饗宴

 酒場に入った途端、大気の温度が下がったような気がした。

 誰も、大っぴらには何も言わない。そっとこちらを見て眉をひそめたり、馬鹿にしたような暗い笑い声を上げるだけだ。

 何人かはカラノのことなど気にも留めず、まっすぐに店主の元へ向かう外套に、好奇心に満ちた目を向けている。その服装から旅人であることは分かるが、特に名物もなく、治安も悪いこの地域を旅人が訪れることは稀だ。訳ありならば酒の肴、単なる世間知らずならば好い鴨と、期待しているのだろう。

 ただ一人、小鬼だけが物言いたげにしていた。

 店内には調理場と客席を仕切る長卓と、円卓が五つ、狭苦しく並んでいる。カラノはこの店にはよく出入りするが、いつも裏口で荷のやり取りをするだけで、表側に立つことはない。しばし身の置き所に迷って、結局、視線を気にしなくて済む、長卓の隅の席に腰かけた。

 店内でどよめきが上がる。


「これ、預かっててくれない?」


 外套を差し出された。あらわになった美貌に、熱い視線が注がれていた。

 外套の中には宝石やら硬貨やらを仕舞い込んでいるはずだが、魔術がかかっているのか、紙程に軽い。カラノに盗まれる心配はしないのかと言いかけたが、その顔に浮かんでいた笑みに、言葉を失った。思考を読んだように、「信頼しているから」と付け足された。


「……いいけど。何かするのか?」

「お仕事。あなたへのお礼も兼ねて」

「仕事ね」


 外套の下はずいぶんと薄着だった。むき出しになった細い腕が、顔に向かって伸びて来る。


「お酒は好きに飲んでいていいけれど、ちゃんと見て、聞いていて」


 耳に指が触れる。野次が飛んで来た。「そいつは魔物狂いだぞ」「人間もどきだ」と、聞き慣れた悪口だ。


「私のことだけ」


 囁きを吹き込んだ後、指は軽く耳を撫でて離れた。

 その肢体は酒場の注目を一身に浴びながら、客席の中心に躍り出る。触れようとする手や、転ばそうと伸びて来た足を軽やかにかわしながら、口を開く。

 歌声が、風のように喧騒を一掃した。

 ――それは、愛した相手と対になって空を飛ぶ、一目一翼の鳥の詩だった。

 気づけば、酒場にたくさんの音が満ちている。今この時だけは確実に、この街で最も賑やかな酒場だった。人間の男共の野太い声は美しいとは言えない。手拍子は支離滅裂で猥雑だ。しかし、楽しい。程よく酔いの回った頭に、気持ち良く響く。

 あまり酒を飲むつもりはなかったのだが、カラノもつい杯が進んだ。

 賑やかな気配に誘われた人が入って来て、酒場はさらに活気づく。カラノが知る限り、この店にこんなにも明るい声が満ちるのは、初めてだった。


「たーのしんでるぅ?」


 杯を片手にカラノの左隣に腰かける、今晩の立役者。

 長卓に背中をもたれさせかけて、目は店内を見渡している。呼びかけに軽く手を振って応える姿は、まるで英雄だ。


「楽師だったんだな。良かったよ、本当に」

「……それだけ?」

「悪いが、金は持ってない」

「お金が欲しい訳じゃあないんですよ、カラノさん」


 いつの間にか名前を知られている。誰か勝手に話したのだろう。その時に交わされたであろうやり取りを想像すると、少し気分が悪くなる。


「じゃあ何だ。もっと褒めた方がいいか? 大した言葉は知らないが、それで良ければ、いくらでも褒める。アンタの声は、本当に、心から……」

「嬉しいけど、足りない」


 顎の下に手が添えられて、顔を持ち上げられる。黙ると、犬猫にでもするように、喉元を撫でられた。


「お優しい方。けれど、夢の中で花に水をあげたって、起きてしまえば何にもならないって、分かってる?」

「俺に何を求めてるんだ。はっきり言ってくれ」


 肩に手がかかり、耳に口が寄せられた。


「私をあなたの好きにしてほしい」


 視界が歪む。酒のせいだと思うことにした。


「はっきり言ったけど? ねぇ、カラノさん」

「要求を聞くとは言ってない。あと、名前を呼ぶな」


 なだめすかすように肩を叩かれる。気持ち良さそうな笑い声を聞きながら、カラノは杯をあおる。

 好きになど、出来るはずがない。

 誰かに深入りしたら、いつか、恐ろしいことを引き起こしてしまうかも知れない。


「カラノさん。あなた、何をそんな大事に守ろうとしているの。……もっと時間があったら、知れたかしら」


 それが、その夜リアと交わした最後の会話になった。


 饗宴の夜は更けて、家に帰れぬ者が夢に落ち、いつしかカラノもまた、長卓に伏していた。

 死屍累々の酒場に差す朝日と、その光の中に消える星を見たような気もする。


「いつまで寝てんだ。いい加減起きろ阿呆」


 椅子の足を蹴られ、その揺れで瞼を上げた。

 全身砂が詰まったように重い。頭を支えていた手が感覚をなくしている。軽い頭痛があった。眠っていたはずだが、ずっと前から物音を聞き、明滅する瞼の裏を見ていたような記憶もあった。全く頭が休まった気がしない。

 最悪の朝――もう昼かも知れない。


「飲んだら帰れよ」


 水飲みが長卓に置かれた。

 上体を起こし、深く呼吸した。酒場に充満する饐えた臭いに顔をしかめながら水を飲んで、しばし、小鬼が忙しなく動き回るのを眺めた。

 カラノ以外の客は皆帰っていたが、痕跡はまだ大量に残っていた。

 とりわけ厠周辺は大惨事で、汚物の嵐でも通ったのかと思うくらいだった。用を足した後で、小鬼に問いかける。


「今夜も営業するのか?」

「やれるように見えんのか。食材も酒も空っぽだし、店はこの有り様だし、おっさんはのびてるし」

「ご苦労さん」

「糞人間共が」


 はは、と笑う。

 体調は最悪だ。しかし、気分は昨晩より良かった。


「手伝うよ」


 壁に立てかけてあった箒を手に取った。


「金は払わないし、さっきの水の代金もちゃらにはしないぞ」

「そのつもりで言った。気にするな」


 表からは、のどかな空気が漂って来る。

 ごみ捨てがてら外に出てみると、全くいつもと変わらない街があった。

 よく晴れている。

 店の中に戻ると、小鬼と目が合った。しかめっ面を返される。顔にごみでもついているのかと拭ってみたが何もなく、軽く首をひねると、脈絡なく言われた。


「オレは、悪魔は嫌いだ」


 単に相槌を打つだけというのも据わりが悪く、何となく、謝った。返事はなく、滔々とした喋りが酒場に広がる。


「魔物は人間のために創られた、って話を、心底信じてる訳じゃない。糞人間共殺してぇなと思ったことも、一度や二度じゃない。だけど現実問題として、人間のために生きてない魔物は、全部を駄目にしちまう。人間と魔物の違いは、魔力器官の有無だけじゃない。魔物は人間のために生きるしかないんだ。それを悪魔は分かってない。上等な魔術に恵まれたからって思い上がって、全部自分の思い通りにしようとして、時々本当に、自分の好きなように変えちまう」


 小鬼の言うことは、二日酔いの頭で理解するには難しかった。


「悪いことなのか」

「悪いに決まってんだろ。全部駄目にするものが、思い通りに変えるんだぞ。結果は目に見えてるじゃねえか。悪魔の行く先は大抵、弱肉強食の世界だ」


 恐らくは、神教の教えだろう。カラノ自身はよく知らないが、神教は世界の成り立ちに則して、この世界の正しさを規定している。小鬼の言葉は、教え通りであるなら、神がこの世界を創った時の意図に沿っているはずだ。

 首の後ろを手で抑える。頭痛の根本に触れたような感触があった。


「……お前、同族のところで暮らす訳にはいかないのか? 西に、鬼の集落があると聞いたことがあるが」

「知ってる。故郷だ」


 集落の存在を知ったきっかけが、討伐依頼の打診だったことは、言わずにおくことにした。結局その依頼はなくなったのだから、何もなかったのと同じことだ。


「その感じじゃ、見たことはないんだろ。あんなとこ……」

「……」

「悪いところじゃないかも知れない……けど、俺からしたら、人間の道具やってる方がまだ良いって生活だ。色んな魔物を使って街を造ることが出来るのは、人間だけだから」

「へぇ」


 うっかり、気の抜けた相槌になった。

 カラノは神そのものを、あまり信用していない。

 神は世界を創りはしたが、その中で、多くの間違いも犯している。

 もしかすると、間違いではなく、最初から適当に創ったのかも知れないが、どの道、カラノにとっての神は、いい加減な存在だ。

 不満そうな沈黙が流れる。


「えぇと……思いつきで話して悪かった。大変だな」

「いいよ。こっちこそ、いらんこと話して悪かったな」


 さっぱりとした話の流し方は、いかにも客商売の人という感じがした。


「まあ、でも、覚えとけ。つまり、人間らしく生きて死にたいなら、悪魔は……止めた方がいい」


 だから余計に、ぎこちなく付け足された言葉は浮いていた。

 仕事相手や顔見知りの領分を超えた心配をされていることに気がついて、有り難くも申し訳なくも思う。

 しかし、「分かってるよ」と我ながら空虚な返事をして、生温い笑みを浮かべることしか出来なかった。

 然程経たない内に、半ば強制的に帰された。

 酷い顔をしているというのが、その理由だった。

 酒場を出て、明るい空の下を歩いていると、不思議と、昨晩起きた出来事の中でも、とりわけどうでもいいようなことが脳裏によみがえった。

 息切れを直そうとする不自然な呼吸、杯を叩く指先、遠くを見るような視線。

 隅から隅まで覚えようとして、隅ばかり見ていたらしい。

 けれど、これならいくらでも思い出していられる。

 そう思ったのに、そぞろに三十分も歩くと、記憶の蓄えは底をついた。

 海を見ながら、どれだけ特別だろうが、一夜をそのままに記憶することは、人間である自分には出来ないのだと自嘲する。

 これからは、忘れていく一方だ。

 忘れた方が楽なのだろう。

 しかし、今はまだ、それも出来そうにない。

 卒然と眠りたいと思った。早足になって、無心に家を目指した。海のすぐそばにある我が家は、養親ががらくたのような物を組み合わせて作った、ぼろい家ではあるが、波の音が常に聞こえて、よく眠れる。カラノに平穏を与えてくれるはずだった。

 しかし、帰り着くと、家の前に、見覚えのある外套が立っていた。

 カラノが声をかけるより先に、その人は振り返る。「へぇ?」と驚くよりも、面白がることを優先したような声を上げて、少し頭巾を持ち上げた。

 その瞳の青は、空と同じ青である。


「必然? それとも、運命かしら」

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