第16話 綱渡り
「ベイジル、君が当直か。ご苦労さま」
二人目の登場人物がベイジルに声をかける。ヴィッキーはベッド下に身を隠した状態で、耳をそばだてていた。
先ほど声を発したクリストファー殿下とは別人であるのが、声質で分かった。気安い言葉遣いから察するに、ベイジルとは親しい間柄のようだ。
――ベイジルが牢番をしていることについては、特に不審には感じていないみたいね。ヴィッキーはほっとして息を吐いた。こういう時、品行方正なタイプは得だなと思う。『こいつが悪さをするわけがない』というフィルターをかけてもらえるからだ。
――と、そんなことよりも。ふとヴィッキーは眉根を寄せる。
さっきの声、聞き覚えがあるような気がするんだよなぁ。今、ベイジルに『ご苦労さま』と言ったのは、誰だろう? そういえばクリストファー殿下の声を聞いた時も、『あれ?』と引っかかりを覚えたのだ。
「――ノーマン・フィルトン」
これまたご丁寧に、ベイジルが相手の名を呼ぶ。ヴィッキーがノーマン・フィルトンを知っているかどうかはさておき、情報だけはできるだけ多く提供しようとしているらしい。
そしてこのベイジルの機転が、ヴィッキーにある気づきを与えることとなった。――ノーマン・フィルトン? ベイジルは今、ノーマン・フィルトンと言ったのか?
それから、クリストファー殿下――クリストファー、ああ、そんな、まさか。ヴィッキーの全身に悪寒が走り、奥歯がカチカチと鳴る。
――クリストファーとノーマン! クリスとノーマン! 間違いない。声に聞き覚えがあるはずだ。あのクリスとノーマンだ! 酒場で相席したやつら。
ぐぅぅ……ヴィッキーはベッド下で海老反りながら悶絶した。転生した勇者にすでに会っていたという、この衝撃! ショックが大きすぎて、胃がねじれそう。
それにそれに、どうしてよりによって、このタイミングで来るのさ? もっと早くに尋問できたはずだよね? なんで一晩置いて、よりによってヴィッキーがここへ忍び込んだ瞬間を狙って、入って来たの? これが前世の因縁、巡り合わせってやつなの? 殺し合うために引き合うの? 呼び合っちゃうの?
ヴィッキーはもう発狂寸前だった。混乱しきりだったし、『にゃー!』と訳の分からない奇声をあげて、のたうち回りたい気分だった。
今自分のいる場所が、暗くて狭いベッド下だというのも、余計に気を滅入らせる。逃げ場がないし、背中が冷たい。石のひやりとした感触が、服を突き抜けて肌に染み込んでくるようだ。
涙目になりつつも、叫び出さないようになんとか耐える。涙目っていうか、ほんとはちょっと泣いちゃっているけれど、頑張って耐える。
――そういえばヴィッキーが『一生王子と会わないように、コソコソ隠れて暮らしていく』宣言をした時、パメラが『もう手遅れじゃない?』と言っていたな。
あれ、絶対知っていたよね。すでに会っているのを見ていたんだ。それなのになんで教えてくれないのさ! パメラは慰めるのが面倒で、スルーしたに違いない。なんて女だ! 悪魔め!
パメラ・フレンドのフレンド感ゼロなやり口に、恨み節が止まらない。ギリリと歯ぎしりせんばかりの怒り心頭なヴィッキーであるが、次に聞こえてきたクリストファーの言葉によって、すぐに現実に引き戻された。
「――ベイジル、鍵を開けろ」
「承知しました」
ベイジルの平坦な声が、ヴィッキーの耳に届く。――落ち着いて対処しているように聞こえるが、ベイジルなりに焦っているのが伝わってくる。というのも、やつは心が乱れている時ほど平坦な喋り方になるからだ。
――王子に命じられたベイジルは、扉に向き直り、左手で鉄格子を押さえながら(押さえないと、こちらに開いてきてしまうので)、鍵穴に鍵を挿し込んだ。
すでに解錠済なので、なんとか誤魔化さなければならない。ガチャガチャと音を立てて回して見せてから、さりげなく立ち位置を変えて手元を隠す。今の工程で鍵が閉まってしまったので、また開ける必要があった。自らの背で死角を作り、今度は反対側に回して、元の状態に戻した。
ここまではなんとか切り抜けられたが、ゴロツキが告げ口をしたら、そこで終わりだ。ベイジルはクリストファー殿下に向き合う前に、鋭い視線で男に睨みをきかせた。帯剣している剣柄に左手をかけ、言外に脅しをかける。――余計なことを話せば、殺す――
男がゴクリと唾を飲み込んだのが分かった。今やつは混乱のさなかにあるだろう。――ベイジルとヴィッキーのことを、新たに登場した二人に告げ口したらどうなるか? 自分の益になるのか? 迷いに迷っているはずだ。
そう頭が回るほうにも見えないから、混乱しているうちに、ある程度は時間を稼げるだろう。そうして男がどう立ち回るかを決める頃には、クリストファーの苛烈な尋問が始まっているだろうから、告げ口どころではなくなるかもしれない。――というかこうなっては、尋問が始まり、全てが有耶無耶になることに賭けるよりほかにない。
この状況ではベイジルに選択肢はなかった。今やベイジルとヴィッキーは危険な綱渡りをしているも同然だった。ちょっとした風向きの変化で真っ逆さまだ。
最悪な展開になってしまったが、不思議とヴィッキーに対する恨みは湧き上がってこなかった。協力すると決めたのは自分だし、ここに一緒にいてやれてよかったとさえ思った。――できれば、なんとか彼女だけでも逃がしてやりたいところだが、果たしてそれが可能なのかすら、今の彼には見当もつかない。すべてが運任せで、あらがう術もなかった。
何食わぬ顔で扉を引き開けると、クリストファー殿下とノーマンが牢内に入って行く。
薄暗く湿った牢の中に、こうも優美で高貴な人間が存在しているというのが、なんだか不思議に感じられた。――クリストファーほど牢屋が似合わない人間もいないだろうと思うのに、どういうわけか、背徳的で淫靡なロケーションが彼の雰囲気にマッチしている。
蝋燭の灯りが、クリストファーの青い瞳に反射して揺れた。それは夜空を横切る流星のように、刹那的なきらめきを秘めていた。
クリストファーはベッドに横たわるゴロツキを眺めおろし、その瞳をすっと細めた。
「――楽に死ぬのと、苦しんで死ぬのと、どちらがいい?」
地獄にいざなう悪魔はこんな声音で囁くのかもしれない。芝居がかっているわけでもないのだが、なんだかひどく現実味が薄かった。軽薄ではないけれど、重くはない。
おそらくクリストファーにとっては、どうでもよいことなのだろう。――情報が得られても、得られなくても。相手が屈服しても、しなくても。生きていても、死んでいても。
「それじゃ二択になっていませんが」
ノーマンが律義に口を挟んだ。
背後に控えるベイジルは、これらのやり取りに既視感を覚えていた。――これ、さっきヴィッキーとやったよなと思う。どいつもこいつも、揃いも揃って、物騒なやつばっかりだ。道徳観念と倫理観はどこへいった。
それでベイジルはふと、ヴィッキーとクリストファーには、なんだか似ているところがあると感じたのだった。
「イフリートの卵がどこにあるか、知っているか?」
クリストファーが質問を続ける。従前と変わらぬ声だが、ベイジルはジリジリと足元を炙られるような心地になった。――何かよく分からんが、マズい。騎士として修羅場をくぐり抜けてきた彼の勘がそう訴えている。
クリストファー殿下とは過去に会話を交わしたこともあったが、それはあくまでも表面上の接触にすぎなかった。その際に『逆らってはいけない人だ』と漠然と理解はしていたのだが、ベイジルはその認識が、根本的に誤っていたことを悟る。
――違う。彼は逆らってはいけない人ではない。関わってはいけない人だ。
クリストファー殿下は危険極まりない存在だった。パーソナルスペースに迂闊に踏み入るだけでも、相応の覚悟が必要だろう。賢く生きたいのならば、この人には一切関わらないほうがいい。
ベイジルはクリストファーの斜め後ろに立っていたので、彼が上着の下から取り出したものに気づくことができなかった。というよりもベイジルは今しがた、簡易机のそばに注射器が転がっているのを目視してしまい、気もそぞろになっていたのだ。
そっと身体の位置を変え、壁際に後ずさると、注射器を机の下に踵で蹴り入れる。これで気かかりがなくなった。隠蔽に成功し、ふぅと息を吐く。
――ベッド上の男はこの間、ずっと沈黙を保っていた。
***
もしかすると男は、昨夜酒場の裏手でクリストファーと会っていることを思い出したのかもしれない。あるいはただ単に、まだ様子見をする時間が残されていると、安易に考えていたのかも。
だとしたらそれは大きな間違いだった。――男は目の前に佇む優美な『クリストファー殿下』とやらが、懐から銃を取り出し、それを真っ直ぐ自分に向けてきた時になって、やっと危険に気づいた。
「なんだ、あんた、まさか――」
男の声にかぶせるように、凄まじい破裂音が響く。
ヴィッキーはこの時、ベッド下で身体を縮こませて気配を消していた。折り曲げた足は緊張のあまり、ベッドマットの裏面を蹴り上げている。真上にゴロツキの身体があるので変な感じだが、この状態のままピクリとも動くことができない。
まさか――と狼狽したようなゴロツキの声が真上で響いたのと同時に、とてつもない轟音が鼓膜を震わせた。
じぃん……と足裏が痺れる。灼熱の弾丸がベッドマットを貫通し、ヴィッキーの左腕のすぐ横に着弾した。弾が石と石の継ぎ目にめり込む、とてつもなく嫌な音が鼓膜を痺れさせる。
弾丸が通り抜けた一条の軌跡から、灯りがスッと差し入ってくるのが見えた。その光景はただひたすら静かで、この上なく空虚だった。
瞬間的に叫び声を上げそうになったヴィッキーは、震える手で口を塞いだ。
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