第30話 沸点
クリストファーの狙いはなんだったのだろう?
――こうなってみると、前世がバレるか、バレないかで、ハラハラしていた頃のほうがまだよかった。何かを警戒している時は、少なくとも警戒しなければならないことがはっきりと分かっている。
しかし目的を見失ったらどうか? こんなふうに何かが終わったあとで、初めて事実を知らされる。それはなんともいえぬ空恐ろしさを彼女にもたらした。
もしかすると自分は知らず知らずのうちに、クリストファーを信じすぎていたのかもしれない。ヴィッキーらしからぬ手痛いミスだった。
彼女は人懐こく、怖いもの知らずなように見えて、意外と他人を信用していないところがある。元々他者に対して突き放したものの見方をするところがあるのだが、追い詰められたとしても、無事に切り抜けられる自信があるからこそ、無防備に振舞っているだけなのだ。
ところが今回に関してはどうだ。――クリストファーに殺される心配はしていても、騙される心配はまるでしていなかった。
それはなぜだろう。もしかするとパメラ・フレンドを介して見ることができた、前世の彼の印象が強烈すぎたせいかもしれない。
――この男は殺す時には、小細工なしで来るだろう。確実に首を獲りにくる。そんなふうに考えていた。
だって彼は、私を殺したほどの存在なのだから。真正面から魔王に戦いを挑み、散っていった勇者。だから今回も同じはずだと思ってしまった。
ヴィッキーが考え込んでいるのをよそに、リンレー公爵が続ける。
「正確にいえば、一昨日まで卵はデンチの手には渡っていなかった。いわゆる下請けが持っていたわけです。それが元締めのデンチに渡ったのが、昨夜だった。――殿下は卵の受け渡しが、そもそもの事件の発端であるデズモンド教会にて行われるという情報を掴んだ。そこに精鋭部隊を送って奪還を試みたわけですが、おかしなことにあなたは昨夜、現場ではなく別の場所にいた。この船の上に。それはなぜです?」
「指揮官が現場にいる必要はない。あの編制で奪還できると踏んで、部隊を送ったわけだが、デンチにまたしても出し抜かれたな」
「負けを認めるのですか?」
「先日から、あまりにも鮮やかにやられすぎていると思わないか? ――つまり、内通者がいる」
途端に空気がピリっと引き締まった。クリストファーは眠れる獅子のように、今はまだ牙を剥いてはいないが、いつそれが変わるのか、それは誰にも予想できない。
リンレー公爵はあまりに迂闊であったし、これでよく宰相の職が務まってきたものだとヴィッキーは考えていた。
彼は目先の勝利を求めすぎる。クリストファーを言い負かすチャンスがあるならば、たとえ小さなものでも一つも見逃すまいとしているかのようだ。しかしこのように小さな勝ちを拾いに行く者に、果たして大局が見極められるのかどうか、はなはだ疑問である。
それからもっと問題なのは、クリストファーだ。この男は少し人生をサボりすぎなのかもしれない。
内通者について言及した先の台詞は『分かっていたけれど』というのがなんとなく透けて見えた。彼がもっと必死になっていたなら、内通者ごときすぐに炙り出せたのではないか。退屈すぎて乗り気になれなかったのか。あるいは今は動けない、なんらかの事情があるのか。
「内通者、ですか」
リンレー公爵は唇を舌で湿し、油断ない目つきでクリストファーを見返す。
「リンレー公爵は、誰が裏切者だと思う?」
「さぁ、それは私には分かりませんな」
公爵はうさんくさい笑みを浮かべ、芝居がかった様子で腕を広げてみせた。それから彼はヴィクトリアのほうに視線を転じた。――話題を変えるためなのか、単にそうしたかっただけなのか。とにかく公爵は、この生意気な小娘を地獄に突き落としておこうと考えついたらしい。
「ところで殿下は、作戦の陽動にコンスタム公爵の娘を使いましたね」
一旦言葉を止め、リンレーが嗜虐的な目つきでヴィクトリアをねっとりと眺める。
「卵の受け渡し場所であるデズモンドからあえて離れ、ヴィクトリア・コンスタムと船に乗る。敵は混乱して、浮足立つはずだった。しかし実際のところ、返り討ちにあったのは、殿下の部隊のほうでした」
「――陽動にもならなかったな」
彼の青い瞳が、億劫そうにヴィクトリアに向けられる。
――陽動にもならなかった。お前はその程度のつまらない存在なのだ――なるほど、クリストファーの瞳がそのことを雄弁に告げてくる。目は口ほどにものを言い、だ。
ずいぶんなめられたものだと思う。今やヴィクトリアのはらわたは怒りで煮えくり返っていた。
リンレー公爵の嘲りはこの際どうでもよい。羽虫が飛んでいるくらいのもので、鬱陶しいが、ただそれだけのことだからだ。
しかしクリストファーのやったことはいただけない。ヴィクトリアを激怒させているのは、クリストファーにほかならなかった。
ヴィクトリアは菫色の瞳を燃え立つように煌めかせながら、真っ直ぐにクリストファーを見返した。
「私を騙したわね」
「いい囮になるかと思ったんだが。君は囮になれるほどの影響力すら、持っていないらしい」
「フェアじゃないのは嫌いなの」
「奇遇だね。僕もだ」
この話題で初めて、クリストファーが口元に笑みを乗せた。――退屈極まりないという、膿んだような笑みだった。
酷薄で、冷徹で、陰惨で、極悪で、けれどそれでもなお、美しい。退廃ゆえの美なのだろうか。
健康的ではなく。建設的ではなく。希望もなく。喜びもなく。絶望しているようでいて、皮肉なことに、絶望するほどには、全てにおいて本気じゃない。ただ透き通っていて、綺麗だった。
だからひたすらに腹が立つ。このぶんだと明日になったら、こちらの顔すら忘れているのではないか。どこにも心がこもっていない。そこには一片の憎しみすらなく。
――ああ、そうか、分かった。やっと理解できた気がする。彼がヴィクトリアの前世をこれから知ったとしても、今現在知っていたとしても、露ほどの関心も示したりはしないだろう。
ただ朽ち果てた木を眺めるかのように、『長い時を経た』と無常に思うだけ。
感慨もない。怒りもない。ありのままをその瞳に映し、ありのままに忘れ去る。文字どおりどうでもいいのだ、この男にとっては。
――笑わせる。もう一度殺してやろうか。せめてもの礼儀として、殺す時は正面からやってやる。こちらはお前ほど退屈していないものでね。
ヴィッキーの顔つきが凶悪さを増した。その瞳に浮かぶのは、凄惨で悲惨な感情の渦だった。
「――私を怒らせたのは、高くつくわよ。クリストファー」
「ならばどうする?」
クリストファーの瞳が甘美に揺れる。彼は退屈をこじらせて殺されたがっているのかもしれなかったが、それはヴィクトリアにとってはどうでもいいことだった。
お前の都合など知ったことか。腹が立ったから負かしてやる。――今は無理でも、何がなんでも勝つ。最後に笑うのはこちらだ。
この男が敗者へと転がり落ちた瞬間、やつの青い瞳を上から覗き込んでやろう。
「――イフリートの卵は、私が貰うわ」
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