第20話 恋人の振り


 ――二日後。ヴィッキーは辺境の町デズモンドに来ていた。


 ここはイフリートの卵が強奪された町として、近頃一気に有名になったのだが、ヴィッキーにとっては昔馴染みの場所でもあった。というのも彼女は父に連れられて、幼い頃から度々ここへ遊びに来ていたからだ。


 ――パパはこの町に愛人がいるのではないか。昔からヴィッキーはそんな疑いを持っていた。父は軽薄で狡猾なところがあるので、不倫のカモフラージュに娘を連れ歩くくらいのぶっ飛んだ細工はしそうな人なのだ。


 そんな訳でまぁ、馴れた場所というのもあって、ヴィッキーの足取りに迷いはなかった。


 今日はお忍びといった装いで、白を基調としたドレスに、白い手袋を合わせている。ドレスの襟元と裾には黒のライン飾りが入っていて、都会的で若々しい、いかにも裕福な家柄のご令嬢といった雰囲気である。


 ――そう。ヴィッキーは口を閉じて楚々と振舞ってさえいれば、愛嬌のある美人さんなのである。冷たすぎる美貌というわけでもなく、表情が生き生きとしていて、明るい色気がある。


 彼女が軽やかに通りを進んでいると、どこからか鐘の音が響いてきた。地形的に東風が強く吹き抜けるカラリとした空気のせいか、音が高く遠く響く気がする。空に茫洋と音が散り、余韻すら、どこかに吸い込まれていくような不思議な感じだ。


 ヴィッキーが懐かしさに思わず足を止めた瞬間、不意に腰を抱かれて、背後に引き寄せられた。このような接触に慣れていないヴィッキーは素で驚き、上半身をぐらりと泳がせてしまった。


 ブーツの踵が石畳の角を踏み、ドンくさくフラついてしまう。常にキビキビと行動しているヴィッキーからすると、この事態は業腹だった。この失態を招いた相手に苛立ちを覚え、振り返ろうとしたその瞬間――


 流れるような動作で右手を取られ、指先にキスを落とされていた。腰は抱かれたままである。


 これには本当に驚いた。電気が走ったみたいだった。ヴィッキーは目を真ん丸くして、息を止めながら隣を仰ぎ見る。抱え込まれているので、右の肩から背中にかけてほんのりと温かいのがもう、どうしたらいいのか!


「ちょっと!」


 なんの独創性もない呼びかけが口を突いて出ていた。あまりに驚いたので、声も自然と大きくなる。


 ところが断りもなくヴィッキーの指先にキスした張本人は、まるで悪びれる気配もなく、小首を傾げて彼女を見おろすのだった。彼の黒髪がさらりと揺れる。


「ぼうっとするな、ハニー」


「いや、ハニーじゃないから!」


 まったくもって忌々しい男だ。甘さを含んだ顔をしていても、ちっとも浮かれていないのが伝わってくるから性質が悪い。


 クリストファー・ヴェンティミリア――この国の第一王子であり、古くからの仇敵であるこの男は、前世に感情を置き忘れたまま転生してしまったのかもしれない。好きな色だとか、好きな音だとか、好きな景色だとか、そういったこだわりが何もなさそうに見える。焦ったり、照れたり、腹を立てたり、そういった大半の人間が持っているはずの揺らぎがまるでないから、見ていてもなんだかしっくりこないのだ。


「いい加減、もっと可愛げを出せ。捕獲したての猿か、君は」


 クリストファーが冴え冴えとした口調で告げる。まるでこちらが悪いみたいに。


「猿ですって? この高貴な私に向かって、言うにこと欠いて」


 ヴィッキーがフンと嘲笑うと、クリストファーの濃い青の瞳が、呆れたように彼女を覗き込む。


「お忍びらしく、もっと静かにできないのか」


 猿だとか、静かにしろだとか、ワンパク盛りの男児に言うような台詞ばかり並べないでよ。ヴィッキーはむぅと頬を膨らませた。


 ――覚えていなさいよ。魔王の力を取り戻せたら、欠片も残らないくらいに、ギッタギタに抹殺してやるからね。


「大体あなたね、手軽にキスとかしないでよ。見た人に誤解されちゃうじゃない」


 貴族令嬢としての意識は恐ろしく低めなヴィッキーであるが、それでも『異性関係が奔放なのはあまりよろしくない』という概念だけは、人並みに持っていた。彼女は言動が乱暴なだけで、決してふしだらなわけではないのだ。


 むしろ社交から遠ざかっていただけに、男性との接触に慣れておらず、七つの子供よりも遅れているくらいだった。――ベイジル・ウェインとは昔から親しくしていたわけだが、やつが男の部分を出してきたことはただの一度もなかったので、同性同士の友達みたいな感覚で育ったのだ。


 恋人同士がするような甘いキスとか、未知の領域すぎて想像もつかなかったし、指先へのキスでさえ、なんだかはしたないような気がしてしまうのである。


 それに比べて、クリストファーときたら、ムカつくほどに世慣れている。この男が意味ありげに流し見て、笑みの一つも浮かべれば、釣れない女はいないのだろう。


 ――世の中は不公平にできている。


 クリストファーよりも誠実で、優しく、献身的な男は星の数ほどいるだろうに、たとえばその人が少し太っているだとか、鼻が低いだとか、唇が分厚過ぎるだとかのどうでもいいような些細な理由で、その善人は恋人ができなかったりするのだ。


 ――どうかしている。世間の在り方がどうかしている。――顔か。人間、顔なのか。


 千の欠点すら凌駕してしまうほどの、圧倒的な美。神様はこの悪党に、とんでもない武器を与えたものだ。ヴィッキーは遠い目になってしまった。


 あれかね。前世で魔王と戦ったご褒美に、神様カウントのポイントが多めにたまったのかしらね。


 たとえば、


 親孝行――1000ポイント


 人命救助――30000ポイントだとすると、


 魔王の抹殺――9999999999999ポイント


 みたいな。しかし仮にそうだとしても、だよ。無敵の地位に、無敵の顔って、いくらなんでも贔屓しすぎじゃないか? 小型犬のクシャミみたいな甲高い声しか出せないとか、ちょっと笑える弱点でも残しておいて欲しかったよ。


 こんなことなら、前世でもうちょっと、キツ目に殺しておけばよかったな。パメラ・フレンドに見せてもらったあの場面――覗けたのはインパクトの瞬間だけだったけれど、勇者に対する痛めつけ方が足りなかったような感じがしたのだ。


 高次元すぎて、覗き見した時は圧倒されたものだが、過去の行為そのものに凄惨さはなかった。――衝突は刹那的で、抒情的ですらあった。魔王と勇者の散り際は、粉雪が舞うような寂寥感に満ちていたのではないか。なぜかそんな気がしたのである。


「――契約を忘れたのか?」


 クリストファーが特に怒った素振りもみせずに、穏やかに問いかけてきた。考えごとをしていたため、声をかけられてはっと我に返る。


「覚えているわよ。でも、ベイジルのことで私を脅すなんて卑怯だわ」


「何も非人道的な行為をさせようってわけじゃない。恋人のフリをするだけでいい」


 ちょっともう! 軽く言わないで。


「それが問題でしょうよ。好きでもないのに、なんでそんなこと」


 髪を撫でたり? 笑顔で囁き合ったり? 食べものをシェアしたり? 潤んだ瞳で見つめ合ったりするわけ? ――繰り返しになるが、なんでそんなことを、だ!


 ヴィッキーの全力の拒絶を感じ取ったのだろうか。


「僕は君のことが好きだが」


 なんて子供をあやすように言ってくる。


「はいはい、嘘つきは死んでから舌を引っこ抜かれますよ」


「嘘じゃない。間抜けなところがなかなか可愛いと思っている。相手の欠点も笑えるくらいになれば、歩み寄りは可能だと思わないか?」


「でも、あなたの欠点って致命的だしね」


 クリストファーを前にすると、確かに心臓はドキドキするかもしれないけれど、それはトキメキじゃなくて恐怖が原因だからね。


「そう頭ごなしに否定せずに、好きになるよう努力してみたらどうだ?」


 絶対、無理ー。ヴィッキーはげんなりして眉尻を下げる。恋に対して、世の女の子みたいに甘々な幻想を抱いているわけではなかったが、それにしたってコレじゃない感がすごい。


 少なくともヴィッキーは『殺したいほど可愛いと思っているのかも』とかおかしなことを言いながら、銃口を向けてくるような捻じくれた男はごめんだった。――絶対にごめんだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る