第15話 王子が来た!
鍵を開けて牢内に入り込んだヴィッキーは、壁際の簡易机にカバンを置いた。蓋を開き、中から注射器を取り出す。
容器の中にたゆたうのはねっとりした黄緑色の薬液で、いかにもヤバそうな代物に見えた。
「――ねぇ、お前。ものすごく痛いのと、死ぬほど痛いのと、いっそ殺してくれと懇願したくなるほど痛いのと、どれがいい?」
「悪魔の三択だ」
ベイジルがうんざりしたように呟きを漏らした。彼は牢扉のところに佇んでいた。
一方の収監者はいまいち状況がよく分かっていない様子で、サプライズパーティに突然巻き込まれてしまった部外者みたいな顔をしていた。昨夜、ヴィッキーと酒場の裏で顔を合わせていることにも、まるで気づいていない様子である。
――けれどそれはまぁ、仕方のないことかもしれない。周囲はかなり暗かったし、そもそもヴィッキーはあの時、小汚い労働少年に扮していたのだから。
ヴィッキーが冷めた瞳でベッドを眺めおろすと、男の瞳に狡猾な光が浮かんだ。女を人質に取れば、上手く逃げられるかもしれない。彼の表情からはそんな計算が透けて見えた。
「あのさー」これにヴィッキーは機嫌を損ねた様子で口を開く。「あんた、聖女をさらって犯そうとしていたようなクズでしょう? それなのに自分は人道的な扱いをされると考えているなら、図々しいにも程があるからね」
基本的に平和主義者なので、こんなことは正直やりたくないのだが、ゴロツキを尋問すると決めた時にすでに腹は括っていた。――相手が泣こうが喚こうが、途中でやめるつもりはない。そうでなければベイジルを巻き込んでまで、危ない橋を渡った意味がないからだ。
相手がクズでよかったと心から思う。そんなに胸が痛まないで済むから。
「どうかな。お前に何ができる」
男は油断なく逃げるチャンスを窺っているようだ。いまや彼の顔に怯えの色はない。――女が近寄って来たら、すぐさま襲いかかり、注射器を奪い取ってやろう。しかし相手を油断させるために、今は我慢の時だ。静かに女の動きを観察する。
ヴィッキーのほうは気負った様子もなく、ベッドのほうに近づいて行った。そうしてあと二、三歩で手が届くというところまで来て、気が変わったというように、注射器をポイと手から離したのだった。
放物線を描いて放り出されたそれは、ベッドの端に当たって、そのまま床に落ちそうになった。男は注射器を拾おうと、反射的に左手を伸ばす。
ヴィッキーはその隙を突き、ヘビが獲物に飛びかかるような俊敏さで、ベッドに片足を乗り上げた。乗り上げる動作と合わせて、男の左腕に膝を乗せて半身を拘束してしまう。身体の上に乗られたことで、男は注射器を掴まえ損ねた。
揉み合いにより床までシーツがずり落ち、その上を滑るように注射器が転げ落ちていった。布がクッションとなったおかげで、床に落ちた容器が割れることはなかったのだが、そのまま壁際までカラカラと転がって行ってしまう。
――速い。引いた位置から一連の流れを目で追っていたベイジルは、ヴィッキーの素人離れした動きに驚きを覚えた。まるで野生の獣のようだ。
気づいた時には、ヴィッキーの細い指が男の喉にかかっていた。彼女は最小限の労力で、的確に敵の急所を押さえていた。
「――動けば、喉骨をへし折る」
男は陸に上がった魚のように暴れようとするのだが、ヴィッキーは組み敷いた相手の撃たれた傷痕を、容赦なく左手で抉ってやった。
たまらず男が叫び声を上げようとした瞬間、ヴィッキーはわずかに指の力を緩めた。これにより気道が開き、男は全ての空気を吐ききってしまう。
まるで悪魔の所業だった。相手が空気を吐き終えると、ふたたびギリギリと喉を締め上げていく。
男は完全に勝機を見失っていた。彼は体重差を生かして、思い切り暴れて体勢を反転させるべきだった。銃創をかばったことで後手に回り、苦痛を回避することにしか注意が向かわなくなっている。
――苦しい! なんとかこの喉の拘束を外さなければ! こうなると男も必死だ。ヴィッキーの手をなんとか喉から引きはがそうと、フリーの右手を持ち上げて、彼女の細腕をギリギリと締め上げる。男の節くれだった太い指が、ヴィッキーの白く細い手首に食い込んだ。
ヴィッキーはギチリと骨が軋むのを感じたが、微かに瞳を細めて、じっと男の目を見つめ続けた。
徐々に喉を締める力を強くしていく。一段階――さらにもう一段階――へし折るところまではいかず、生殺しのように締め上げていく。
男の顔が真っ赤になり、えずくように口を開けて舌を突き出す。しかし気道が塞がっているので、空気が喉から洩れ出ることはなかった。やがて彼の右腕が力なくヴィッキーの手首から離れた。
――ベイジルはヴィッキーが腕を掴まれた瞬間、反射的に前に出かけたのだが、彼女の背中から強い拒絶の意志を読み取り、なんとかその場に踏みとどまった。こういう時の彼女は、誰かに邪魔されるのを何より嫌う。
二人の我慢比べを後ろから見守っているあいだは、ベイジルにとって耐え難い時間となった。ヴィッキーは女性としてはかなり強いほうであるが、とはいえ本格的に身体を鍛えているわけでもないし、手首はあまりに華奢なつくりをしている。あの細腕に男の力が容赦なく加われば、無残にへし折られていても不思議はなかった。
冷えた地下室にいるのに、ベイジルの背に汗が噴き出してきた。――『早く終われ、早く終われ』とそればかりを願う。
しばらくして男がぐったりと身体を弛緩させ、戦意を喪失したとみるや、ヴィッキーは身を乗り出して、男の顔を真上から覗き込んだ。
「私の知りたいことを教えてくれたら、お前を逃がしてあげる。――理解できた?」
男が目線で了承の意を示す。いまや彼は従順な小犬のようである。まだヴィッキーに喉を押さえられているので、ひどく苦しそうだ。顔面が破裂寸前みたいに赤く腫れてしまっていた。
ヴィッキーがあっさりと上から退くと、男は身をよじるようにして、激しく咳き込み始めた。空咳の音がしばらくのあいだ牢内に響く。
――さて、空気もいい感じに温まったことだし、これから尋問を始めるか。ヴィッキーがノリノリで肩を回した、ちょうどその時。階段のほうから複数の足音が響いてきた。誰か知らないが、こちらに下りて来るようだ。
ヴィッキーは慌てて小卓の上に広げてあったカバンを引っ掴むと、蓋を閉じて懐に抱き込み、素早く視線を巡らせた。
――ええい、くそう、完全に袋小路だ。今から通路に飛び出たとしても、階段から下りてくる誰かと鉢合わせる形になるだろう。
看護師として入り込んだので、いっそこのまま芝居を続行するか? しかしそれはあまりに危険な賭けだった。
下りて来る誰かが、先程の牢番のようにたやすく丸め込める相手かどうかも分からない。響いてくる話し声からして、少なくとも二人はいるようだ。どちらかがヴィッキーを不審に思えば、その時点で終わりだ。
考えている時間はなかった。ヴィッキーはカバンを抱えたまま床に背をつけ、ベッドの下に滑り込んだ。半分ずり落ちていたシーツを巻き込む形になってしまったので、冷や汗をかきながら慌ててそれを外に押し出す。
その際に簡易机が視界に入ったのだが、その脚もとに注射器が転がっているのを見て取り、ヴィッキーは目を見開いた。
――げぇ、まずい! 取りに戻っている時間はなかった。もう足音はすぐそこまで迫っている。
――ところでベイジルのほうもまた、難しい選択を迫られていた。彼が決断を下すより一瞬速く、ヴィッキーがベッド下に潜り込んだので、それにより彼の取る行動はおのずと制限されることになる。
ベイジルは牢内から廊下に滑り出て、急ぎ扉を閉めた。ヴィッキーのほうを見遣ると、彼女は垂れ下がったシーツをからげてベッド下から身体を乗り出し、牢鍵を彼のほうに放って寄越した。放物線を描いて飛んできたそれを、ベイジルがなんとか柵越しにキャッチした瞬間、横手から声がかかる。
「――ベイジル・ウェイン」
鍵を受け取るのがやっとで、施錠している時間などない。柵から手を離すとそのままこちら側に開いてきてしまいそうなので、振り返りながら、後ろ手に扉を押さえて仮固定する。
そうして声をかけてきた相手と対面したベイジルは、眩暈に襲われた。
「――クリストファー殿下」
今一番会いたくない相手だった。――さてどうする。ベイジルがこの時あえて『クリストファー殿下』と呼んだのは、ベッド下のヴィッキーに、誰が来たのかを知らしめるためだった。
ヴィッキーは縮こまりながら、なるべく頭側――廊下から遠いほうに身体をずり上げた。さらに足を折りたたんで抱え、胎児のように丸くなる。横側にはシーツが垂れ下がっているし、たぶん相手からは見えない……はず。
――しかしそれにしても、参ったな! さっきベイジルは『クリストファー殿下』と言った。ヴィッキーはベッドの裏側を見上げながら、床がグルグル回っているような錯覚を覚えていた。
そういえばこのゴロツキは、第一王子殿下預かりだと言っていたっけ。第一王子殿下の前世は勇者で、ヴィッキーの因縁の相手にあたる。
全身にぶわっと鳥肌が立った。――うわぁこれ、見つかったら殺られるんじゃない? なぶり殺しにされてしまうんじゃない?
ヴィッキーは半ベソになり、小さく丸まったまま、カタカタと震え始めた。
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