第26話 いつかきっと、あなたは私を殺す
クリストファーが語った内容は、とてつもない衝撃をヴィッキーに与えた。――『君だって、王だった』というのは、具体的に何を指しているのだろう?
我儘放題、放埓に生きてきたヴィクトリアの令嬢らしからぬ過去を、そう表現しただけ? しかしだとすると言葉のチョイスが少し不自然である。
ならば、魔王だった過去――前世の話をしている? そんな、まさか!
なんと答えたものか。逡巡したものの、悩みが一周したら、なんだか急に馬鹿馬鹿しくなってきた。クリストファーとは土台頭のできが違うから、読み合い勝負では負ける。だから考えても時間の無駄ではないか? と思った。
いっそ息の根を止めにきてくれれば、立ち位置がはっきりするのに。そうすれば強いほうが残り、弱いほうが消える。それですっきりできる。
ヴィッキーは肩の力を抜いた。――今世とも前世とも、どちらとも取れるような内容を述べることにする。公爵令嬢の肩書を持つヴィクトリアは、どうしたって人に傅(かしず)かれる立場だ。この程度の言葉遊び、どうとでも解釈できる。
「確かに私は上の景色を知っている。だってほかの人間は、私よりも明確に下だったから」
「立場が?」
「全てが」
理屈ではない。自分が抜かれるかもしれないという脅威を感じたことがなかった。
力が拮抗するという状態を初めて体感したのが、もしかすると前世の終わり、いまわの際だったのかもしれない。
未知の感覚をこの身に刻み込んだのが、誰あろう目の前の男なのだ。前世で魔王を殺した男。手が届くはずのない高みに、この男は確かに到達した。
この男はヴィクトリアにとって、唯一無二、特別な存在なのだ。それは不思議な縁だった。
――まるで鏡を覗き込んでいるかのよう。似て非なるものであるかのようで、その実、根源的な何かが繋がっている。反転し、目の前に存在する。
我を滅ぼす存在。我を生かす存在。
滅ぼされることで、初めて生を実感した。圧倒的強者であったとしても、終わりがないのであれば、それは退屈極まりない停滞であり、ただ『死んでいない』だけ――そのことを、かつてこの男が魂に刻み込んだ。
ヴィッキーは自嘲気味な笑みを漏らす。
「私は強者であることをキツイと思ったことはない。だってそれがあるべき姿だから。私を負かせる存在はいなかった。だから自然と私が一番上になる」
「結果論はそうだとしても、周囲は上手く立ち回った気でいるのかも」
「どういうこと?」
「君を手のひらの上で転がして、便利に使った気でいる」
「嫌な考え方ねぇ。ひねくれすぎじゃない?」
「そうかな」
「私は風当たりの強いトップの地位を、ていよく押しつけられていたということ?」
反射的に鼻のつけ根に皴が寄った。それは嫌いな野菜を食べさせられた子供みたいな素直極まりない感情表現で、こういうヴィクトリアの邪気のなさが、クリストファーの心に火を点けている事実に、彼女自身はまるで気づいていない。
「実力差はこの際問題ではない。君が突出していようがいまいが、周囲は『自分が負けてやった』と思い込みたいのさ」
クリストファーにしては、珍しく芯を食った物言いだった。彼は非常に頭の良い人間だと思うのだが、いつもは用心深く、巧みに本心を隠している。だから内容よりも、彼が本心らしきものを語ったという、その事実に驚かされた。
――でもね。ヴィッキーはワイングラスに手を伸ばしかけて、軽く眉を顰めてしまう。
「周囲がどう思おうが、それはお好きにどうぞ、って感じだわ。正直私は、弱者のしみったれた言い訳に興味がない。それはあなただって同じじゃないの?」
「僕が強者だったことなどない」
ヴィッキーの動きが今度こそ完全に止まった。耳を疑う。だってあまりにありえない台詞だったから。
「……聞き間違えかしら? 強者だったことはないと聞こえたけれど」
「僕はずっと長いあいだ、周囲に振り回されてきた人間だ。勝ち組だと心の底から思えたことなど、ただの一度もない」
クリストファーの淡々とした物言いは、背筋が凍るほどの孤独を内包していた。
寒くて暗い。床が抜けて、船から海へ放り出されて、深く深く沈んでいくみたい。身体は沈んでいくのに、気泡だけが断続的に上へ上へと消えていく。空気がなくなって苦しくて。搾取されるばかりで、いずれは溺れて死んでしまうだろう。そんな諦念に満ちた声。
しかし彼はおそらく誰よりも強いのだ。ごまかしようもないくらい強いはずなのに。
「あなた自身が勝ちを認識していないとしても、あなたは紛れもなく強いわ」
「――君よりも?」
クリストファーがくすりと笑みを漏らす。密やかな夜を思わせる気配を漂わせて。
――的確に痛いところを突く、とヴィクトリアは内心閉口してしまった。けれど困ったことを悟られたくなくて、あえて唇の端に笑みを乗せる。
「どうかしら、分からない。――けれど、そうね、私を脅(おびや)かす存在がいるとするなら、それはたぶんあなたよ。ただ一人。あなただけ」
ワイングラスに注がれた、血のように赤い葡萄酒。それを眺めながら、ヴィッキーは今度こそ本心からの笑みを浮かべた。
全てが暗示的で思わせぶりだ。だからついポロリと本音が零れたのだろう。
「――いつかきっと、あなたは私を殺す」
「未来の話?」
「未来も過去も、そう違いはないんじゃない?」
私たちの場合は特に、とヴィッキーは考える。過去が今に繋がっている。けれどその流れは一方向ともいいがたい。未来は過去に還るかもしれないからだ。
未来で起こる出来事が、過去に意味を与えることもある。
ところで先の台詞は、冗談めかして口にしてみたはいいけれど、かなりギリギリのところを攻めていたと思う。前世の記憶がなければ、唐突に持ち出された『過去』というワードに戸惑うことでしょう。
けれど大人同士、意味の分からなさも、酒のせいにできる。たぶん、きっとね。
その時が来るまでは、こうして穏やかに語り合うのもいいかもしれない。少しくらいはリラックスして。のらりくらりと。
期はまだ熟していないのだから。――今はまだ。
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