも、魔物の立場からしてみれば、どちらも惨さでは大差ない。


「ありがてぇお言葉です、お館様。へへ。先日は災難だったって聞いたんでね、お見舞い代わり、安くしときますよ。ご用命通り、色々種類多めに持って来たんで。例えばさ、あの……」


 魔物売りは、足まで隠す布を被った魔物を指さした。


「あれとかね、上物です。お館様は気に入られると思いますよ。ほんとにさ」

「ほう。何です?」

「エンニケ海産の、セイレーンにございます」

「まさか」


 微かに布が揺れた。


「あの海には、もうほとんど残っていないと聞いています。僅かに残っている物も、生半可な人間では取り扱えない程に凶暴化しているとも。貴方、ハーピーや鳥人を高値で売りつけようとしているのでは、ありませんよね?」

「ひぃっ。ひひ……ち、違いますよぉ。大恩あるお館様にそんなこと、する訳がないじゃないですか。どうぞ、ご遠慮なくご確認ください。足も手も縛って、口には猿轡をしておりますから、危険はありませんよ。はは……」


 地主は首をひねる。魔物売りの様子に違和感を抱いているのかも知れない。だが、結局あまり気にすることなく、近くに控えていた使用人を振り返った。


「お前。中を確認しなさい」

「ご、ご主人様」


 引き攣った声と、怯えた目を見ても、地主は眉を上げるだけだ。


「何? 安全は確保しているそうだから。早くなさい」

「違うんですっ。その……お背中に!」

「背?」

「魔物が!」


 魔物の中に紛れて地主の背後を取り、気づかれる前に動きを封じる。単純な作戦だ。出て行った時点で騒がれるのではないかとも危惧していたが、案外に保った。

 意外に思いながらカラノは、頭に被らされていた布を取り、背中に突きつけていた片剣で、さっさと地主の足を切りつけた。


「いたっ! あっ、足痛い、何で、痛い! 切れてる!」

「ご主人様! どうして。すぐ近くにいたのに」


 軽くにらむと、使用人は口をつぐんだ。この場にいる以上、この人物も地主の悪事については知ってはいるのだろうが、見る限り荒事に耐性がある訳ではないようだ。

 標的以外も殺して構わないとリアからは言われているが、カラノ個人は、不必要な殺人は極力避けたいし、基本的には加虐趣味もない。出来れば、機会を見つけて逃げて欲しいとは思ったが、今は暇がなかった。

 地主がうろたえている内に、双剣を結びつける麻縄で首を絞め、弱ったところで、別に用意した縄で足首と手首を縛る。


「その……呪物? 姿を消す力がある、ということでいいのかしら」


 作業の途中で、被っていた布を頭の上に持ち上げながら、リアが歩み寄って来た。咄嗟に、双剣を隠してしまう。


「……今更アンタが盗むとは思っていないが。黙秘させてもらう。呪物の持つ災いと呪いは、簡単に明かしてはならないものだ」

「良い心がけ」


 視線は明らかに、隠した双剣に向いていた。

 雑談をそこそこに切り上げると、赤ん坊のように座らせた地主の前に、リアはしゃがみ込んだ。


「近い。縛ってあるとは言え、まるで動けないことはないんだ。気をつけろ」

「手足を縛られても反抗して来るなら、むしろ天晴。その時は、受けましょう」


 念のためカラノは地主の背後に控え、双剣を突きつけておくことにした。

 顔を叩く軽い音が庭に響く。捕らえられている魔物たちが、微かに身じろぎした。

 目を覚ました地主は、自分の置かれた状況に混乱した後、目の前にある顔が誰であるのかに気がついて、敵意を剥き出しにした。


「楽師! 何のつもりです、これは」

「良かった、お目覚めになられて。覚えていてくださって恐悦至極に存じます、お館様」

「何のつもりだと聞いている! 答えなさい!」

「ふふ。お館様が遊びの相手を所望と風の噂に聞きまして、先日の不義理のお詫びに、遊びに参りました」

「は? 糞、ふざけたことを。私に手を上げて、どうなるか覚悟はしているのだろうな。縄を解きなさい。今ならばまだ魔が差したとして、懲役刑で許してあげよう。何、お前程の体と声があれば、看守も罪人共も大事にしてくれる」


 カラノが手を出そうか迷った一瞬の内に、小さな拳が地主を黙らせていた。


「――鬼ごっこって、ご存知?」


 持っていた布が、ばさりと地面に落ちる。


「糞、糞、楽師風情が!」

「それと、じゃんけん。石は紙に弱くて、紙は獣に弱くて、獣は石に弱いという規則の手遊び。それを組み合わせた遊びを考えたんです。皆で、一緒に、楽しみたいと思って」


 事前に用意した原稿を読み上げるような調子だった。それだけでもリアが怒っていることは明白だったが、加えてカラノの意識には、一つ引っかかっていることがある。

 殴る直前、ほんの一瞬苦しげに歪んだリアの顔。

 こういう時、リアは荒れる。

 立ちすくむ使用人に、カラノは視線をやる。声は出さず、口だけで「逃げろ」と言ってみるが、使用人は動かない。怯えて動けないのか、使命感なのかは定かでないが、少し困る。

 じきに地主が使用人の存在を思い出した。


「君、衛兵を呼んで来なさい! 街の自警団もだ!」

「無駄です。邪魔になりそうな方々は全て懐柔済、自警団は――今頃、商人さんの元から脱走した魔物の対処で、お忙しいでしょうから」

「何……?」


 魔物売りが所有していた魔物は、ここに来ているものだけではない。他にも多数の魔物がいたが、リアは全ての檻を開けて、街に解き放った。


「貴方は私と遊ぶしかない、ということ」


 使用人は、また自分に注目が集まっては堪らないとでもいうように、身を縮めて逃げ出した。

 つい、胸を撫で下ろす。

 もし、リアがこの使用人も殺すことを決めたら、力量においても、個人的な意欲の面においても、止められる自信がなかった。

 耳にふと、浮かれたような声が入り込む。


「諦めて、楽しみましょう、お館様。私、貴方と遊ぶのを、心待ちにしていました。ずっと貴方のことを考えていた。砂糖漬けが出来るのを待つように」


 カラノにも、リアの真意は分からない。


「それで私、貴方のことが、すっかり好きになってしまいました」


 初めて地主の目に、恐怖が浮かんだ。

 恐怖心を振り払うように目が見開かれる。

 そこまで見ていたにも関わらず、少し、カラノは油断していた。リアの声に、笑みに、見惚れてしまっていた。


「――痛っ」


 獣のようにリアの肩口に噛みつく、醜い生ごみ。輝くような白髪まで巻き込んで、遂には自分で自分の体を支えきれずに、リアに向かって倒れかかる。

 血が沸騰する。

 襟首つかんで引き剥がし、側頭部を蹴り飛ばす。横倒しになった生ごみにさらに剣を突き立てようとすると「止めなさい」と声がした。


「これから私、その方と遊ぶのだから。動けなくなっては困る」

「……リア、傷は」

「ふふ、ありがとう。大丈夫だから、そんな顔しないで。これくらいよくあることだし、さっきも言ったでしょう、天晴だって」


 また、懲りもせずリアは生ごみに近寄る。正直なところ止めたかったが、目で制された。


「ますます好きになってしまいます、お館様。自分の持つ力で他者を握り潰す時の、躊躇いのなさ。自分の欲求に素直なところ。とても――私と似ている。私たち、仲良く出来そう。そう思いませんか?」

「う……」

「私が考えて来た遊びも、きっと貴方なら楽しめる。鬼ごっことじゃんけんの組み合わせ。つまり、誰もが鬼となって子を追い、誰もが子として鬼から逃げるんです。力関係は、貴方は私に勝ち、私は魔物に勝ち、魔物は貴方に勝つ。どこかの陣営が全滅したら終わり。逃げる場所は自由。そういう、遊び。簡単でしょう?」

「やらない。わたし、は……」

「あら、よろしいのですか? それなら残念ですが、今ここで、殺して差し上げますね」


 前触れなく、脳みそに毒のような声が流し込まれて、背筋が粟立った。リアが魔術を使ったのだ。

 リアは魔術を使う時、ある程度指向性を持たせているらしい。恐らくこの魔術も生ごみにだけ向けられている。だが、操作し切れずに周囲に拡散したものだけでも、この威力だ。魔術を直接向けられた生ごみは当然耐えられず、眼球が上向いている。


「お……あぅ……」

「もし、死をお望みでないのであれば、これは唯一の好機とご理解ください。本当なら、勝ち目など、一切ないのですよ。お館様。――あはは!」


 圧倒的に上位にいる魔物の笑い声に、震え上がらない者はない。場にいる生物全てが理解している。この場の食物連鎖の頂点にいるのは、リアだ。

 恐ろしさと共に、不安がカラノの胸にひたひたと忍び寄る。

 リアは呪いを受けていると、昔馴染みであるサイコスは漏らしていた。

 呪いは多くの場合、災いを抑え込む形を取る。双剣にかけられていた呪いも、カラノにかけられた呪いもそうだ。

 リアの場合、災いは十中八九、この規格外の魔術の威力だ。魔物によって魔術の威力には違いがあるが、間違いなくリアの力は、種族の上限を超えている。そして容易に大勢を死に至らしめられる。

 重い呪いがかけられているはずだ。

 それにも関わらず、リアは全く気にする様子なく、魔術を使う。

 その歪さが恐ろしい。致命的な変化を無視して魔術を行使しているのではないかと、見る度に不安になる。


「リア」


 呼びかけは無視された。リアは楽しそうに魔術を行使して、生ごみから「やる」の一言を引き出そうとしている。

 取り返しのつかないことをしてはいないのかと不安に思いながらも、見守るしかなかった。

 だが、生ごみがリアからの遊びの申し出を、受けさせられた後。偶然にも何気なく、密かな心配に、ある種の解がもたらされた。


「カラノさん、早くお館様の足の縄、切って差し上げて。魔物たちの枷も」


 心底厭うような表情を見て、頭の中で先日のリアの声が響いた。不自由を、憎悪している。穏やかだが、息苦しくなるような声。

 不自由を憎悪するものが、自分の力に鍵をかけると言える呪いに対して、どう思うか。明らかだ。むしろそれも、不自由を憎悪する原因の一端ではないかと、思考が進む。

 そして、今までに見たリアの姿を思い出す。

 呪いの内容は知らない。方法があるか分からない。だが、もし、それが可能であるならば、どれだけ大変であっても、リアは呪いによって生き方を曲げられるより、呪いをねじ伏せる方を選ぶだろう。

 心配はなくなるどころか、むしろ増えたが、物言う気力が失せた。


「……了解」

「どうかした? ……そう言えばさっき、何か、言いかけていたかしら」

「魔物売りにも伝えてやれ。退屈そうにしている」


 抜け殻のようになった地主の縄を切り、魔物たちの枷を外す。


「そうだ、忘れてた。商人さん、貴方はお館様と同じ陣営。魔物に捕まる前に、私を捕まえれば勝ち」

「へ、へぇ? そんなご無体な。見逃してくれるって約束じゃあ!」

「機会をあげる、としか言っていないはずだけど。大丈夫。いつも売り物にしていることを、私にするだけ。武器は屋敷に取りに行ってもいいし、それに私は、貴方方が魔物を閉じ込めるのに使っている檻の前から、動かない予定だから。こんなに優しい獲物っているかしら。頑張って」


 魔物売りは叫びながら、リアにつかみかかろうとした。だが、そこはカラノが押し留める。始まりの合図はまだだ。

 リアは庭にいる、全てのものを睥睨して、告げた。


「さあ、準備はいいかしら。――始め!」


 言葉も状況も分からない魔物たちは、号令の前に、既に動き出していた。当然自分たちに与えられた目的も理解していないため、逃げ出したり、立ち尽くしたりと、ばらばらに行動する。

 だが、いずれも言葉が分からないだけで、知能が劣る訳ではない。自由の身となった自分たちに必要なものは、誰も彼も理解している。

 魔物の生き方は、大きく分けて二通り。野で獣と同じように生きるか、人間の下で道具として生きるかだ。野に還ることは容易だが、過酷な生活となる。道具となるには運が必要だ。どちらも、何も持たないものにとっては、苦難の道である。

 だから魔物は、富や力を求めなければならない。

 標的となるのは、裕福そうな身なりの人間だ。

 身の危険に、ふらついていた生ごみもさすがに正気に返る。言葉にならない声で喚きながら駆け出す。リアを捕まえようとしていた魔物売りも、復讐心で血をたぎらせた魔物たちに襲われて、堪らず別方向へ逃げ出した。

 その姿を見送って、リアはカラノの元へ歩いて来る。


「カラノさん、檻まで連れて行って」


 汚れた手を服で拭って、差し出された手をつかんだ。

 地下室のある小屋までは、誰にも邪魔されずに辿り着くことが出来た。

 鍵は既に開いている。三つ目の魔物は今頃、別の街で新たな、より給料が良く安全な職に就いて、第二の人生を歩み始めていることだろう。

 二人小屋に入った後、念のため他に人が入って来られないよう、小屋の入り口は物で塞いだ。

 床に据え付けられた、地下室の扉を引き上げる。


「ここだ、リア」

「……うん」

「大丈夫か?」

「早く行きなさい」


 階段を先に下りていく。今日は明かりはないが、出入り口から日光が入って来る。染み付いた臭いはまだ消えていないが、新たな魔物はまだ補充されていないようで、静かだ。


「檻……」


 背後から呟きが聞こえる。

 一番下に降り立った。


「やるか」


 腰に提げていた金切鋸を、ひとまず切りやすい高さにあてがって、前後させる。耳障りな音が響き渡る。リアが耳を手で塞いだ。


「外で待っていろ」


 手を止めて言うが、リアは首を振った。言っても聞かなそうだったので「いつでも上に行っていいから」と告げて、作業を再開する。何度か休憩を挟みながらも、十箇所程切った。リアに見つめられながら、檻は、檻だったものになった。

 達成感はあまりない。むしろ閉塞感のせいで、リアと出会ってからは久しく感じていなかった、陰鬱な感覚を思い出していた。


「ねえ。ついでに、地下室の扉も壊せる?」

「先にやれば良かった」


 扉が持ち上がったままになるように支える金具を切って、扉を取り外す。小屋の中には、ぽかんと口を開いたような穴が出来た。どことなく間抜けな感じがして、それでやっと少し気分が晴れた。

 小屋の入り口を塞いでいた物を退かして、久しぶりの気分で、外に出た。

 カラノの耳には、騒ぎの音は聞こえない。

 もう一度休憩したい気分ではあったが、休憩してはいられない。今日中に街を出る予定だった。


「魔物売りと地主がどこにいるか、分かるか」

「商人さんの方はいい。お館様の方にだけ行こう」


 リアに従って、最初の庭に戻る。魔物たちに甚振られ、実際にも生ごみと大差なくなった人間が、そこにいた。魔物たちの姿はない。

 檻や武器、または社会的地位による優位を失い、単純な力勝負になれば、人間は魔物に対して、ほとんど成す術はない。こうなるのは当然の帰結だった。魔物売りの方も、恐らくはほとんど同じ状態になっているだろう。

 そばにしゃがみ込んで、リアは口元に手をかざし、呼吸を確認する。憂いとも安堵とも取れるため息をついた。

 そして告げる。


「貴方が今も生きているのは、私が魔物たちに、殺さぬようにと命じていたからです。くれぐれも思い上がらぬよう」


 屋敷に来るより前、魔物売りの元から魔物を強奪した段階で、リアは魔術によって魔物たちにいくつかの指示をしていた。殺さないようにという指令は、その一つだ。


「自由に生きるというのは、こういうことです。遊興に耽るのは大変素晴らしいですが、この程度の力しか持たぬのであれば、恨みを買うのは程々にした方がよろしいかと。今後は、お気をつけを」


 命を奪われるまでいかなくとも、余程根性のある者でなければ、当面のところは魔物を見たいとは思わないだろう。あるいは魔物を嫌い、排除する方向に行くかも知れないが、それは知るところではない。

 ルースの依頼は解決した。


「さようなら」


 愛おしげに顔を撫でて立ち上がる。生ごみは微かにぴくりとするだけで、何も答えなかった。


「行きましょう」

「本当に、殺さなくていいのか」


 あの檻を目の当たりにして、かなり苛立っていたはずだ。また、懲役刑と言われた時にも、激怒していた。

 前もって敷地内に隠してあった荷物を取りに行きながら、リアは言う。


「カラノさんが殺したければ、どうぞ。私は――いい」


 思わず肩が揺れた。

 何故と聞いた。リアの話を聞いた。その過去に、同情した。

 恐れていた先。既に渦の中心にいると気づく。


「俺も、いい。別に俺は……」


 まだ、と咄嗟に首を振った。仕事でならば人間殺しも構わないが、ただ自分の欲に従って行うのは、違う。まだそこまでは堕ちていない。

 だが、それを堕落と言ってしまえば、それをリアに勧めたことは、何となる。

 リアを見下すような気持ちは一切ない。むしろ、その逆だ。好きというだけでない、憧れている。憧れているからこその、願い。


「人殺し、あまり楽しいことではなくなってしまったの。たまに食べたくなることはあるけれど、それもどうせだったら……」


 カラノの動揺には気づかなかったようで、リアは独白のように言いながら荷物を拾い上げて、街へ足を向けた。


 庭で放した魔物たちは散り散りに逃げたようで、追いかけてくるようなものはなく、街には何もなく辿り着いた。

 魔物売りの元から逃げ出した魔物のせいで、街は騒動になっているはずだった。犯人がリアとカラノだとは気づかれていないはずだが、念のために身を潜めながら、様子をうかがう。

 どことなく騒動があった気配は残っていたが、思っていた程ではない。たまに街の自警団が、慌ただしく駆けていくのが目に入るくらいだ。


「これは、上手くいかなかったかな……」


 呟きを聞きながら、ルースの姿を探す。

 最も大きな公園に、その姿はあった。

 自警団の団員たちに、指示を出している。その近くには、縄で縛られた魔物たち。魔物売りに囚われていた魔物の全てではないようだが、大部分がそこにいるようだ。

 そして、失敗はそれだけではなかった。

 ルースのそばに、雰囲気の似た人が一人いる。下調べの段階で、カラノもリアもその人の顔を見知っている。自警団の団長であり、地主から賄賂を受け取ってその犯罪を黙認していた、ルースの伯父である。腕に包帯を巻いてはいるが、それ以外は特に問題なさそうだった。怒鳴り声が響いて、ルースが慌てた素振りで振り返る。見ているだけで気分が悪い。

 殺さないように、の他にリアが出したもう一つの指令。ルースの伯父の足、または腕を切断して、現役から退かせるという指令は、果たされなかったらしい。


「どうする?」


 頭巾を被っているせいで、リアの表情は見えない。


「したいことはした。野宿は嫌だし、出ましょう」


 見えないが、その声から、勝手に表情を思い浮かべてしまう。つまらなさそうな、だが、どこかで安堵しているような。

 それが単なる推測なのか、自分の願望であるのか、分からない。

 恐れていたことが、早くも現実になりつつあると、自覚した。

 境目が曖昧になっている。

 そして、それは、また別の事実を示唆する。


「カラノさん、行かないの?」


 若干上の空ではあったが、返事をして、ルースに見つかる前に街を出た。

 よく晴れて、地面は固く、歩きやすい日和だ。予定していたよりも遅い出発にはなったが、余程のことがなければ野宿は免れる。

 だが、どことなく空気は重かった。

 一息ついて、リアに目を向けると、視線がかち合った。何か言いかけるように薄く開いていた口は、その一瞬で閉じられる。心の内を隠すように睫毛が伏せられ、何事もなかったかのように逸らされる。外套の頭巾が深く被り直されて、表情もまた見えなくなった。


「リア」


 この付き合いは、ガフミまでだ。

 仕事を終えたらリアと別れ、また、元の生活に戻る。


「抱き締めさせてくれ」

「はい? 今?」


 頭巾が指で持ち上げられる。その中にある怪訝そうな目をじっと見た。


「……いえ、構いませんけど」


 呆れたような顔をされながらも、外套の上から細い体を抱き締めた。人間よりも高い体温と、肉の下にある簡単に折れてしまいそうな骨の感触が、胸をざわつかせる。

 五感も習性も異なる生物。ある日、日常の一部として、カラノを食べる可能性もある生物。人間の尺度で計るのは間違っていると分かっていても、どうしても、人間のように見てしまう。

 ふと胸に、頬が寄せられる感触があった。


「前から思っていたけど、カラノさん、人間にしては体温が低い?」

「――悪い」


 心当たりはあって、咄嗟に身を引こうとした。だが、いつの間にか背に手が回されている。


「離れないで。海のようで、気持ち良い」


 囁くような声が頭に響く。

 海のようという言葉は複雑ではあったが、リアが安らぐのであれば、良いと思えた。その安らぎは、カラノをも救う。

 だが、同時に。悪どい人間がそのまま放置されたこと、役に立たない魔物への失望、地主への殺害願望、リアの動機への共感。拒んでいた感情が、砂に沁みるように、胸に溶けていく。

 全て、海に流せてしまえたらと思っていることも、もう認めてもいいかと思った。

 リアに出会うまでは禁忌だと封じていたが、本当はずっとそう思っていた。リアの行いを恐ろしく思いながらも、清々しくも感じていた。リアに共感するような自分が存在していることに、気がついてしまった。

 今の自分では、元の生活には戻れない。それでも、存在自体は否定出来ない。


「……聞きたいことがある」


 後先を考えずに、渦の中心に向かって櫂を漕ぐ。


「アンタ、何故そう、誰にでも好きと言えるんだ。好きであるはずがないだろうに」


 少し間を置いて、腕の中からため息が聞こえた。冷水をかけられたように、心臓が冷える。


「さっきから様子が変だとは思っていたけれど、その勘違いのせい?」

「勘違いとは思わない」

「傲慢」


 笑い声が上がるが、どことなく殺気を感じる。喉元に刃を突きつけられたような心地だが、それ以上に自分の中にいる怪物が恐ろしい。逃げるために言葉を続ける。


「不自由を憎悪している、と言っていたのはアンタだ。この世に不自由でないものはないし、他者に不自由を強いることのないものもない。何より、アンタ自身の力こそ、自由からはかけ離れている」

「……」


 あえて規則で縛らなければ、人間とも他の魔物とも、対等にはなれない程に、リアの力は圧倒的だ。自分の自由だけを尊ぶならばまだしも、他者の不自由も許せないような人物にとって、その力は果たして喜ばしいだけなのか。

 今までに見て来たリアの姿が思い返される。


「人間も魔物も、自分自身も……嫌いだろう」

「そうだとして、カラノさんはそれを私に言って、どうしたいのかしら」


 何故、自分はこれを聞いているのだろうと、言われて頭の片隅で考える。渦の中に、破壊されたいくつもの漂流物が見える。触れたくないようなものから、自分の手に引き戻したいものまで。

 抱き締める力を強くする。これもまた、リアにとっては疎ましい行為なのかも知れないとも思いながら。

 背に回っていた手が、首の後ろに届く。


「今は、アンタが大丈夫なのか……聞きたい」


 しばらくの沈黙の後、首の後ろに痛みが走った。千枚通しで突き刺されているかのような痛みだった。


「……カラノさんの目には、私が大丈夫ではないように、見えるのか」


 爪が深く食い込んでいるのだろう。それも人間の爪ではなく、猛禽類の尖った爪だ。痛みは徐々に増していく。

 だが、皮肉なことに、その痛みには戯れの口づけや笑みよりもずっと強く、リアの本音を感じられた。

 爪が皮膚を破った感触があった。


「大丈夫、カラノさん。――嫌いなものなんてないから」


 生命の危機を感じて本能的に身を引きかけたが、首に回った腕に、頭を引き寄せようとするように力が込もった。さして強い力ではなかったのに、抗えない。


「私の呪いは、魔術封じ。発動条件は悪意。例えば、殺したいと思いながら魔術を使おうとすれば、逆に私が死ぬような苦しみを味わう。だから、私は……」


 耳に唇が触れた。


「愛している。人間も魔物も、自分自身も、全てを」


 指令のない、単なる魔力が、奔流のように流れ込んで来る。甘い吐息が喉に絡みつく。頭巾の中から溢れた白髪が、首元をくすぐる。


「もちろん、カラノさん。あなたのことも、私は愛している」


 しかし酩酊を凌駕して、悲しみが胸を満たした。

 出会ってから今までの短い期間にすら幾度となく、人々を壊す姿を目の当たりにした。その度に、カラノがとどめを刺す前、壊れた人物を、己で壊したくせに、心底愛おしむように、悲しそうに見ていた。

 馬鹿らしい生き方だ。狂気に陥る生き方だ。

 一つの感情を封じることが、どれ程辛いか、カラノは知っている。

 だが、リアはそうする他ない。風に吹かれるまま歩くことを好み、呼吸するように人を魅了して、自由に歌うことを生き甲斐として、そして全ての不自由を憎悪する。そんな人物が、誰も憎まず、魔術も使わずに生きることなど、この世界では不可能だ。

 ねじ伏せているのだろうとは思っていたが、実際にそれを聞くと、思っていた以上に苦しく、そして眩しかった。


「リア……」


 笑みの気配と共に、爪が抜かれた。


「余計なお世話だから、心配しないで。呪いがなかった頃よりも、呪いをかけられた後の期間の方が、ずっと長いのだし」

「ごめん」

「謝らなくていい。もう発散させてもらったから」


 笑いながら、変化させていた爪を、カラノの目の前で戻す。血はついたままだ。雑にカラノの首元に擦りつけて、カラノの腕の中から抜けていく。


「……話をさせたことだけではない。俺はアンタを、自分のところまで引きずり下ろそうとしていた」


 綺麗な笑みから目を逸らした。


「だが、平気でいるなら良かったとも、本気で思っている。それで許して、ほしい」


 安堵と、心細さを感じている。


「――カラノさん」

「悪かった、足を止めて。行こう」


 改めて顔を上げる。

 空色の瞳に、水の膜が張っていた。

 まばたきで一粒溢れて、頬を伝っていく。


「え」


 カラノよりもリアの方が、それに戸惑っていた。視線が揺れて、地面に落ちていく。


「違う、これは。何で、私――そんなに?」


 頬を、はらはらと朝露のように滴が滑っていく。

 取り留めのない呟きの意味も、そもそも、その滴が涙であるのかも、まるで分からない。だが、仮に涙とは異なるものだったとしても、それには涙と同じ輝きがあった。目が離せない。強く惹きつけられる。

 溺れた。

 その輝きを追いかけていたら、ふと、リアに口づけていた。自分からしたのは初めてだと、後から気がついた。

 花の蜜めいた甘さが脳を痺れさせる。滴も混じっているのだろうが、人間の涙と同じ味かは分からない。

 離れはするが、名残惜しさは止まなかった。


「分かってくれるんじゃねえかって、期待するから、泣かないでくれ」


 瞼がぴくりと動き、リアの口が微かに動いた。


「土下座」


 瞬間、地面に衝突する勢いで膝が落ちた。

 抗おうとするが、辛うじて地面に頭がつかないよう耐えるのが精一杯で、顔が上がらない。指令に思考が蝕まれる。土下座することが快感に思えて来る。あと一声分でも魔術を重ねがけされていたら、むしろ頭を下げることに快感すら感じていただろう。

 低く、抑えた声が頭上から降る。


「一緒にするな」


 駆け足気味に足音は遠ざかった。

 時間経過で体が動くようになってから、慌ててリアの姿を探した。怒らせたからではない。護衛としてだ。

 悪意を感じている相手には魔術をかけられない。それはつまり、襲われた時、咄嗟に魔術では身を守ることも出来ないということだ。

 街からそう離れておらず、危険は少ないとは言え、皆無ではない。悲鳴なども聞こえてはいなかったが、緊急の時に、必ずしも悲鳴を上げられるとは限らない。

 幸いリアとの距離は、そう離れてはいなかった。

 外套に包まれた背は、カラノを拒むようだった。

 さすがに、すぐに駆け寄るような面の皮の厚いことは出来ず、周囲の危険がないことを確認し、歩調を緩めて、リアの背を眺めた。

 自省すべきとは思うのだが、リアのことしか考えられない。

 呪いについて知ったことで、今までに感じていたいくつかの疑問が氷解した。

 思い返すと、酷く苛立った時や怯えるようなことがあった時、リアは一瞬、息苦しそうにしたり、顔をしかめることがあった。例えば今日も、地主を殴る前に眉を寄せ、その後も自分の声を使うのではなく、殴ることで黙らせていた。あれは自分を欺くことに失敗していたのだ。

 あれだけの力がありながら、魔術によってとどめを刺さないのも、しないのではなく、出来ないのに違いない。本気の殺意まで欺くのも困難なのだろう。

 ついでに、翻せば、土下座には一応、悪意はなかったということにもなる。

 自身の首の後ろに触れた。小さな穴が空いている。指にはうっすらと血がついた。

 完璧ではないのだとしても、愛しているなど、あれ程信じられない言葉もない。

 愛しているという言葉より、むしろ──この傷の方が余程、リアの真心に近い。呪いを避けるための欺瞞はない。絶対に相手を傷つけようという確固たる決意が、この傷にはこもっている。

 もしかすると、最もリアの真心に近づける方法は、リアの手で殺されることなのかも知れない。

 そうなれば、と夢を見た。


 欲しいものが、一度に「二つ」も得られる。


 恐怖がふと戻って来た。自分の体が脆い箇所から剥がれていくようだった。


「今日は、おかしい……」


 首の裏の傷を、自らの爪で抉る。痛みが正気を引き戻し、渦潮の中心へ向かおうとする身を引き止めた。ガフミに辿り着いた後、真っ当な生き方に戻りたいのであれば、そんなことは考えてはならない。

 戻りたくないのだとしても、その唯一のよすがには、拒絶された。当たり前だ。


「……俺だって、まだ、涙かどうかも、知らないのに」


 改めて自分の愚かさを思い知り、自嘲の笑いが浮かんだ。

 だが、自分の願いを叶えてもらえなくとも、リアが好きであることに変わりはない。先程も言った通り、その気持ちも本当だ。まだ旅を終わらせたくはない。少なくともリアに望まれている間、ガフミまでは、護衛を続ける。


「反省したから、そっちに行っていいか、リア」


 答えはなかったが、地面を蹴る足に力を入れた。

 すぐに追いついて、隣に並んだ。


「来るのが早い」


 開口一番そう言われた。


「反省はちゃんとした」

「そうじゃない。私が、まだ……」


 頭巾が深く被り直される。大きめの外套は、すっぽりとリアを覆い隠してしまう。


「謝れない」


 何も見えなかったが、顔のあるところを凝視した。


「何故、アンタが謝るんだ」

「……さあ。けれど、謝らなければと、思うから」

「理由も分からないのに、謝らなければと思っているのか」

「人間だって、本当は悪いと思っていなくても、嫌われたくない人には、謝罪をするでしょう。そういうこと、だと……思う」


 カラノの指に、リアの指が触れる。絡めるでもなく、いることを確かめるように、触れるだけだ。言葉の内容とは全く無関係に、胸から、恋の淵の深みにはまる音がした。


「そんなことにはならないと思うが、もしそうなったら、力ずくで引き止めてくれていい。不自由も気にしなくていい。今の俺が許す」

「しません。……ねえ、本当に反省した?」


 反省はしたものの、一度剥がれた部分は戻らない。恐怖心を超えて、その中心に手を伸ばす快感も、忘れられる訳ではない。そうして少しずつ、後戻り出来なくなっていく。


「……私も、ごめんなさい」


 聞こえなかったふりをして、カラノから手を取った。


「謝るくらいなら、詩を歌ってくれないか。その方が俺は嬉しい」


 びくりと手が引かれたが、すぐに手繰るように指が這い、手首をつかまれた。


「何か希望の詩はある?」

「アンタを笑顔に出来る詩を」


 微かながら、甘やかな笑い声が聞こえる。


「喜んで」


 明るい声が旅路に踊る。大洋に浮かぶ島ほどの大きさをした大海亀と、そこに上陸してしまった人間たちの、ただ面白可笑しいだけの冒険譚だ。

 耳を傾けながら、道の先を臨む。

 次の街はまだ見えない。この旅の終着点であるガフミも遥か先。

 それより先には、望洋と雲が広がるだけ。

 ただ、破綻の気配はありありと、遠雷のように届いていた。

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