閑話

 魔術師は鏡文字の書かれた茶杯を置いた。


「話は分かりました。ですが、そこには結界が張ってあるでしょう。それをどうにかしないことには、いくらあたしでも難しいですね」

「それ。それがあなたに声をかけた理由。あなたなら、結界内に入れると思う」


 対話の相手は、体の隅々まで見知っている、古くからの知人だった。だからこそ魔術師は、良いことを思いつきでもしたような表情に、胡乱な目を向けた。


「はあ。どういう訳で?」

「海を主祭する魔法使いが、海のものを拒むとは思えない。あの結界は海のものを通すように出来ている可能性がある」

「相変わらず楽観的ですね」

「実際、私は通れた」


 空中に浮かんでいた像が微かに乱れる。魔力切れが近い。節約のために音声だけを残して、像を消した。


「偶然でしょう……。そんな緩い結界だったら、どうして皆呪物を盗みに行かないんです?」

「単純。皆もう、サラサのことを知らないから」


 そんなまさかと嗤って、茶杯をあおる。


「私たちは魔法使いがまだいることも、その偉大さも知っているから、まさかって思うけど。普通の人にとっては魔法使いなんて、神話の生き物なんだから。この辺りにいる魔術師も、サラサをちょっと古株の魔術師程度にしか思っていなくて、海を主祭する魔法使いだとは知らないことは、充分に考えられる」


 疑おうにも、自分が工房にこもってから、何年経ったのかも分からず、付き合いのある魔術師とは、研究についての話しかしていない。


「そしてサラサのことを知っている僅かな人は、結界の穴に気づいても、呪物を独り占めするためにあえて他人に言うことはないし、どうせその後、結界の中にいる番人に殺されるから、余計に広まらない。海のものが陸に上がることも、そうないことだから、偶然に人が来るようなことはない」

「……まさか」

「我らなくば記憶は土に、風よ吹け落日の戦場、なんて。切ない話だけど。伝える者がいなければ、どんな話も風化する」


 魔術師は咳払いを一つした。


「とりあえず、行ってはみます。興味深い話ではあるので。けれど期待しないでくださいよ。何にも持って来れなくても、文句言わないでください」

「はぁい。時間、間違えないでね。ばれて嫌われたくないから」

「それでは」


 甘ったるい人間殺しの声を切り、魔術師は魔法使いのいた街に向けて、出立の準備を始める。

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