午下
「ようこそおいでなさいました、リア様」
「こんにちは。改めて、お声かけ頂いたことに御礼申し上げます。尊き魂を持つと名高いマカリオス様の信仰の一翼を担えることは、我が生涯の誉れとなります。本日は、その御心を神にお届けするべく、聖廟浄処のための聖詩、敬神と万謝の気持ちを持って歌わせて頂きますので、どうぞよろしくお願いいたします」
口上を聞きながら、気まずい空気を感じている。今までは遠目に見たことしかない、身なりの良い使用人が、嫌悪感に満ちた目を向けて来ていた。
「……ところで、そちらの方は?」
「従者でございます。この街には不案内でしたので、道案内も兼ねて、雇いました」
リアの紹介に合わせて頭を下げるが、厳しい視線は緩まない。
「申し訳ございませんが、聖廟に入るのはリア様だけにして頂けますか。従者の方は聖廟の外でお待ちください」
「えぇ、かしこまりました」
「……聖廟へご案内する前に準備がございますので、お部屋で少々お待ち下さいませ」
生活感のない整った部屋に案内された。カラノに鋭い一瞥を向けた後で、使用人は奥へ消えた。
「嫌そうな顔してた。これはお仲間とご相談かなぁ」
底意地の悪そうな声に目を向ける。表情は使用人と話していた時と変わらず端麗、白で統一した服装も相まって、高貴のお嬢様のようにも見えるのに、性格で全てが台無しになっている。
「邪推じゃないのか。聖なる儀式に魔物狂いが混じったら、誰だってああいう顔をする」
「それもあるでしょうね。でも、それだけではない。油断しないで、守ってよ」
ここへ来る道すがら、今日の想定や、いざという時の合図について話した。カラノの存在が抑止力となり、何も起きなければ、追及はしない。だが、もし何か起きたら、リアを守ることを最優先としつつ、可能ならば報復を行う。
使用人が二人の人間を連れて戻って来た。それぞれ、水桶や香炉などを抱えている。いくら領主とは言え、物持ちのような小間使いは、普段は魔物にやらせているはずだ。儀式とあって、徹底して人間を使う方針らしい。
「お待たせしました。ご案内いたします。どうぞこちらへ」
屋敷から出て、左手に街を見下ろしながら、屋敷を囲む林に足を踏み入れる。
飛び石や砂利で整備された通路を歩いていくと、木立の向こうに建物が見えて来た。林が開けて、全貌が現れる。
石造りの聖廟。街にある教会とは違い、人が集まるための場所ではないため、一軒家程度の大きさしかないが、妙に存在感があった。神を軽視しているカラノでも、その佇まいには冒し難いものを感じる。
「従者の方はここでお待ちください」
まるで境界線でもあるかのように、使用人に手で制止された。
聖廟までの距離は、大股で二十歩といったところか。間に障害物はないとは言え、何かあった時に、咄嗟に助けに行ける距離ではない。
「こんなに距離を取らせるのですね。子供らも集めて賑やかに行うところも多いのに」
「申し訳ございません。主人の意向ですので」
「いえ、こちらこそ失礼いたしました。歌う身としては、多くの方に聞いてもらいたいと思ってしまうもので……。あなた方は聞いてくださるの?」
「私共は、荷物を運び入れた後は外でお待ちいたします」
「それは残念です。いつか是非、聞いてくださいましね。君、竪琴を」
中身が竪琴かどうかは知らなかったが、持たされていた取っ手つきの木箱を手渡す。異もなく受け取り、四人はカラノを置いて、聖廟へと向かう。
後ろ手に双剣を抜いた。
聖廟は正面に扉、側面に窓が二つ並んでいる。窓は、大人の人間ではくぐり抜けられそうにない大きさだ。中に出入りしようと思ったら、正面にある扉を使うしかない。
使用人たちに振り返る様子はなかった。
その背中をじっと見る。
先程からリアとやり取りをしている、一番立場の高そうな使用人は、マカリオスに正式に雇われている人間だ。一昨日の仕事の時も、街で開催された式典などでも見かけたことがある。用心棒ではなく、秘書のような役割だ。
だが、荷物持ちになっている二人は、一介の使用人には見えなかった。荷物持ちという役割に比して、体つきが良過ぎた。
使用人が聖廟の扉にかけられた鎖を解き始める。使用人の後ろで待つリアを、左右から挟むように、荷物持ち二人は立っていた。
扉が開く。
リアが手櫛で髪をすき、同じ手で肩を三回叩いた。
瞬間、カラノは使用人が示した境界を踏みつけた。
リアは使用人の背中に突進し、開けたばかりの扉を閉じさせる。荷物持ちたちが振り返った。それぞれ持っている荷物の中に手を入れる。水桶が転がり、香炉の割れる音がした。凶器を取り出すつもりだと直感する。
その前に、向かって右側にいる荷物持ちに向けて、双剣の片方を投げつけた。
素晴らしい反射神経で片剣を受け取ったそいつは、一瞬笑い――恐らく、奪ったばかりのカラノの剣を構えた、はずだ。
カラノの目には、もう、自分に向けられた切っ先しか見えない。
揺らめく空間から、戸惑う声が聞こえる。
「あれ、どこに――」
声のする辺りに、自身の持っていた剣を突き立てた。
「おい何をしている!」
剣の柄に結わえた麻縄を引き、奪われた双剣を手に戻す。もう一人は既に、香炉の中から取り出した、前腕の長さ程の剣を構えていた。その姿を、一瞬の内に脳裏に焼き付ける。
麻縄を持って、片剣を投げつけた。片剣は重りとなって剣に絡みつく。
すると、じわりと、目の前にいたはずの人間の姿が消えた。剣も何も見えなくなり、絡みついた片剣だけが、そこにいるはずの人間の動きに合わせて、小刻みに揺れている。
「何、何だ!? 消え――ッ、がッ」
脇腹があった空間を斬りつけながらすれ違い、恐らくは膝を打って体勢を崩し、背中があるはずの場所に剣を突き立てた。
肉を裂く感触と、聞こえて来る悲鳴が、結果を知らせて来る。
刺した片剣を引き抜き、剣に巻き付けた片剣を回収すると、目の前によろめく背中が見えるようになった。狙い通りの箇所に、血が流れている。
とどめを刺そうとした。
だが、横合いから人が飛び出して来て、寄りかかるように、とどめを刺そうとしていた死にかけの体を押した。
神に捧げるための白い服が、血で染まっていく。
だが、声はあった。
二人分のうめき声の反対側には、使用人の背中があった。リアを突き飛ばして自由になった使用人は、扉を勢いよく解放すると、聖廟の中に転がるように逃げ込んだ。
その暗がりの中に、うっすらと人の姿が見えた。
リアの耳が聞いたところによれば、聖廟の中の人数は三人。人間であるかは分からない。武器の有無も不明だ。だが、この計画的な動きを見るに、外の二人以上の手練を用意していると考えるべきだ。
「リア、立て」
言いながら腕を引くと、ひょいと簡単に持ち上がった。返り値で血まみれになってしまっているが、怪我はなさそうだ。場慣れしているようで怯えることもなく、状況を素早く把握し、聖廟から離れた。
聖廟の中から三人の人が出て来る。
一人は白く裾の長い、聖職者の装束を着ていた。
聖職者が口を開く。
「神に与えられた使命を逸脱し、世の理を乱さんとする悪魔――愛なきレウ。その在り方の不埒であることを知り、速やかに魂を神にお返しせよ」
背後から、笑い声がした。
「貴様らか! なるほど、この舞台は、聖戦という訳か。くだら、な――ッ」
笑い混じりだった声は、喉を締められているかのように勢いをなくしていった。
振り返りたかったが、聖職者の背後にいる二人の人間から目が離せない。
一人は長剣、一人は弓。いやに白い素材で作られた武器が向けられている。
構えている人間はかなりの手練であり、殺意に満ちている。二人同時に相手をするのは、やや骨が折れそうだ。
だが、危惧は、溶けた。
「……くだらない」
背後から聞こえる声の質が、変化していた。
異様な艶のある声だ。目の前にいる三人も気づき、顔色を変えて、耳栓を装着する。
恐らくは昨日、カラノに使った魅了の魔術を使おうとしている。ただ、同じ魔術とは思えない程に、魔力の量が違う。
「けれど、えぇ、けれど! その欺瞞が愛おしい。復讐心が涙を誘う。だから私はあなた方を、心から愛することが出来る」
背中に手が触れた。ばつ印が描かれる。耳を塞げの合図。だが、合図がなくとも、耳を塞いでいただろう。嵐の中で生き物が、風に飛ばされないよう本能的に身を固くするように。
「そんな、震えながら、私を見ないで。あんまりにかわいくて――」
背後で怪鳥が大口を開けていた。
手のひらの向こうから、歌声が聞こえる。
強く、強く手を耳に押し付けた。意識しないと自ら手を外してしまいそうだった。羽毛のような歌声が魂をくすぐる。その中に身を投じたら、もう二度と目覚めることは出来ない。
陶然とした顔で崩れ落ちる三人が、恐ろしく、羨ましい。周囲の林までもが揺れていた。
耐えられたのは、魔術自体は三人にだけ向けられていたからだ。
背中を叩かれ、腕を下ろした。
林の中で鳥がこの世の終わりのように騒いでいるのが聞こえる。
「とどめを刺してあげて」
「もう、いいんじゃないか……」
目も当てられない程に無惨な有り様だった。
一人は弓を捨て地面に倒れ、喉をかきむしっている。鮮やかな赤い線が何本も引かれていた。一人は剣を己の足に突き立てて、肩を上下させている。
聖職者は口からだらりと涎を垂らし、虚空を見つめていた。時折びくびくと体が痙攣する。
耳栓などでは全く無意味。
尋常の魔物では有り得ない、魔術の威力。
「これから起きている間ずっと、二度と会えない相手に恋い焦がれるなんて、辛いでしょう」
「……あぁ」
言葉の内容より、慈悲に溢れた声がただ恐ろしく、従うことにした。首を切り、表情が失われるのを見ると、これで良かったような気にもなった。
だが、作業を終えて、リアを振り返って、当惑する。
その顔は酷く悲しそうに沈んでいた。
リアは最早生気のない体に歩み寄ると、優しく抱擁した。額に口付け、微かに何か呟く。恐らく、祈りのような言葉だった。
愛する人を亡くしたかのようだった。
「……もう一人、中にいるが、どうする」
「様子を見て来て。正気を失っていたら殺して、まだ正気を保っていたら、マカリオスさんへの伝言を頼むから、拘束しておいて」
当惑したまま、聖廟に向かう。まとまらない考えが渦巻いている。
中を覗き込むと、短い通路の奥に使用人が座り込んでいた。入り口には背を向けていて、カラノに気づく様子はない。
使用人の前には、神を示す方形の塔。
「おい。抵抗する気はあるか」
呼びかけると、使用人は振り向いた。
その顔には、勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた。
「神が私をお守りくださった」
耳をそっと抑えるような仕草をし、目を瞑る。
「悪魔の歌声が聞こえて来て、終わりだと覚悟した瞬間、誰かが私の耳を塞いだのです。あれこそ、神の御手──」
近寄っていって、片剣で左手を刺した。使用人の姿はかき消え、悲鳴だけがカラノの耳に届く。刺したまま剣を回すと、肉がかき回される感触が伝わって来た。
「やめろ……! どこに消えた!」
手を振り回していたのだろう。肩口を叩かれた。腹が立って、反射的に使用人のいるだろう辺りを蹴り飛ばす。肉が引き裂かれ、剣が抜けた。
顔面蒼白となった使用人が見えるようになった。目が見開かれる。
「何だ、お前──魔物などに情を持ったから、自分まで魔物になったのか」
あまりの馬鹿らしさにため息を吐いた。
「もういい」
リアの指示通り、拘束する気で屈み込んだ。
だが、ふと、この人物にならば、色々と聞いても良いのではないかと、思ってしまった。気づいたが最後、欲求を抑えることは出来なかった。
「質問に答えろ」
鼻で笑われたので、足に手にしたのと同じことをすると、大人しくなった。
「何故リアを殺そうとする」
「あく、ま、だから……」
「それなら、悪魔と呼ばれるようになったのは何故だ。一人や二人殺しただけでは、悪魔とは呼ばれないだろう」
「レウを、知らないで……共をして、いたのか……」
「レウ?」
聖職者がそう呼びかけていたのを思い出した。
「あいつの、本当の名前か?」
返事はなかった。口元に指を近づけ、まだ死んでいないことは確認したが、リアの指示は果たせそうにない。
言い訳を考えながら聖廟を出ると、薄ら笑いを浮かべたリアが立っていた。
その表情で、今日の打ち合わせで、ちらと言っていたことを思い出し、やり取りを聞かれていたことを察した。
「そう言えば、耳が良いんだったな……」
声、体重と同じく、そういう特性を持つ魔物であるらしい。
「いやらしい方」
「悪かった。魔が差した。あと、使用人も気絶させた」
「そっちは構わない。二度と構うなって伝えさせようと思ってたんだけど、よく考えたら、見れば伝わることでした」
リアの様子は、服や顔についた血を除けば、元通りに見えた。悲しそうな雰囲気など、一切ない。しかし、先程リアが抱いていた死体は、心なしか、形が綺麗に整えられているように見える。
この平気そうな顔を真に受けて良いのか、それともあの悲しみに暮れた顔が本当なのか、まるで分からない。
「私のこと、知りたい?」
血まみれの手で、横倒しになっていた木箱を開きながら、リアが言った。リアが持っていた木箱だ。中には本当に竪琴が入っていた。
服で手を拭ってから、どこか恭しい手付きで竪琴を抱え、鳴らす。
ちょうど今日の天気に合う、玲瓏とした音が響き渡った。
「とても聖詩なんて歌える空間ではなくなってしまったから、貴方が私の過去を知りたいと言うのであれば、代わりに、リアの詩を歌いましょう。亡くなった方々も、恨みで息を吹き返してくれるかも」
リアの過去。
当然知りたい。それどころか、本音を言えば、過去だけでは足りない。
心臓が音を立てる。
しかし、これ以上知ってしまえば、なおさら別れが辛くなることは明白だった。
サラサが死んだ時のような思いは、もうする訳にはいかない。それはカラノにとって、許されないことだ。
それでも、首を振るのは苦しかった。
「いい。さっきのは……違う。言わなくていい。言わないでくれ」
「皮肉や嫌味で言っているんじゃない。あなたになら、知られても良いと思ってる。気にしないで」
「そうではない。俺が、聞きたくない」
「あの人には聞いていたのに?」
「だからそれは、魔が差した。今、自分の愚かさに、腹を立ててるところだ」
片手で顔を覆った。強い血の臭いが鼻をついたが、外す気にはなれない。自分の愚かさを遠ざけて、自分の中にある感情を抑え込むために、必要だった。
「……あなたは、何かをずっと恐れているように見える」
顔を覆えば、耳が塞げなくなる。包み込むような声が沁み込んで来る。
「俺は……」
そうして侵食される程に、嬉しくなってしまう。
「アンタを大切な人にしたくない。アンタと別れた時、泣きたくない」
少し置いて、高らかな笑い声が響き渡った。
「嗚呼、悲しい。なんて悲しいんでしょう! この世から春を奪われてしまったよう。涙まで出て来てしまう。──つまりカラノさんは、まだ、私との別れに、泣かないでいられるってことだ」
顔を隠していた手を、無理やり引き剥がされる。
目の前で空色の瞳がきらきらと輝いていた。
見ないでくれと思っているのに、その瞳の中にいる自分は、喜んでいる。
「じゃあ、もっと好きになってもらわなきゃ!」
決定的に、間違えたことを悟った。
「──関わるんじゃなかった」
「嫌なこと言わないで。好きって言って、夢中になって、たくさん愛して」
「冗談では済まないんだ、こっちは……」
湧き上がる感情が深く激しくなる程に、別れが悲しく、恐ろしくなる。
離された途端に、柔らかな手の感触が失われていく。思わず追いかけ、つかんで、瞑目した。
「行かないでくれ……」
鼻歌でも歌いそうなくらいに機嫌の良い声が答えた。
「あなたも来ればいい」
それは出来ない。この街にはサラサの遺した物があり、それを守り続ける人がいなくてはならない。
だが、この魔物は、当然それを分かった上で言っているのだろう。
つかんだ手を振りほどかれた。
竪琴が激しく鳴り始める。
「決めた。別れの詩にしましょう。彼の方々と、サラサへの鎮魂歌にもなる」
真昼から夕方になるように、音の雰囲気が変化していく。
鎮魂歌と言うには鮮やかで、けれど不思議と寂しさを唆る音色。
止めて欲しかったが、同時に、心からその声を望んでいた。
唇が開く。
──瞼の裏の暗闇に、勢い良く風が駆け抜ける海原が、浮かび上がった。
一艘の船が滑り出す。
この街に住んでいれば、幾度となく目にする光景。一歩間違えれば、少し運が悪ければ、永遠の別れとなる出立。
しかし、漕ぎ出た背中に悲壮感はない。
見送る者は、笑みを浮かべる。
何があったとしても、船出は明日を生きるための日常として、この街に在り続ける。
そういう営みもまた海の一部なのだと、心做しか嬉しそうに言う、声がよみがえった。
久しぶりに、サラサの笑みを思い出した。
微かに歌声が揺れた。
竪琴の音が少しずつ弱まっていき、終わりへの道筋を作り始める。気まぐれささえ感じさせる変調だった。曲としてまとまってはいたが、全体としてはどこか物足りなさを感じる。
手の内から取り上げられるように、詩も音も終わった。
「何の音……?」
カラノは目を開いた。
聖廟の入り口とは反対側、街のある方に、リアの目は向いていた。
呆然としながら同じ方に目をやると、鋭敏になった耳が、異音を拾い上げた。
雷に似た音。
さっと血の気が引いて、目元に触れた。指先が濡れる。返り血であることを願った。しかし、指についていた血は逆に、滲んで色を失っていた。
涙。
音が地を揺るがす。
「違う。――止めてくれ。これは、違う!」
詩の余韻は消え去った。頭が真っ白になった。
恐れていたのは、まさに、これだ。
服の袖で目元を拭い、矢も盾もたまらず駆け出す。「カラノさん?」と驚く声を置いて、林を突っ切り、街を見下ろす場所へ出た。
街を隔てた向こう側に、海が輝いている。音は海から聞こえている。
音の正体をカラノは知っていた。
雷鳴のようなこの音は、威嚇の声だ。
海の中に潜む巨大なものが、カラノの涙に呼応して、鳴いている。
これは、生まれながらカラノの魂に刻まれていた災厄だ。
涙を流すと、海から「何か」が迎えに来る。
「俺は──泣いていない!」
叫びは遅く、遠くの海が隆起した。
それによって起きた波が、巨人の一歩のように港に押し寄せた。
サラサのいない今、止められる者はない。
街と海を分ける境界が崩れる。船が木っ端のように港に押し上げられていくのが、小さく見えた。
ぞわぞわとうなじが粟立つ。口元が震えた。
「わ、何あれ。津波? すごい、ここまで悲鳴が聞こえて来る」
腕に熱い体が巻きついて、強く締め付けて来た。声から興奮が伝わる。
「あなたの家、大丈夫かな。あの、建物の少ない辺りにあるんじゃなかった?」
「いえ……」
何も考えられない。空気が薄い。体の末端が痺れている。足が骨を抜かれたように崩れうずくまった。思考が白く、黒く、明滅する。腕を振りほどいて喉を抑えるが、上手く息が通らない。視界が狭まっていく。
不意に、肩を押され、強引に体を起き上がらされた。目の前にはぼんやりとリアの顔。
顔が近づき、口の中に、ぬるりと何かが入って来た。
息苦しさに無我夢中で押し退けようとするが、一瞬のうちに、魔術による指令によって動きを封じられた。
息が全て奪われる。
じきに呼吸が限界を超えて、大きく咳き込んだ。だが、それでやっと、正しい呼吸の仕方を思い出す。それを見計らったように、口の中から舌が抜き取られた。
何度か呼吸すると、視界も徐々に正常な状態を取り戻した。
口の中から唾液が溢れて、首を伝っていく。リアはそれを舐め取って、離れた。
「ご馳走様」
応えるだけの余裕は、まだない。
服の袖で口元を拭う。息は出来るようになったが、まだ震えが収まらない。苦しさ以上に、罪の意識が体を殴る。顔を上げることが出来ない。
「海は、どうなってる」
「引いているように見える。船がいくつか港から離れていってる」
もう一つの問いを喉から絞り出した。
「街は……」
「……自分で見た方が良いと思うけど。想像は影を怪物に見せる」
「いいから教えてくれ」
「実際、たぶん別に大したことない。沿岸以外はほとんど無事だと思う」
聞いても、まるで救われなかった。この街の土台にあるのは漁業だ。港が受けた打撃は街全体に波及する。
あれが現れたせいで、漁場も荒れたはずだ。
これからどれだけの人が餓えるだろうと思った。あまりにも規模が大きいせいで、具体的に考えようとしても、考えた端から、錆びた鉄のように崩れていってしまう。
それでも、せめて、顔を上げようとした。
自分の起こしたことと、向き合うべきだと思った。
「──逃げて、しまいましょうか」
答える前に腕をつかまれて、強く、後ろ向きに引っ張られた。驚いて顔を上げた拍子に、一瞬だけ街が見えたような気もしたが、よく確認しないまま、後ろを振り返る。
「私たち、英雄でも何でもない、単なる悪党なんだから。困難や己の罪に立ち向かう必要なんてない。自由に生きましょう。楽しい詩を歌いましょう」
腕をつかむ手には、力がこもっていた。とは言え、本気で振りほどこうと思えば、容易に振りほどくことが出来る程度の力だったが、カラノはそうしなかった。
街に背を向けて、引っ張られるままに、聖廟まで戻る。竪琴を拾い上げると、リアは来た道を戻り始めた。マカリオスの敷地からも出るつもりのようだった。
ずっと腕をつかまれ続けている。
「ちょうど良かった。今なら、血まみれでも、そう咎める人はいないでしょ」
「それは……どうだろうな」
「じゃあ、途中で新しい服を見繕っていく? 私、綺麗な紫色の服が欲しくて。カラノさんは、何か着たい服はある?」
「いいよ、何でも。──アンタ好みにしてくれ」
「それなら、旅衣を買おうかな」
鼓動が乱れた。少し先を歩くリアは振り返って、無邪気そうに笑った。
「まだ気が早かった? 家の様子を見てからでないと、決められないか」
息が詰まって、答える間を逸した。複雑な気持ちで笑い声を聞く。
港に壊滅的な被害をもたらしながら、向き合わずに逃げた。カラノはもうこの街にいたくない。
家にある呪物は、十中八九、波に攫われた。全て回収するのは至難の業だ。
そして、目の前には、別れたくない人がいる。
答えは明白なようだが、まだ、何も言えない。
リアの言葉は、表面上は手酷い嫌味のようだが、声音は甘やかで、カラノへの気遣いがあった。煮え切らない態度を取ることを見越し、許してくれていた。
だからこそ余計に、沈黙して判断を保留にすることしか出来ない自分がもどかしく、情けない。
誘いには応じられなくても、せめてこの優しさには、何らかの形で答えたかった。
もうやり取りから間が開き、リアは先程との会話とは繋がりのない、他愛のないことを言っている。
相変わらず、カラノの腕を引きながら。
その手を、自らの手でつかみ直した。
顔を上げると、笑みを深める口元だけが見えた。
その笑みを見た瞬間、無意識から言葉が転がり出た。
「ありがとう。好きだ」
自分の中にあった紐の結び目のようなしこりが、緩く解けたのを感じた。
生まれながらに魂に刻まれていた災い。涙を流すと、海から何かが迎えに来る。その何かは酷く巨大で、少し身動ぎするだけでも、島を沈ませる波を起こす。海のない場所にいても、陸を越えてやって来る。
カラノはけして泣いてはならなかった。
だから、泣きたくなるようなことを減らすため、人や物に情を寄せないよう、いつも一線を引くようにしていた。
今はもう、リアとの間に引こうとしていた線は、ぐちゃぐちゃにかき乱されている。
それは人々にとっては最悪の事態への一歩だが、カラノ個人にとっては、憧れ続けた人間らしさだった。
胸が苦しくて、ため息をつく。
しかし、人々を海に沈めてしまうくらいの思いを傾けても、相手から同じだけの思いが返って来るとは、限らない。
「嬉しい。私も」
応えた声には、何万回も同じ答えを繰り返したかのような慣れが滲み出ていた。
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