第27話 ぬかったな、クリストファー・ヴェンティミリア
――夜。目を覚ましたヴィッキーは、見慣れぬ天井を眺め、しばしぼんやりしていた。
そうか、ここは船の中か。ベッドに横になっていると、緩やかな横揺れを全身で体感することになる。形のない水が押し引きする感触が、船を通して伝わってきた。
そうこうするうちに不意にリズムが変わり、船が急激に速度を落としたような感じがした。――気のせいだろうか?
暗闇で時間の概念すら曖昧になっていて、全ての感覚が狂っているのか。あるいは感じているとおりのことが起こっていて、実際に速度を落としたのか。
そうこうするうちにふたたび船が速度を上げたようだ。
思い切って起き出し、裸足で床に降り立つ。大窓を開け放って、専用のオープンデッキに出てみた。
外に出た途端、少し塩気混じりの湿った風が吹きつけてきた。風は戯れにヴィッキーの髪をかき混ぜ、その場に留まることなく、後方に吹き抜けて行く。
デッキに出ると、フィン川の悠然とした流れの向こうに、人々が住まう地上の景色を一望することができた。もう少しで河口部分に差しかかるところまで来ている。その先は海だ。
遠く北にそびえるグィネヴィア山は、頂きが一年中雪に覆われている美しい山である。月光に照らされた青灰に輝く稜線を眺めるうちに、訳の分からない違和感に囚われる。
くしゃみが出そうで出ない時のような、人の名前が思い出せそうで思い出せない時のような、あの感じ。船の横揺れが、思考を一か所に留まらせてくれない。たゆたうように場面が流れて、不意に何かが意識に引っかかってきた。
あれはディナーの時間だった。――白いテーブルクロス――ヴィッキーは同じ船に乗っているであろう聖女をなんとなく気にしていた――ウェイターが歩いて来る。
場面が目まぐるしくコマ送りで展開される。ふとある場面で、光が炸裂したかのように、頭の中で何かが弾けた。
白百合の白――葡萄酒の赤――クリストファーの青い瞳――紐の端を確かに掴んだような気がして、必死にそれを手繰ってみるのだが、不意に背後から響いてきた声で、現実に引き戻されてしまう。
「――お嬢様、お身体が冷えますよ」
振り返ると、デッキの入口に侍女のペギーが佇んでいた。
女性にしてはのっぺりと背の高いペギー。白い寝間着を着ていると、雪山に生息している動物みたいに見えて、なんとなしユーモラスに感じられた。無表情とフリフリのナイトキャップの組み合わせは、破壊力がものすごい。むしろあるじを積極的に笑わせにかかっているのでは? と疑いたくなるほどだ。
思わず脱力し、柵に肘を置く。ペギーに相対していると、先程確かに掴んだはずの何かは、砂粒が指のあいだから零れ落ちるかのように、とめどなく消えてしまった。
「ペギー。心配しているフリをして、私を監視しているんでしょう。――だけど考えてみてよ。いくら私でも船の上にいたら、こっそり夜遊びになんか出られないでしょう?」
「それはどうでしょうか。クリストファー殿下のベッドにこっそり潜り込まれたりしたら、侍女としてはたまったものではありません」
表情を変えぬまま、ペギーがずいぶんな言いがかりをつけてくる。
「あのねぇ、私の態度にそんな気配がありました? 殿下にメロメロー、みたいな」
「それは一切ありませんでしたが」
ペギーは難しい顔で否定したものの、少し考えてから、やっと折り合いがついたというように、訳の分からない結論を下した。
「お嬢様は変わり者でいらっしゃいますもの。好きな素振りを見せていなくても、安心できたものではありません。――お嬢様は悪態を吐きながら、相手にキスをねだるタイプですから」
「どんなタイプよ」
これにはげんなりしてしまう。絶対にありえないし、大体ね。やってもいない罪で責められても困るのよと、ヴィッキーは渋い顔になった。
***
朝食はクリストファーのスイートで一緒に取るという約束になっていた。
別に個別に食べてもいいのだが、やつと一緒だと美味いものを食べさせてもらえそうだという意地汚い計算が働き、ヴィッキーは彼の誘いに乗ることにしたのだった。貧乏人が金持ちにたかる構図と同じである。
そんなわけで朝になると、ヴィッキーは自室のスイートを出た。男性の部屋に入るということで、侍女のペギーもあとをついてくる。
――廊下に出た途端、壁際に佇んでいた中年男性と顔を突き合わせることになった。そこにいるはずがないという場所に誰かがいると驚くものだ。
身なりが良いので、きっと上流階級に属する人間だろう。少し薄くなった髪を短く整え、綺麗に撫でつけている。額が広く、顎にかけて細くなっていくフェイスライン。加えて奥まった瞳が放つ鋭い光は、男が知的で油断ならない人物であることを暗示しているかのようだった。
「――ごきげんよう、お嬢さん」
どうでもいいことだが、驚くほどいい声だ。ヴィッキーはなんだかそれに度肝を抜かれてしまい、まじまじと男の唇を凝視してしまった。
――おお、なんてこと。顔に似合わぬ艶やかな美声じゃないの。勿体ないことだと、なんだか悔しいような気持ちになる。
男の見た目には清潔感があり、もしかすると若い頃はそこそこの美男子だったのかもしれない。そんな片鱗は薄ぼんやり残っているのだが、それでもパッと見の印象は目を惹く点のない、中肉中背で、なんとも凡庸な男である。年相応にたるみのある、ありふれた顔の造作は、紳士クラブの前で張っていれば、十人に一人はそっくりさんに遭遇しそうなタイプだった。
圧倒的な凡庸さ。埋没する個性。――だがしかし。声はいい。しつこいようだが、声だけはいい。
「ごきげんよう」
一瞬気圧されたものの、すぐに平常心を取り戻し、軽く挨拶を返す。
さて、それではさようなら、と前を通り過ぎようとしたら、男が大股に足を踏み出し、ヴィッキーの前に立ち塞がった。
「何かご用かしら?」
「用があるから、こうしてお待ちしていたのですよ。――ヴィクトリア・コンスタムさん」
身元を知られている。斜め後ろにつき従っていたペギーが息を呑んだのが分かった。――大丈夫よ、ペギー。この男から脅威は感じない。確かに友好的な存在ではなさそうだが、警戒しなければならない相手だとも思えない。
「どちらさま?」
高飛車に微笑みながら尋ねれば、男はおどけた様子で微笑みを浮かべる。
「これは失礼しました。私はリンレーと申します。宰相を務めておりますが、ご存知でしょうか?」
――なるほど、この男がリンレー公爵か。
ヴィクトリアがいかに呑気といえども、クリストファーと関わりを持つに至り、少しだけ自衛の心が芽生えていた。ここへ来る前に、最低限の貴族の相関図は頭に入れておいたのだ。
ちなみに情報ソースは侍女のペギー、幼馴染の腐れ縁ベイジル・ウェイン、それから便利な情報屋のパメラ・フレンドの計三名である。
――リンレー公爵はグレアム・ヴェンティミリアと関係が深い人物だ。
背景として、国王陛下はクリストファーの弟である第二王子のグレアム・ヴェンティミリアを溺愛している。ただしグレアムは底抜けの馬鹿なので、彼を後継ぎに、とまではさすがに考えていないようだ。
――ところで、底抜けの馬鹿ってどの程度なのかしらね? 自分のお名前くらいは言えるのかな? ヴィクトリアは考えを巡らせる。――ある意味、無害な馬鹿なら、まだマシであるという考え方もできるかも。
これが少々悪知恵の働く、中途半端な馬鹿だった場合のほうが、よほど厄介だ。ある程度の知能を有した破滅型馬鹿だと、本人が落ちる時は周囲を道連れにして、国にどえらい損害を与えてから息絶えそう。どうせ死ぬなら、ひっそりと誰にも迷惑をかけずに死んでいって欲しいものだと思う。
しかし違う考えを持つ人間もいる。それが今目の前にいるリンレー公爵、その人である。陛下の太鼓持ちとして有名な彼は、熱烈にグレアムを推しているらしい。
もしかすると『馬鹿が天下を取ったほうが、操るのに色々便利そう』とか、阿呆な皮算用でもしているのだろうか。
リンレー公爵は敵対している第一王子(クリストファー)の動向には、常に注意を払っているはず。それでここを嗅ぎつけてきた、ということ?
それから、乗船時に見かけた聖女メリンダ・グリーンも、この男と関係しているのだろうか? とにかく一切合切タイミングが整いすぎていた。
――ぬかったな、クリストファー・ヴェンティミリア。ヴィッキーはすっと瞳を細めた。
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