リアの詩

早瀬史田

前奏

 かつて栄華を極めながら、大津波に飲み込まれ消えた街。

 その淵に建てられた、粗末な小屋の戸を叩く。

 少しして扉が開いた。


「どちら様だ」


 その姿が目に入った瞬間、何か、突風のような、思わぬ衝動が込み上げて、口を開くことが出来なくなった。

 中から出て来たのは、人間であれば、壮年という見た目の人物である。浜辺で余生を過ごす老人のような雰囲気を漂わせながら、同時に、どこか危うい退廃の気配も感じさせる人物だった。

 首元には、魚の鱗としか思えないものが広がっている。


「おい、どうした。道にでも迷ったか。食い物が尽きたか。……これが気になるか?」


 淡々と言いながら、その人は自ら、首元の鱗を叩いて示した。

 人間には存在しない特異な徴。本来、これだけでは魔物であると断ずるには足りないが、魔物を極端に蔑む者にとっては、忌避するのに充分な歪だ。


「命の危機ならば頼って欲しくはあるが、嫌がる奴を、無理に助けようとする程のお節介ではない。戸を叩いたことを後悔したのなら、気にせず背を向ければいい。俺も気にはしない」

「……失礼いたしました。そうではないのです」


 誤解を与えたことを恥じながら、気を取り直し、深く礼をした。


「カラノ様でいらっしゃいますね。はじめまして」


 口にしてから、この挨拶の仕方は、相手の警戒心を引き上げることになるだろうと、経験が警告を出した。気を取り直したつもりだったが、まだ本調子ではなかったらしい。だが、口にしたものは取り返せない。せめて動揺を面に出さないようにしながら、行方を見守る。

 予想に反し、カラノが顔に浮かべたのは警戒ではなく、親しげな笑みだった。


「行き倒れではなかったか。はじめまして、聡明そうな眼差しを持つ方。カラノは俺で間違いないが、何の用事だ。暗殺とか?」


 冗談と思いたいが、経歴を知っていると、簡単には笑い飛ばせない。思いつく最も穏当な方法として、無視を選んだ。


「私は、さだめられた人の話を聞き、文としてしたためる生業をしております。カラノ様のお話を聞きたく、お訪ねいたしました」

「話とは」


 唾を飲み込み、言う。


「かつて、この地で愛なきレウと呼ばれていた方との、旅のお話しを。お聞かせ願えないでしょうか」

「……ああ」


 カラノから、穏やかさが消え去った。断られるどころか、殺されることをも予感させる変貌に、背筋が伸びる。

 ただ、カラノは扉を閉めることもなく、しばし、考え込むように時間を置いた。


「何のために」


 実のところ、この仕事を滞りなく進めるために、嘘をつくことは珍しくはない。だが、カラノ相手に口を開くと、不思議と嘘が出なくなる。それを、薄々悟り始めていた。


「目的は、ただ残すことです。いつか、誰かにその記憶が、必要とされた時のために。その時までは、我が書斎の内に保存されるのみです」

「以前、図書館というのを見た。本の保存と閲覧を目的とした施設だったが、似たようなものか」

「まさしく、機能は近しいでしょう」

「なるほど。だが、何故俺に……」


 調子良く続いていたやり取りを不意に切り上げて、呆気なくカラノは言った。


「いや、先に言っておくか。アンタの頼みは引き受ける」


 内心で固めていた、何日も通い説得しようという覚悟が、行き場を失って、宙に放り出された。


「ありがとう、ございます」

「すまない。最初から断るつもりはなかったんだが、興味が先立った」


 顔に控えめな笑みが戻る。額面通りに受け取っていい言葉ではないと察していたが、それでもなお、妙に安心させられた。

 ただの優しい人ではない。ただの怖い人でもない。飄々として、容易に内心を読ませない。

 愛なきレウと旅をした人。その言葉の深みを、覗き込んだような気がした。


「他にも聞きたいことがある。単なる興味なんだが、話を聞かせる代わりに、いくつか答えてはくれないか。無論、拒まれても、先の言葉は取り消さないが」


 だが、覗き込むだけでは足りない。己の役目は、その深みを知ることである。


「何なりと。私にお答え出来ることであれば」

「まあ、ともかく、座って話すか。ぼろ屋で悪いが、どうぞ」


 戸が大きく開かれた。家に足を踏み入れるところで、何気なく問いかけられた。


「ところで、アンタのことは何と呼べばいい?」


 二つある名の内、どちらを答えようか、一瞬迷った。


「ヘルメスとお呼びください」

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