第29話 僕のハートに響くよ


「クソ女め!」


 リンレー公爵がさっと右手を振り上げた瞬間、ヴィッキーは彼に初めて心を動かされた。


 ――あらすごい。この男、よそ様の令嬢をぶん殴る気なのかしら。公爵家の娘に手を上げたとなっては、結構な醜聞に発展するのではないか?


 婚約者でもない第一王子(クリストファー)と一緒に船旅をしている時点で、こちらもどっこいどっこいの汚れ具合なわけだが、それでもひとかどの人物であるはずのリンレー公爵が小娘をぶん殴る、このみっともなさを超えるものはそうそうないだろう。


 ――面白いから殴られてみる? それともカウンターを合わせてみる?


 悪魔の二択が頭に浮かんで『ちょっとすぐには選べないわー、 悩むわー』なんて呑気に考えていたらば、絶妙なタイミングで邪魔が入った。


「ストップ。お二人とも、廊下で何をなさっているのです。騒ぎになりますから、こちらの部屋へどうぞ」


 割って入ったのはクリストファー、ではなく、彼の頼りになる従者ノーマン・フィルトン氏であった。


 気勢を削がれたのか、リンレー公爵は強張った肩から力を抜き、咳払いをして手を下げた。


 ノーマンは一連の出来事にも顔色を変えず、プロフェッショナルに徹して、先にリンレーを部屋に押し込んでしまった。行先はもちろんクリストファーのスイートだ。


 面倒事を先に片づけたところで、ノーマンの鉄壁のポーカーフェイスが崩れた。呆れたようにこちらを見おろしてくるので、ヴィッキーは『いや、あなた、こちらこそだわ』と半眼になってしまった。


 するとノーマンが軽く眉を顰める。


「助けて差し上げたのに、なんですか、そのげんなり顔は」


「結構前から、私たちの会話を盗み聞きしていたでしょう。全てお見通しよ」


「そんなことはしておりません」


 おいおい、こちらの目を見た上でシレッと嘘をついたぞ、この男。誠実そうに見えて、平気で浮気するタイプだな、こいつ。


 ここまでクリストファーに忠実だと、もう奴隷と一緒ね。ヴィッキーは皮肉交じりにそんなことを考えていた。


「スイートの扉が少し開いていることに、私はちゃんと気づいていたからね。いつ助けてくれるのかと思っていたら、ここまで放置されるとは」


 助けてもらおうだなんて露ほども期待していなかったヴィッキーであるが、クリストファーと違って、ノーマンはこの手の攻撃に弱いだろうと踏んでの当てこすりである。チクチクと良心を刺激してやるのだ。


 だってありえないと思うのよ。盗み聞きするにしても、ある程度の約束事があるはずよね。――つまり扉に張りついて、必死に聞き耳立てるというのが、正しい『盗み聞き』の範疇。扉を開けて堂々と聞いてやろうって、一体どういう神経しているわけ? もっとコソコソ恥じながらやりなさいよね。


「……いやはや申し訳ない」


 ノーマンは意外とすぐに降参した。これも演技かもしれなかったが、実直に見えるノーマンに反省の態度を取られると、なんだか大型犬がしょんぼりしているみたいに見えて、どうにも怒りが持続しない。


 ――ああ、もう、これでは許してしまうではないか。ノーマンはなかなかズルイ男かもしれないとヴィッキーは思った。釈然としない気持ちで腰に手を当てて、ヴィッキーは眉根を寄せる。


「しばらく泳がせろ、面白そうだ。どうせクリストファーがそう言ったんでしょうよ。あのクソ男」


「最後の台詞は聞かなかったことにしておきます」


「いいえ、手帳に大きな文字で書いておくべきね。――『クリストファーは史上最低のクソ男』って」


 ヴィッキーはフンと鼻を鳴らして、クリストファーのスイートに足を踏み入れた。


 諸悪の根源は扉のそばにいた。腕組みをして壁に寄りかかっており、ヴィッキーが睨みつけると、にっこり笑ってみせる。


「――君の罵り言葉には、甘美な味わいがある。僕のハートに響くよ」


「あらそう。一瞬響くだけで消えてしまうなんて、やるせないわ。ちゃんと未来永劫残るように、刻み込まないとね」


「どうやって?」


「今度、あなたの胸にタトゥーを入れてあげる。――『僕は大馬鹿野郎です』って」


 下衆野郎と悩むわぁ、なんて考えていたら、クリストファーがまた阿呆みたいなことを言うわけよ。


「どうせ刻むなら、君の名前にしようか」


 そうして彼の謎めいた視線が、ヴィクトリアをからめとるものだから。


 このあまりに意味深な態度に、ヴィッキーの頬がひくりと引き攣ってしまった。――やだもう、それってどういう意味? 殺した人間の名前を彫る的なこと? 怖っ!


 タトゥーの件は自分から持ち出したくせに、すっかり及び腰になってしまうヴィッキーであった。




***




 不仲な人間たちが顔を合わせ、陰気な茶会が始まった。


 場を仕切り直してもリンレー公爵から『クリストファー殿下狙いだなんて、とんだ身のほど知らず』的な当てこすりをされるものと考えていたのだが、彼が持ち出した話題は意外なものだった。


「そういえば、殿下。昨夜実行された、イフリートの卵奪還作戦は失敗でしたな」


 リンレー公爵が小狡い顔つきでそう切り出したので、話の流れが見えないヴィッキーは、反射的にクリストファーのほうに視線を動かした。


 彼は泰然自若とした態度を崩さなかったけれど、しばらくのあいだ黙ってリンレー公爵のことを見つめ返していたので、何か思うところがあったようだ。


 ――これは不快感? あるいはなんらかの駆け引きなのか。


 次いでノーマンのほうに視線を転じると、彼は分かりやすく厳しさを前面に出し、リンレー公爵を見据えている。


 クリストファーは時間稼ぎをするように、ゆっくりと紅茶を楽しみ、やがて気まぐれのように口を開いた。


「――耳が早いな。リンレー公爵」


「情報は鮮度が重要です。昨夜私の密偵が、小舟でこの客船に乗りつけましてな。報告を入れてきたというわけです」


 買ったばかりのオモチャを自慢する子供のような口ぶりだった。


 言われてふと、昨夜船が減速した瞬間があったことを思い出す。――近頃大都市には電気通信が普及しつつあるが、あれは有線であるから、水上を移動する船ではそれを利用できない。陸から船へは人力で情報を渡すしかないわけだ。


 リンレー公爵がそうして情報を仕入れたということは、当然クリストファーも同じようにしている。現に彼はリンレー公爵のもたらした『イフリートの卵奪還作戦は失敗』という内容自体には驚きを見せていなかった。


 リンレーが続ける。


「殿下の精鋭部隊が昨夜、デズモンドの教会に集められた。しかし残念な結果に終わりました。武器商人のデンチも面白いことを考えるものですな。盗み出したその場所に舞い戻って、大胆にも取引しようだなんてね!」


 これはどういうことだ。クリストファーから『卵の取引は』と聞かされていたのだが。あの地下牢でゴロツキを尋問した際に、その情報を得たのだと、クリストファーは言っていたはず。


 今回ヴィクトリアがこの旅に同行させられた理由は、クリストファーがコンスタム公爵に疑いをかけていたためではないかと、彼女自身は考えていた。――彼が船旅に関して『コンスタム公爵には内緒で』と条件をつけてきた際に、そう思ったのだ。コンスタム公爵の娘であるヴィクトリアを連れ歩き、デズモンドでサプライズ的に親子対面させる。これによりコンスタム公爵を牽制、または、攪乱する意図があったのではないかと。


 ヴィッキーとしてはなんだかんだ父のことは信用していたので、イフリートの卵を強奪した黒幕は彼ではないと考えていた。そのくらいのことはやりかねない人だが、今回はやっていない。


 父が犯人ならば、流血沙汰を避けて、もっとスマートにやってのけたはずだ。実際の手口があまりに野卑で残忍であったので、父の計算高さとは合致しない。だからヴィッキーとしては、父を疑っているらしいクリストファーに対し、『とんだ見当違いだわね』と思っていたのだ。


 ところが全てを読み間違えていたのだとしたら?


 ヴィッキーを同行した理由が『コンスタム公爵に対する牽制』、ただそれのみだとするならば、クリストファーが取引日を一日後ろ倒しにして伝えてきたことと矛盾する。


 父を動揺させるには、現場に娘(ヴィッキー)がいないと意味がないからだ。


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