シンコゥ
雨夜
石畳を霧雨が濡らす夕刻だった。
マカリオス邸での警備仕事の帰り道、カラノは向かい側から走って来た人とすれ違い損ね、ぶつかった。
「――痛ッ」
旅人が着るような、分厚く固い生地の外套を着て、頭巾を深く被っていたため、やや大柄に見えていたが、ぶつかったその人は思いの外軽かった。カラノの方は多少よろめくだけで済んだが、相手の体は跳ね飛ばされて、見ている方が冷や汗をかいてしまうような無防備さで地面に転がった。
転がった拍子に上がった声は、妙に胸を騒がせる可憐さだった。
中身はいまだ見えなかったが、カラノの脳裏には、人間の女性の像が結ばれる。
だから、という訳ではなかったが、手を差し伸べた。
「すまない。大丈夫か」
「はぁっ……はぁ……」
答えはなく、荒い息遣いが耳につく。思い返せば、ぶつかる直前の動きも、咄嗟に避けようとしたが、足がもつれて避け切れない風だった。
「……大丈夫か?」
只事ではない空気を感じたが、差し出した手を引っ込めようとは思わなかった。
善意ではない。その時既に、惹かれ始めていた。
薄汚れた外套の中から、月のように真っ白な手が伸びて来た。
「は……ごめん、なさい。どうも」
カラノの手をつかみ、立ち上がろうとする。
「ありがと──」
「いたぞ! こっちだ!」
麗しい声は、粗野な声に遮られた。
一人、人間の男らしい人の突き刺すような視線が、外套の人物に注がれていた。見ている間に一人増えた。どちらもこの辺りでは見ない顔だ。
繋いだ手に力がこもった。手を引く前に、その人は機敏に体を起こし、さらに、カラノに抱きつくように身を寄せて来た。
果実のような華やかな香気が鼻腔をくすぐった。助け起こすために繋いだ手が、ほんの少しの隙間も埋めるように、指を絡めて来る。温かいと言うより、熱い手だった。
「お願い、助けて。悪い奴らに追われているの」
心臓を火で炙られるような錯覚を覚えた。
指がするりと離れていく。頭巾からこぼれた白髪が、背後に流れていった。
目の前には剣呑な雰囲気の追跡者が、四人に増えている。
一瞬の逡巡の後、軽くため息をつく。警備仕事の後で、ちょうど得物が手元にあったのが、間が悪かった。
腰の鞘から、双剣の片方だけを引き抜いて、切っ先を追跡者に向ける。
「おい。何のつもりだ」
「見て、分からないか」
追跡者たちに動揺は見られない。むしろ慣れているようで、諭す声は淡々としていた。
「あれはお前が思っているような、か弱い被害者ではない。あれは悪魔だ。皆騙されるが、中身は完全に腐り切っている。人間も殺している。関わり合いにならない方が、賢明というものだ」
「……なるほど」
追跡者の言い分に説得力があったと言うより、逃げている人物の方が怪し過ぎた。一分にも満たない時間でも、性悪の気配は存分に感じていた。
「そういう事情なら、これは過剰か」
剣を鞘に収める。追跡者たちは軽く笑ってカラノに親しみを見せ、追跡を再開しようとする。
それに先んじて、後方に向かって跳んだ。
追跡者たちの驚きの声を聞きながら反転し、あの外套を探す。
この辺りは、カラノにとっては庭に等しい。人が逃げそうな道を辿っていくと、呆気なく、大ぶりな外套が駆けていくのが見つかった。
勘がいいのか、まだ距離があるにも関わらず、カラノが一気に追いつこうと地面を蹴った瞬間に、振り返ろうとする素振りがあった。振り切るためか足に力がこもるが、速度はさして上がらない。
カラノはあっさりと隣に並んだ。一瞬、荒い息が途切れる。
「はっ……いい、でしょう。あちらの、十倍出します。私につきませんか?」
面食らったが、すぐに察した。買収されて、追跡者側に回ったと思われたらしい。
「十倍か」
「えぇ。私、見ての通り……ッオェ……殿方からたくさんの、贈り物を、いただける顔と声なの。十倍くらい訳ない」
「無理して喋らなくていい。こっちだ」
細腕をつかみ、路地裏へ入る。
ほとんど日の差さない暗がり。闇の凝りとなったねずみが逃げていく。一歩行く度に足元で濡れた音がして、鼻が曲がりそうなくらいに臭う。息を吸う度に、湿った空気が流れ込んで来る。ここには海風も届かない。
幾度か曲がり、物陰に身を隠すのを繰り返していると、じきに追いかけて来る足音はなくなった。速度を落としながらもそのまま暗い道を行く。お互いに口を開くことはない。カラノは近辺の地理を思い浮かべ、目的地を定める。
唐突に、つかんでいた腕がずり落ちた。
咄嗟に引っ張り上げると、勢いがつき過ぎて、逆に体を前方に投げかけた。慌てて引き寄せ抱き留める。あまりの体重の軽さに慄いた。背丈はカラノの肩を超すくらいはあるにもかかわらず、体重は犬猫程度しかない。
「悪い。大丈夫か?」
「ありがとう」
体勢が整うのを待って、腕を離した。足を滑らせたようだが、怪我はなさそうだ。
「酷い道で悪いな。走らずに済む方が良いかと思ったんだが」
暗闇の中に、微笑みの気配が混じる。
「今夜の私は幸運だった。出会ったのがあなたで良かった。道のことは気にしなくていい」
ついと舞踏の誘いを待つように、手の甲が向けられた。その肌は、月の光を受けて、銀糸を織り込んだ布のように微かに光る。
人間では得られない美しさだ。
追跡者たちの言葉がよみがえった。悪魔。確か、神教における賞金首のような存在だ。当然、善良な民であれば、関わり合いになるべきではない。
しかし、悪だと思ってみても、美しさは陰らない。
「優しく手を引いてくれる人があれば、どんな道も赤絨毯に等しいのだから」
一瞬硬直したが、出来る限り恭しく、その手を取った。
再び歩き出すと、横合いから堪えかねたような、猥雑な笑い声が聞こえた。
「それに、正直なところを言えば、慣れてる」
暗がりから手招きされたような心地がした。曖昧に濁すことしか、出来なかった。
無事に窮屈な道を抜けて、戸を叩いた。戸の隙間からは酔っ払いの歌が漏れている。それに合わせるように、背後の人も歌い出した。囁くような声だが、妙によく響く。
聞き入っていると、頭に小さな角を二本生やした小鬼が、ひょっこりと顔を出した。
「お前か。何だよ。今日は配達頼んでないぞ」
「客だ。酒と水をくれ。水は靴を洗うのに使う」
「裏口から来る客があるかよ。まあいい。金は?」
「ありますよ、小鬼さん」
後ろからぬっと手が突き出された。
何気なく、小鬼の給料三ヶ月分もの金額が握られている。
カラノが制止するより先に、小鬼が飛びついた。思わず舌打ちしたが、何か小鬼の様子がおかしいことに気がつく。手のひらを見たり、手を引っくり返したりしている。
「あれ? どこ行った? 金は?」
「ご飯も頂ける? この場で食べられるような、簡単なものがいい。あと、ここに私がいることは、誰に聞かれても黙っていて」
硬貨を挟んだ指で、小鬼の口が塞がれる。
「仕事には相応の対価を。怠慢には、腐った果実のような悦びをあげましょう」
小鬼は後退りし、ひったくるように硬貨を取って引っ込んだ。
少しして、酒瓶やたらいが運ばれて来る。店主のがなり声に応えながら軽食を置いて、強張った体で代金と心付けを受け取ると、小鬼は言った。
「アンタ、悪魔だろ」
言われた側は、香り油を塗りたくった平たい麦焼で燻製鮭と乾酪を挟んだ、この店にしては手の込んだ軽食に、早速かぶりついているところだった。じっくりと咀嚼している姿からは、不快感や焦りは感じられない。
店主に呼ばれて、小鬼は視線をそらした。
「オレ戻るけど、見つからない内に出てけ。……厄介事に巻き込むな」
「ご馳走様。面倒見てくれてありがとう。あなたに迷惑はかけないようにするから」
言葉の終わりにひょいと投げられたのは、緑色の鉱石のついた指輪だった。「ちゃんと、譲られた物だから」という補足に顔をしかめながらも、小鬼はそれを懐に入れて、仕事に戻った。
戸を閉めると、喧騒が遠ざかった。
一瞬、奇妙な沈黙が降りる。
身動ぎすら躊躇われる空気を変えたのは、どこかから聞こえて来た、赤ん坊の泣き声だった。
まだ名前の分からぬ人は、頭巾を深く被り直しながら壁に寄りかかる。
「あとは自分で何とか出来そうだから、ここまででいい。報酬の話をしましょう。あなたを雇うなら、これくらい?」
提示された金額に、否も応も言えなかった。ただ、多過ぎる金額ではあった。
「私、十倍って言ったかしら。手持ちの現金では足りないから宝石でいい? 十倍となると、曰く付きになってしまうけれど」
視界を赤い光の瞬きが乱す。白い手のひらの上で、人を狂わせる輝きが、無造作に弄ばれていた。
笑いが込み上げる。だが、口から出たそれは、貝の呼吸より弱々しかった。
「……いいよ、金は」
正直に言えば、まだこの時間を終わらせたくはない。
しかし、カラノ自身にも、深く踏み込めない理由があった。ここで別れるのが正しい選択だった。
出来ることはと言えば、最後の思い出を金勘定にしないことくらいだ。
「アンタの顔をよく見てみたくって、つい追いかけたってだけだ」
「そうだったの? 先に言ってよ」
「だから……何?」
じり、と微かに、砂が踏みにじられる音がした。赤ん坊がいつの間にか泣き止んでいることに気がつく。
視線を上げると、顔を覆い隠していた頭巾が取り払われるところだった。
流れ星を束ねたような白髪がこぼれる。
きっと、戯れに人の姿を取って降りて来た月なのだと言われたら、信じた。
想像よりも遥かに鮮烈な美貌。その美貌に相応しい、婀娜やかな笑みが浮かんでいる。
「それなら、ちゃんと見なきゃ」
首の後ろに手が回る。青色の瞳が、よく見えた。
「どう? 見える? もっと明るいところに行きましょうか」
「いい、もういい! 充分だ」
今、自分から触れたら、耐えられなくなると感じて、手は出さずに顔を背けるだけで遠ざけようと試みる。だが、後頭部に手が添えられて、正面を向くことを強いられた。
「たったこれだけで充分なんて言わないでよ。足りないって言って」
「……本当に、もう、これ以上は」
「何で。私が怖い?」
心の柔らかいところを、剣の切っ先がかすめていくようだった。
切なげな目が迫って来る。
恐怖が、確かに、今の心境には一番近い。
「違う。アンタには何も問題はない。そうではなくて、俺が……」
頭の片隅にまで追いやられていた戒めが、いよいよ拙いと、けたたましく警鐘を鳴らした。
明かしてはならない。
辛うじて言いかけた言葉を飲み込み、無理やりに、思考の舵を切った。
「この後は、どうするつもりなんだ」
軽く目が見開かれ、視線が上向く。その隙を突いて身を引き、蜘蛛の糸から逃れた。
離れ消えていく手の感触を惜しむことまでは、止められなかった。
「もう。……この後は、太陽が出るまで、この酒場に置いてもらおうかなと思っていたけど。あなた次第かもね?」
「ここに……。俺が言うのも何だが、この辺りの奴らはろくなもんじゃないぞ。魔物に対しても、人間に対しても。……帰るところは。送るだけなら、するから」
「たぶん帰る方が大変。さっきの方々、私が泊まっている宿屋の場所を把握していたから、きっと待ち伏せされている」
「……」
「あ、ここで一緒に飲まない? 奢るから」
その提案には胸を動かされた。しかし、すぐにはうなずけない。
「止めておいた方がいい。俺といると……煙たがられる。隠すつもりはなかったが、俺もあまり、真っ当な人間ではないから」
手をすくわれ、強く引っ張られた。
「全く問題なし。よし、行きましょう」
「いや、恐らく、アンタが考えているよりずっと」
「大丈夫!」
笑顔が理性を轢き潰す。既に足は一歩前に出ている。
「私の仕事は、人に愛されることだから」
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