第34話 禁じられた遊び


 聖女が腹の底から雄叫びを上げる。辺りの空気がビリビリと震えた。勇ましく開いたその口は、優越感からか、僅かに口角が上がっているように見えた。


 勝負は一瞬でついた。――力、対、速度。スピードを武器に戦う場合、インパクトの瞬間に即、相手を断ち切れなければ勝機はない。止められた時点で行く末は決まっている。


 衝突後は力が全てを呑み込んだ。甲高い金属音が響き渡る。ヴィクトリアの剣は空高く跳ね上げられていた。それはクルクルと回転しながら、制御を失い飛んでいく。


 ヴィッキーは万歳する形で、がら空きのボディーを敵前に晒していた。ノーガード――


 ヴィクトリアの得物を見事弾き飛ばすことに成功したメリンダの剣先は、その勢いのまま上に向いている。あとは上がり切ったところで切り返し、力任せに振り下ろすのみだった。


 ヴィッキーは目を丸くして聖女を見つめ、怯えたように顎を引いた。


「あのちょっと、タンマ」


 聖女は聞こえないフリをした。――ここで止まる馬鹿がどこにいるのよ! メリンダ・グリーンは心の中で恋敵を嘲笑う。


 勝利を確信し、聖女が小さく息継ぎをしたその刹那、直前まで確かに対面に存在していたはずのヴィクトリアの身体が、眼前からかき消えた。相手の身体を剣で打ち据えようとしていた聖女は、対象を完全に見失ってしまった。


 どこへ消え――え、下――? 慌てて視線を下にスライドさせる。


 ヴィッキーはバネのように柔軟に膝を折り、上体を深く沈めていた。下方への体重移動の滑らかさとスピードは常人離れしたものだった。


 深く沈んだのは、次のための予備動作だ。溜めた膝のバネをしなやかに生かしながら、一転して、溜め込んだ力を斜め上に開放させる。


 ヴィッキーの華奢な爪先が、メリンダ・グリーンの手首を下から蹴り上げる。それは計算され尽くされた角度で綺麗に入った。いくら怪力のメリンダといえども、関節部分をピンポイントで狙われてはひとたまりもない。


 スコン、と小気味よい音が響き、聖女の腕から剣がすっぽ抜ける。それは上空に高く高く跳ね上げられ、今度は聖女が万歳する形で丸腰になった。


 事ここに至り、ヴィッキーは口元に凄惨な笑みを浮かべた。意地悪い目つきで、下からメリンダ・グリーンの間抜けヅラを睨み上げる。


 ――形・勢・逆・転――


 片足立ちになったヴィッキーは、ドレスの裾を右手で摘まんで邪魔にならぬよう捌きながら、軽やかにステップを踏む要領で、左足を軸に据えた。ふわりとスカートの裾が舞う。


 重さを感じさせずにモーションに入ったヴィッキーであるが、そこからの動きは目で追えないほどに速かった。トップスピードでその場で一回転し、遠心力を乗せた破壊力抜群の回し蹴りを繰り出す。


 ヴィッキーの足裏が、聖女のどてっ腹に容赦なく叩き込まれた。メリンダ・グリーンは『かはっ』と空気を吐き出しながら、体をくの字に折って後方に吹っ飛んだ。


 ヴィッキーは残身をへて、しなやかな動作で足を下ろした。


 そうして少々感慨深い気持ちになり、聖女の様子を眺めおろしたのだった。――よかった。ゴリ子もただの人間だったわ。


 蹴った時の感触は柔らかく、おかしな表現だが、普通に女の身体だった。鉄板でも突いたような感触だったらどうしようかと、密かに恐れていたのだ。もしかすると聖女は肩が異様に強いのかもしれない。上半身――それも腕回りの筋肉が先天的に強いことが、腕力に繋がっている可能性がある。しかし全てが強靭なわけではなく、このように蹴り飛ばされればちゃんとダメージを負う。それが分かった。


 聖女は地べたに伏せたまま、口から透明なヨダレを垂らして、激しく咳込んでいる。赤毛のウィッグがずり落ち、その下から覗く黒の地毛は、まとめ髪が乱れて悲惨なことになっていた。


 地面を爪で引っ掻くようにして、喘ぐような呼吸を繰り返す聖女。苦しげに上半身を捻り、目を剥いてジタバタするそのさまは、迂闊にハリネズミを丸呑みして腹の中から棘で突かれている蛇を思わせ、おぞましくて、どこか滑稽でもあった。


 ――さてこれからどうするか。勝負は着いたような気もするが、これで聖女が納得するとも思えない。


 近寄って駄目押しの蹴りをくれてやる気にもなれず、ヴィッキーはその場に静かに佇んでいた。


 しばらくすると聖女の咳も治まり、苦しそうに息を整えながら、膝立ちの体勢を取った。そのまま四つん這いでのそりのそりと落ちた剣のところまで進み、震える手を伸ばして、柄をぎゅっと握り締める。


 みぞおちという急所にピンポイントの一撃を当てたのに、あれを食らってこの短時間で戦意を取り戻すだなんて、ド根性だなと思う。先の蹴りは角度、スピード、力加減、その全てが理想的に融合した完璧な打撃だった。


 メリンダ・グリーンは剣を地面に突き刺すと、それを杖代わりにして立ち上がろうとした。足はみっともなく震え、乱れた髪は汗と泥にまみれて頬に張りついている。


 華やかで可憐な聖女の面影など、今はどこにもない。メリンダは瞳に狂気をみなぎらせ、ヴィクトリアを睨み上げている。瞳孔が完全に開き切っていた。


 常に勝者であり続けた彼女は、今の散々な自分が許せないのだろう。彼女はこれまで一度も負けたことがなく、かつ、負けを認められない人間だった。


「まだ続ける気?」


 ヴィクトリアの声は凪いでいて静かだった。――種明かしは終わった。もう聖女に対して脅威は感じない。


 あの野卑な力強さがどこから来ているのか未知数だったからこそ、様子見をしていたわけだが、こうして普通に攻撃が効くことが分かってしまえば、もう怖いものはない。元々器用で柔軟なヴィクトリアにかかれば、敵の荒っぽい攻撃にカウンターを合わせることなど造作もない。


 聖女の攻撃はすでに見切っている。これ以上やっても意味がないし、退屈で苦痛な時間になるだけだろう。


「――――ィアム」


 聖女が小さく何か呟いた。ヴィクトリアはきちんと聞き取ることができなかったのだが、それをきっかけにして、何かがはっきりと変わったのが分かった。


 抜けるように青い空に、のどかに浮かぶ雲。白い壁。海岸線に向かってなだらかにくだる地形。


 従前と何一つ変わっていないはずなのに、決定的に何かが違う。大量の水を含ませたマントを肩に乗せられたかのような、ずっしりした重さがかかってくる。


 目に見えない圧力。そして空間の軋み。


 何かが決定的にズレているような感じ。卵の殻がひび割れるように、どこかに亀裂が発生してる。


 ヴィクトリアの背筋にぞわりと鳥肌が立った。――なんだこれ? やばい。やばいやばいやばい! 今すぐここから逃げ出したい。ワタワタと四肢をみっともなく動かして、溺れる船から脱出しようとするネズミみたいに、とにかくどこかへ。ここではないどこかへ。


 すっかり腰が引けてしまったヴィクトリアに対し、聖女のほうはトランス状態にあった。メリンダ・グリーンがゆらりと上体を揺らす。


 暗く淀んでいた彼女のグリーンアイが、ふたたび光を取り戻す。それはあたたかな慈愛の光ではなく、原始的で剥き出しな、狂気めいた輝きだった。聖女の薄い唇が蠢く。


「――アウト・インウェニアム・ウィアム・アウト・ファキアム――」


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