第35話 外れる


 一語一句区切るように紡がれたその言葉は、呪術的な余韻を残して、空間に吸い込まれていく。


 ――これは神に捧げる言葉? 厳重にかけられていたはずの鍵がほとんど外れかけているのを、ヴィクトリアは敏感に感じ取っていた。開放されてしまったなら、その先に待つものはなんだろう。


 破滅か。あるいは再生か。


 聖女が押し開こうとしている扉。それは本来ならば、祝福と共に開かれるはずのものだった。


 ところが、どうだ。ヴィクトリアの生存本能は、これが非常にマズい事態だと告げている。この危機感は彼女が元魔王であり、光から最も遠いところにいる者だからこそ抱いている感覚なのだろうか? ――いいや、そうだとは思えなかった。


 今のヴィクトリアは、人間としてこの地で生きている。だからこの導火線に火が点いたかのようなチリチリする焦燥感は、生きとし生ける者全てが抱いてしかるべき感覚に違いない。


 おそらくだが、魔法が普通に存在した時代ならば、先の言葉は正の意味を持つ呪文だったはずだ。つまりはこういうことなのだろう――毒が回っていないのにも関わらず、身体に強い薬を投じれば、その薬こそが毒と化す。その現象が今起こっていることに近い。


 魔法が途絶えているこの時代に、この呪文を唱えてはならない。聖女は今、してはいけないことをしている。


 考え込んでいる暇はなかった。ただただ聖女に『あれ』を続けさせてはならないから、地を蹴って前に出る。ぐるりと迂回するようにして模造剣が落ちた地点まで走り、前屈みになって獲物を拾い上げながら駆け抜ける。スピードを乗せて打って出た。


「――メリンダ!!!」


 生存本能に火が点いたヴィクトリアの攻撃は凄まじく速かった。


 火花が散る。聖女はそれを逆手に持った剣で受け止めた。力の入らないそのおかしな持ち方は、今の今まで剣を杖として使っていたことに起因する。剣先は地面に突き刺していた名残で泥にまみれていた。


 構えも取らずに、ヴィクトリアから放たれた全力の攻撃を受けたメリンダの剣は、本来ならば容易く弾き飛ばされてしかるべきであった。しかし剣はメリンダ・グリーンの手に吸いついたかのように一体となり、あるじを守った。


 打ち下ろしたヴィッキーの腕がジンと痺れる。歯を食いしばって衝撃に耐えた。電気を流されたかのように、接触した剣から不快な刺激が伝わって来る。それは波のように肩の奥まで突き抜けて、たとえようもない苦痛をヴィクトリアに与えた。


 腹の底から怒鳴り、激しい攻撃を与え続ける。打って、打って、打って、打って、叩いて、叩いて、叩いて、叩いて、突き出す。それでも全てを弾かれる。


 聖女は大したことはしていなかった。ただ剣を緩慢に動かすだけ。挨拶で軽く手を振る程度の労力しか使っていないはずなのに、ヴィクトリアは攻めきることができない。


 ――これは魔法か? いいや、魔法は途絶えているはずだ。呪文を唱えたとしても、本来ならば効力はないはず。ではなぜ彼女がそれを使えている? 聖女といっても、夢見ができる程度ではないのか?


 こちらはもうペース配分も何も考えている余裕がない。ただがむしゃらに打つ。手数が尽きたら死ぬ、それは確実だった。


 聖女がこちらをゆらりと見据えた。それはまるで木のウロを思わせた。そこに何を見るかは人によって異なるだろう。深淵に繋がるような狭間。


 聖女がヴィッキーの攻撃を捌きながら、緩慢に息継ぎをしたのが分かった。――まさか呪文を重ねる気か? ここでさらに?


 ――マズい――


 体勢が不十分であるにも関わらず、さらに踏み込まざるをえない。飛んで火に入ると分かってはいるが、この状況でヴィッキーに選択肢は残されていなかった。


 迂闊に飛び込んだところで、聖女が剣を捨て、素手で殴りつけてくる。左腕を立ててブロックしようとするが、間に合わない。というよりもブロック越しに持って行かれる。


 衝撃を殺すために、自分から横に飛んだ。しかしそれでも勢いが殺せない。聖女の石のような拳がヴィクトリアの華奢な二の腕を打つ。拳が滑って肩に深くめり込んだ。そのまま問答無用で吹っ飛ばされる。


 ――い、痛あああああああああ!!!!!


 叫び出さないよう歯を食いしばった。これ、左腕折れたかも――ふとそう思ったのだが、『折れたらそんなもんじゃない』となぜか偉そうに告げるベイジル・ウェインの謎の幻影が脳裏にチラつき、妙に腹が立った。


 この野郎、子分の分際で偉そうに! あとでぶっ飛ばしてやるからな、ベイジル! 幻想に八つ当たりでもしていないと、正直やっていられない気分だった。


 だって無茶苦茶痛いんだよぉおおおおお、このクソゴリ子め! これらの悪口雑言は、吹っ飛ばされている最中に脳内で展開されたものだ。


 飛ばされたヴィクトリアは、背中、肩、後頭部の順で地べたに叩きつけられた。


 地面と空の景色がくるりと回転し、勢いを殺せずにでんぐり返ししたのが分かった。まるで風で飛ばされたボロ雑巾のような有様だった。


「――お嬢様!」


 悲鳴のような声が響き、侍女のペギーが泡を食って遠くの物陰から飛び出してくるのが、霞んだ視界に映った。ヴィッキーは上半身を起こしながら、犬歯をむき出しにして怒鳴る。


「馬鹿、来るな!!!」


「お嬢様!」


 来るなっちゅーのに駆けて来るよ、うちの侍女は。分かっていないようだが、この聖女様はなあ、ド変態サイコパスであらせられるから、侍女のお前だって情け容赦なくやられちまうからな。


 だぁ、くそう! これじゃ負けるに負けられん。ヴィッキーは悔しそうに唸り、這うようにして上半身を起こした。三半規管が揺れているのか、視界がグラグラする。


 聖女がそんなヴィッキーを見て嘲笑った。


「あなた、まだやる気なの? 負け犬」


 くそったれ。両足に力を込めて立ち上がったヴィッキーは、確認するようにゆっくりと肩を回した。


 ――OK――確かに折れてはいない。


「馬鹿おっしゃい。こっちはやっと身体があったまってきたところよ」


 ふんと鼻を鳴らし、長い髪を背中に払い退けて腹から声を出す。


「――それじゃあ第二ラウンドを始めましょうか」


 そうしていつものヴィッキーらしく、にんまりと口角を吊り上げた。




***




 剣と剣がぶつかり合い、青白い火花が散る。押せば押し返され、叩けば薙ぎ払われる。


 聖女から与えられる圧倒的な暴力が、ヴィッキーの体力と気力を根こそぎ削り落としていく。飛ばされて、転がり。それでも何度でも立ち上がる。


 ヴィクトリアは油断なく構えながら、聖女の様子を窺った。ふたたびのアタック。


 低く入り、聖女の斬撃を紙一重で避けてから、左手を地面に置いて軸として、足払いを繰り出す。わざと少し速度を緩めてやると、聖女は受け止めるのも面倒になったのか、バックステップで蹴りを避けた。


 これにより聖女の身体が傾いたところを、下から突き上げるように剣を振るう。お手本に忠実な、こまめな崩しと、コンパクトな攻め。


 聖女はこのヴィクトリアのちまちました攻撃を見て、つまらないと思った。蟻が象に挑むようなものだ。こんなもの一撃で捻り潰せる。――到底敵わないと、この小生意気な公爵令嬢も、さすがに骨身に染みただろうに。


 だからメリンダ・グリーンは剣を突き出すようにして、退屈そうにヴィクトリアの攻撃を受け止める。


 ――その瞬間、聖女は右手に痺れるような圧力を感じた。


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