午下

「ようこそおいでなさいました、リア様」

「こんにちは。改めて、お声かけ頂いたことに御礼申し上げます。尊き魂を持つと名高いマカリオス様の信仰の一翼を担えることは、我が生涯の誉れとなります。本日は、その御心を神にお届けするべく、聖廟浄処のための聖詩、敬神と万謝の気持ちを持って歌わせて頂きますので、どうぞよろしくお願いいたします」


 口上を聞きながら、気まずい空気を感じている。今までは遠目に見たことしかない、身なりの良い使用人が、嫌悪感に満ちた目を向けて来ていた。


「……ところで、そちらの方は?」

「従者でございます。この街には不案内でしたので、道案内も兼ねて、雇いました」


 リアの紹介に合わせて頭を下げるが、厳しい視線は緩まない。


「申し訳ございませんが、聖廟に入るのはリア様だけにして頂けますか。従者の方は聖廟の外でお待ちください」

「えぇ、かしこまりました」

「……聖廟へご案内する前に準備がございますので、お部屋で少々お待ち下さいませ」


 生活感のない整った部屋に案内された。カラノに鋭い一瞥を向けた後で、使用人は奥へ消えた。


「嫌そうな顔してた。これはお仲間とご相談かなぁ」


 底意地の悪そうな声に目を向ける。表情は使用人と話していた時と変わらず端麗、白で統一した服装も相まって、高貴のお嬢様のようにも見えるのに、性格で全てが台無しになっている。


「邪推じゃないのか。聖なる儀式に魔物狂いが混じったら、誰だってああいう顔をする」

「それもあるでしょうね。でも、それだけではない。油断しないで、守ってよ」


 ここへ来る道すがら、今日の想定や、いざという時の合図について話した。カラノの存在が抑止力となり、何も起きなければ、追及はしない。だが、もし何か起きたら、リアを守ることを最優先としつつ、可能ならば報復を行う。

 使用人が二人の人間を連れて戻って来た。それぞれ、水桶や香炉などを抱えている。いくら領主とは言え、物持ちのような小間使いは、普段は魔物にやらせているはずだ。儀式とあって、徹底して人間を使う方針らしい。


「お待たせしました。ご案内いたします。どうぞこちらへ」


 屋敷から出て、左手に街を見下ろしながら、屋敷を囲む林に足を踏み入れる。

 飛び石や砂利で整備された通路を歩いていくと、木立の向こうに建物が見えて来た。林が開けて、全貌が現れる。

 石造りの聖廟。街にある教会とは違い、人が集まるための場所ではないため、一軒家程度の大きさしかないが、妙に存在感があった。神を軽視しているカラノでも、その佇まいには冒し難いものを感じる。


「従者の方はここでお待ちください」


 まるで境界線でもあるかのように、使用人に手で制止された。

 聖廟までの距離は、大股で二十歩といったところか。間に障害物はないとは言え、何かあった時に、咄嗟に助けに行ける距離ではない。


「こんなに距離を取らせるのですね。子供らも集めて賑やかに行うところも多いのに」

「申し訳ございません。主人の意向ですので」

「いえ、こちらこそ失礼いたしました。歌う身としては、多くの方に聞いてもらいたいと思ってしまうもので……。あなた方は聞いてくださるの?」

「私共は、荷物を運び入れた後は外でお待ちいたします」

「それは残念です。いつか是非、聞いてくださいましね。君、竪琴を」


 中身が竪琴かどうかは知らなかったが、持たされていた取っ手つきの木箱を手渡す。異もなく受け取り、四人はカラノを置いて、聖廟へと向かう。

 後ろ手に双剣を抜いた。

 聖廟は正面に扉、側面に窓が二つ並んでいる。窓は、大人の人間ではくぐり抜けられそうにない大きさだ。中に出入りしようと思ったら、正面にある扉を使うしかない。

 使用人たちに振り返る様子はなかった。

 その背中をじっと見る。

 先程からリアとやり取りをしている、一番立場の高そうな使用人は、マカリオスに正式に雇われている人間だ。一昨日の仕事の時も、街で開催された式典などでも見かけたことがある。用心棒ではなく、秘書のような役割だ。

 だが、荷物持ちになっている二人は、一介の使用人には見えなかった。荷物持ちという役割に比して、体つきが良過ぎた。

 使用人が聖廟の扉にかけられた鎖を解き始める。使用人の後ろで待つリアを、左右から挟むように、荷物持ち二人は立っていた。

 扉が開く。

 リアが手櫛で髪をすき、同じ手で肩を三回叩いた。

 瞬間、カラノは使用人が示した境界を踏みつけた。

 リアは使用人の背中に突進し、開けたばかりの扉を閉じさせる。荷物持ちたちが振り返った。それぞれ持っている荷物の中に手を入れる。水桶が転がり、香炉の割れる音がした。凶器を取り出すつもりだと直感する。

 その前に、向かって右側にいる荷物持ちに向けて、双剣の片方を投げつけた。

 素晴らしい反射神経で片剣を受け取ったそいつは、一瞬笑い――恐らく、奪ったばかりのカラノの剣を構えた、はずだ。

 カラノの目には、もう、自分に向けられた切っ先しか見えない。

 揺らめく空間から、戸惑う声が聞こえる。


「あれ、どこに――」


 声のする辺りに、自身の持っていた剣を突き立てた。


「おい何をしている!」


 剣の柄に結わえた麻縄を引き、奪われた双剣を手に戻す。もう一人は既に、香炉の中から取り出した、前腕の長さ程の剣を構えていた。その姿を、一瞬の内に脳裏に焼き付ける。

 麻縄を持って、片剣を投げつけた。片剣は重りとなって剣に絡みつく。

 すると、じわりと、目の前にいたはずの人間の姿が消えた。剣も何も見えなくなり、絡みついた片剣だけが、そこにいるはずの人間の動きに合わせて、小刻みに揺れている。


「何、何だ!? 消え――ッ、がッ」


 脇腹があった空間を斬りつけながらすれ違い、恐らくは膝を打って体勢を崩し、背中があるはずの場所に剣を突き立てた。

 肉を裂く感触と、聞こえて来る悲鳴が、結果を知らせて来る。

 刺した片剣を引き抜き、剣に巻き付けた片剣を回収すると、目の前によろめく背中が見えるようになった。狙い通りの箇所に、血が流れている。

 とどめを刺そうとした。

 だが、横合いから人が飛び出して来て、寄りかかるように、とどめを刺そうとしていた死にかけの体を押した。

 神に捧げるための白い服が、血で染まっていく。

 だが、声はあった。

 二人分のうめき声の反対側には、使用人の背中があった。リアを突き飛ばして自由になった使用人は、扉を勢いよく解放すると、聖廟の中に転がるように逃げ込んだ。

 その暗がりの中に、うっすらと人の姿が見えた。

 リアの耳が聞いたところによれば、聖廟の中の人数は三人。人間であるかは分からない。武器の有無も不明だ。だが、この計画的な動きを見るに、外の二人以上の手練を用意していると考えるべきだ。


「リア、立て」


 言いながら腕を引くと、ひょいと簡単に持ち上がった。返り値で血まみれになってしまっているが、怪我はなさそうだ。場慣れしているようで怯えることもなく、状況を素早く把握し、聖廟から離れた。

 聖廟の中から三人の人が出て来る。

 一人は白く裾の長い、聖職者の装束を着ていた。

 聖職者が口を開く。


「神に与えられた使命を逸脱し、世の理を乱さんとする悪魔――愛なきレウ。その在り方の不埒であることを知り、速やかに魂を神にお返しせよ」


 背後から、笑い声がした。


「貴様らか! なるほど、この舞台は、聖戦という訳か。くだら、な――ッ」


 笑い混じりだった声は、喉を締められているかのように勢いをなくしていった。

 振り返りたかったが、聖職者の背後にいる二人の人間から目が離せない。

 一人は長剣、一人は弓。いやに白い素材で作られた武器が向けられている。

 構えている人間はかなりの手練であり、殺意に満ちている。二人同時に相手をするのは、やや骨が折れそうだ。

 だが、危惧は、溶けた。


「……くだらない」


 背後から聞こえる声の質が、変化していた。

 異様な艶のある声だ。目の前にいる三人も気づき、顔色を変えて、耳栓を装着する。

 恐らくは昨日、カラノに使った魅了の魔術を使おうとしている。ただ、同じ魔術とは思えない程に、魔力の量が違う。


「けれど、えぇ、けれど! その欺瞞が愛おしい。復讐心が涙を誘う。だから私はあなた方を、心から愛することが出来る」


 背中に手が触れた。ばつ印が描かれる。耳を塞げの合図。だが、合図がなくとも、耳を塞いでいただろう。嵐の中で生き物が、風に飛ばされないよう本能的に身を固くするように。


「そんな、震えながら、私を見ないで。あんまりにかわいくて――」


 背後で怪鳥が大口を開けていた。

 手のひらの向こうから、歌声が聞こえる。

 強く、強く手を耳に押し付けた。意識しないと自ら手を外してしまいそうだった。羽毛のような歌声が魂をくすぐる。その中に身を投じたら、もう二度と目覚めることは出来ない。

 陶然とした顔で崩れ落ちる三人が、恐ろしく、羨ましい。周囲の林までもが揺れていた。

 耐えられたのは、魔術自体は三人にだけ向けられていたからだ。

 背中を叩かれ、腕を下ろした。

 林の中で鳥がこの世の終わりのように騒いでいるのが聞こえる。


「とどめを刺してあげて」

「もう、いいんじゃないか……」


 目も当てられない程に無惨な有り様だった。

 一人は弓を捨て地面に倒れ、喉をかきむしっている。鮮やかな赤い線が何本も引かれていた。一人は剣を己の足に突き立てて、肩を上下させている。

 聖職者は口からだらりと涎を垂らし、虚空を見つめていた。時折びくびくと体が痙攣する。

 耳栓などでは全く無意味。

 尋常の魔物では有り得ない、魔術の威力。


「これから起きている間ずっと、二度と会えない相手に恋い焦がれるなんて、辛いでしょう」

「……あぁ」


 言葉の内容より、慈悲に溢れた声がただ恐ろしく、従うことにした。首を切り、表情が失われるのを見ると、これで良かったような気にもなった。

 だが、作業を終えて、リアを振り返って、当惑する。

 その顔は酷く悲しそうに沈んでいた。

 リアは最早生気のない体に歩み寄ると、優しく抱擁した。額に口付け、微かに何か呟く。恐らく、祈りのような言葉だった。

 愛する人を亡くしたかのようだった。


「……もう一人、中にいるが、どうする」

「様子を見て来て。正気を失っていたら殺して、まだ正気を保っていたら、マカリオスさんへの伝言を頼むから、拘束しておいて」


 当惑したまま、聖廟に向かう。まとまらない考えが渦巻いている。

 中を覗き込むと、短い通路の奥に使用人が座り込んでいた。入り口には背を向けていて、カラノに気づく様子はない。

 使用人の前には、神を示す方形の塔。


「おい。抵抗する気はあるか」


 呼びかけると、使用人は振り向いた。

 その顔には、勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた。


「神が私をお守りくださった」


 耳をそっと抑えるような仕草をし、目を瞑る。


「悪魔の歌声が聞こえて来て、終わりだと覚悟した瞬間、誰かが私の耳を塞いだのです。あれこそ、神の御手──」


 近寄っていって、片剣で左手を刺した。使用人の姿はかき消え、悲鳴だけがカラノの耳に届く。刺したまま剣を回すと、肉がかき回される感触が伝わって来た。


「やめろ……! どこに消えた!」


 手を振り回していたのだろう。肩口を叩かれた。腹が立って、反射的に使用人のいるだろう辺りを蹴り飛ばす。肉が引き裂かれ、剣が抜けた。

 顔面蒼白となった使用人が見えるようになった。目が見開かれる。


「何だ、お前──魔物などに情を持ったから、自分まで魔物になったのか」


 あまりの馬鹿らしさにため息を吐いた。


「もういい」


 リアの指示通り、拘束する気で屈み込んだ。

 だが、ふと、この人物にならば、色々と聞いても良いのではないかと、思ってしまった。気づいたが最後、欲求を抑えることは出来なかった。


「質問に答えろ」


 鼻で笑われたので、足に手にしたのと同じことをすると、大人しくなった。


「何故リアを殺そうとする」

「あく、ま、だから……」

「それなら、悪魔と呼ばれるようになったのは何故だ。一人や二人殺しただけでは、悪魔とは呼ばれないだろう」

「レウを、知らないで……共をして、いたのか……」

「レウ?」


 聖職者がそう呼びかけていたのを思い出した。


「あいつの、本当の名前か?」


 返事はなかった。口元に指を近づけ、まだ死んでいないことは確認したが、リアの指示は果たせそうにない。

 言い訳を考えながら聖廟を出ると、薄ら笑いを浮かべたリアが立っていた。

 その表情で、今日の打ち合わせで、ちらと言っていたことを思い出し、やり取りを聞かれていたことを察した。


「そう言えば、耳が良いんだったな……」


 声、体重と同じく、そういう特性を持つ魔物であるらしい。


「いやらしい方」

「悪かった。魔が差した。あと、使用人も気絶させた」

「そっちは構わない。二度と構うなって伝えさせようと思ってたんだけど、よく考えたら、見れば伝わることでした」


 リアの様子は、服や顔についた血を除けば、元通りに見えた。悲しそうな雰囲気など、一切ない。しかし、先程リアが抱いていた死体は、心なしか、形が綺麗に整えられているように見える。

 この平気そうな顔を真に受けて良いのか、それともあの悲しみに暮れた顔が本当なのか、まるで分からない。


「私のこと、知りたい?」


 血まみれの手で、横倒しになっていた木箱を開きながら、リアが言った。リアが持っていた木箱だ。中には本当に竪琴が入っていた。

 服で手を拭ってから、どこか恭しい手付きで竪琴を抱え、鳴らす。

 ちょうど今日の天気に合う、玲瓏とした音が響き渡った。


「とても聖詩なんて歌える空間ではなくなってしまったから、貴方が私の過去を知りたいと言うのであれば、代わりに、リアの詩を歌いましょう。亡くなった方々も、恨みで息を吹き返してくれるかも」


 リアの過去。

 当然知りたい。それどころか、本音を言えば、過去だけでは足りない。

 心臓が音を立てる。

 しかし、これ以上知ってしまえば、なおさら別れが辛くなることは明白だった。

 サラサが死んだ時のような思いは、もうする訳にはいかない。それはカラノにとって、許されないことだ。

 それでも、首を振るのは苦しかった。


「いい。さっきのは……違う。言わなくていい。言わないでくれ」

「皮肉や嫌味で言っているんじゃない。あなたになら、知られても良いと思ってる。気にしないで」

「そうではない。俺が、聞きたくない」

「あの人には聞いていたのに?」

「だからそれは、魔が差した。今、自分の愚かさに、腹を立ててるところだ」


 片手で顔を覆った。強い血の臭いが鼻をついたが、外す気にはなれない。自分の愚かさを遠ざけて、自分の中にある感情を抑え込むために、必要だった。


「……あなたは、何かをずっと恐れているように見える」


 顔を覆えば、耳が塞げなくなる。包み込むような声が沁み込んで来る。


「俺は……」


 そうして侵食される程に、嬉しくなってしまう。


「アンタを大切な人にしたくない。アンタと別れた時、泣きたくない」


 少し置いて、高らかな笑い声が響き渡った。


「嗚呼、悲しい。なんて悲しいんでしょう! この世から春を奪われてしまったよう。涙まで出て来てしまう。──つまりカラノさんは、まだ、私との別れに、泣かないでいられるってことだ」


 顔を隠していた手を、無理やり引き剥がされる。

 目の前で空色の瞳がきらきらと輝いていた。

 見ないでくれと思っているのに、その瞳の中にいる自分は、喜んでいる。


「じゃあ、もっと好きになってもらわなきゃ!」


 決定的に、間違えたことを悟った。


「──関わるんじゃなかった」

「嫌なこと言わないで。好きって言って、夢中になって、たくさん愛して」

「冗談では済まないんだ、こっちは……」


 湧き上がる感情が深く激しくなる程に、別れが悲しく、恐ろしくなる。

 離された途端に、柔らかな手の感触が失われていく。思わず追いかけ、つかんで、瞑目した。


「行かないでくれ……」


 鼻歌でも歌いそうなくらいに機嫌の良い声が答えた。


「あなたも来ればいい」


 それは出来ない。この街にはサラサの遺した物があり、それを守り続ける人がいなくてはならない。

 だが、この魔物は、当然それを分かった上で言っているのだろう。

 つかんだ手を振りほどかれた。

 竪琴が激しく鳴り始める。


「決めた。別れの詩にしましょう。彼の方々と、サラサへの鎮魂歌にもなる」


 真昼から夕方になるように、音の雰囲気が変化していく。

 鎮魂歌と言うには鮮やかで、けれど不思議と寂しさを唆る音色。

 止めて欲しかったが、同時に、心からその声を望んでいた。

 唇が開く。

 ──瞼の裏の暗闇に、勢い良く風が駆け抜ける海原が、浮かび上がった。

 一艘の船が滑り出す。

 この街に住んでいれば、幾度となく目にする光景。一歩間違えれば、少し運が悪ければ、永遠の別れとなる出立。

 しかし、漕ぎ出た背中に悲壮感はない。

 見送る者は、笑みを浮かべる。

 何があったとしても、船出は明日を生きるための日常として、この街に在り続ける。

 そういう営みもまた海の一部なのだと、心做しか嬉しそうに言う、声がよみがえった。


 久しぶりに、サラサの笑みを思い出した。


 微かに歌声が揺れた。

 竪琴の音が少しずつ弱まっていき、終わりへの道筋を作り始める。気まぐれささえ感じさせる変調だった。曲としてまとまってはいたが、全体としてはどこか物足りなさを感じる。

 手の内から取り上げられるように、詩も音も終わった。


「何の音……?」


 カラノは目を開いた。

 聖廟の入り口とは反対側、街のある方に、リアの目は向いていた。

 呆然としながら同じ方に目をやると、鋭敏になった耳が、異音を拾い上げた。

 雷に似た音。

 さっと血の気が引いて、目元に触れた。指先が濡れる。返り血であることを願った。しかし、指についていた血は逆に、滲んで色を失っていた。

 涙。

 音が地を揺るがす。


「違う。――止めてくれ。これは、違う!」


 詩の余韻は消え去った。頭が真っ白になった。

 恐れていたのは、まさに、これだ。

 服の袖で目元を拭い、矢も盾もたまらず駆け出す。「カラノさん?」と驚く声を置いて、林を突っ切り、街を見下ろす場所へ出た。

 街を隔てた向こう側に、海が輝いている。音は海から聞こえている。

 音の正体をカラノは知っていた。

 雷鳴のようなこの音は、威嚇の声だ。

 海の中に潜む巨大なものが、カラノの涙に呼応して、鳴いている。

 これは、生まれながらカラノの魂に刻まれていた災厄だ。

 涙を流すと、海から「何か」が迎えに来る。


「俺は──泣いていない!」


 叫びは遅く、遠くの海が隆起した。

 それによって起きた波が、巨人の一歩のように港に押し寄せた。

 サラサのいない今、止められる者はない。

 街と海を分ける境界が崩れる。船が木っ端のように港に押し上げられていくのが、小さく見えた。

 ぞわぞわとうなじが粟立つ。口元が震えた。


「わ、何あれ。津波? すごい、ここまで悲鳴が聞こえて来る」


 腕に熱い体が巻きついて、強く締め付けて来た。声から興奮が伝わる。


「あなたの家、大丈夫かな。あの、建物の少ない辺りにあるんじゃなかった?」

「いえ……」


 何も考えられない。空気が薄い。体の末端が痺れている。足が骨を抜かれたように崩れうずくまった。思考が白く、黒く、明滅する。腕を振りほどいて喉を抑えるが、上手く息が通らない。視界が狭まっていく。

 不意に、肩を押され、強引に体を起き上がらされた。目の前にはぼんやりとリアの顔。

 顔が近づき、口の中に、ぬるりと何かが入って来た。

 息苦しさに無我夢中で押し退けようとするが、一瞬のうちに、魔術による指令によって動きを封じられた。

 息が全て奪われる。

 じきに呼吸が限界を超えて、大きく咳き込んだ。だが、それでやっと、正しい呼吸の仕方を思い出す。それを見計らったように、口の中から舌が抜き取られた。

 何度か呼吸すると、視界も徐々に正常な状態を取り戻した。

 口の中から唾液が溢れて、首を伝っていく。リアはそれを舐め取って、離れた。


「ご馳走様」


 応えるだけの余裕は、まだない。

 服の袖で口元を拭う。息は出来るようになったが、まだ震えが収まらない。苦しさ以上に、罪の意識が体を殴る。顔を上げることが出来ない。


「海は、どうなってる」

「引いているように見える。船がいくつか港から離れていってる」


 もう一つの問いを喉から絞り出した。


「街は……」

「……自分で見た方が良いと思うけど。想像は影を怪物に見せる」

「いいから教えてくれ」

「実際、たぶん別に大したことない。沿岸以外はほとんど無事だと思う」


 聞いても、まるで救われなかった。この街の土台にあるのは漁業だ。港が受けた打撃は街全体に波及する。

 あれが現れたせいで、漁場も荒れたはずだ。

 これからどれだけの人が餓えるだろうと思った。あまりにも規模が大きいせいで、具体的に考えようとしても、考えた端から、錆びた鉄のように崩れていってしまう。

 それでも、せめて、顔を上げようとした。

 自分の起こしたことと、向き合うべきだと思った。


「──逃げて、しまいましょうか」


 答える前に腕をつかまれて、強く、後ろ向きに引っ張られた。驚いて顔を上げた拍子に、一瞬だけ街が見えたような気もしたが、よく確認しないまま、後ろを振り返る。


「私たち、英雄でも何でもない、単なる悪党なんだから。困難や己の罪に立ち向かう必要なんてない。自由に生きましょう。楽しい詩を歌いましょう」


 腕をつかむ手には、力がこもっていた。とは言え、本気で振りほどこうと思えば、容易に振りほどくことが出来る程度の力だったが、カラノはそうしなかった。

 街に背を向けて、引っ張られるままに、聖廟まで戻る。竪琴を拾い上げると、リアは来た道を戻り始めた。マカリオスの敷地からも出るつもりのようだった。

 ずっと腕をつかまれ続けている。


「ちょうど良かった。今なら、血まみれでも、そう咎める人はいないでしょ」

「それは……どうだろうな」

「じゃあ、途中で新しい服を見繕っていく? 私、綺麗な紫色の服が欲しくて。カラノさんは、何か着たい服はある?」

「いいよ、何でも。──アンタ好みにしてくれ」

「それなら、旅衣を買おうかな」


 鼓動が乱れた。少し先を歩くリアは振り返って、無邪気そうに笑った。


「まだ気が早かった? 家の様子を見てからでないと、決められないか」


 息が詰まって、答える間を逸した。複雑な気持ちで笑い声を聞く。

 港に壊滅的な被害をもたらしながら、向き合わずに逃げた。カラノはもうこの街にいたくない。

 家にある呪物は、十中八九、波に攫われた。全て回収するのは至難の業だ。

 そして、目の前には、別れたくない人がいる。

 答えは明白なようだが、まだ、何も言えない。

 リアの言葉は、表面上は手酷い嫌味のようだが、声音は甘やかで、カラノへの気遣いがあった。煮え切らない態度を取ることを見越し、許してくれていた。

 だからこそ余計に、沈黙して判断を保留にすることしか出来ない自分がもどかしく、情けない。

 誘いには応じられなくても、せめてこの優しさには、何らかの形で答えたかった。

 もうやり取りから間が開き、リアは先程との会話とは繋がりのない、他愛のないことを言っている。

 相変わらず、カラノの腕を引きながら。

 その手を、自らの手でつかみ直した。

 顔を上げると、笑みを深める口元だけが見えた。

 その笑みを見た瞬間、無意識から言葉が転がり出た。


「ありがとう。好きだ」


 自分の中にあった紐の結び目のようなしこりが、緩く解けたのを感じた。

 生まれながらに魂に刻まれていた災い。涙を流すと、海から何かが迎えに来る。その何かは酷く巨大で、少し身動ぎするだけでも、島を沈ませる波を起こす。海のない場所にいても、陸を越えてやって来る。

 カラノはけして泣いてはならなかった。

 だから、泣きたくなるようなことを減らすため、人や物に情を寄せないよう、いつも一線を引くようにしていた。

 今はもう、リアとの間に引こうとしていた線は、ぐちゃぐちゃにかき乱されている。

 それは人々にとっては最悪の事態への一歩だが、カラノ個人にとっては、憧れ続けた人間らしさだった。

 胸が苦しくて、ため息をつく。

 しかし、人々を海に沈めてしまうくらいの思いを傾けても、相手から同じだけの思いが返って来るとは、限らない。


「嬉しい。私も」


 応えた声には、何万回も同じ答えを繰り返したかのような慣れが滲み出ていた。

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