第13話 君からは晴れた日の匂いがする


 ヴィッキーとベイジルが遠慮なく口喧嘩する様子を、遠く離れた場所から見つめる一人の令嬢の姿があった。――彼女の名は、エイダ・ロッソン。


 エイダは父に届けものがあり、この時ちょうど王宮を訪ねていた。彼女がもっと積極的な性分だったならば、真っ先に騎士団を訪ねて、婚約者のベイジルに面会を求めたのだろう。けれどエイダは自分がそういうことをしても許されるタイプだとは思っていなかった。


 コネを無理やり使って、素敵な婚約者をゲットした地味女――周囲がそんなふうにエイダを嘲笑っているのは承知している。彼に憧れていた女性陣の嫉妬は凄まじく、面と向かって嫌味を言われることも度々あった。


 こんなふうに注目を浴びることは、エイダにとって初めての経験だった。これまで呑気に生きてきたので、そういった足の引っ張り合いとは無縁の場所で過ごしてきたのだ。


 ――意外にもエイダは美しい顔立ちをしている。鼻筋は通り、唇は薄く形が良い。屈託なく笑うと、太陽の光が水面で弾けるように、溌剌とした輝きを放つ。癖のない滑らかな金髪。よく晴れた日の空を思わせる、優しく開放的な、水色の虹彩。


 昔はスレンダーだった彼女であるが、あることがきっかけでストレスから暴飲暴食に走り、食べた分が肉に変換して、少々ぽっちゃりしてしまった。


 気持ち的に鬱々としていたこともあり、以前のハッとするような陽気な美しさは、陰を潜めることとなった。――結果、内気でふくよかな、現在のエイダ・ロッソンが出来上がったというわけだった。


 これまで心地の良い閉じた世界で生きてきたのに、近頃は目立つ場所に引きずり出されて、道化師のような役割を演じる羽目になっている。――家と家との繋がりで、このおかしな縁談が調ってしまったせいだ。


 お相手のウェイン家は持ち前の義理堅さのせいで、だいぶ損をしているとエイダは考えていた。もっと素敵な令嬢を望めたはずなのに、当(ロッソン)家への義理を貫き通して、娘(エイダ)を貰い受けると決めてしまったのだから。


 ――というかそもそも、この年になるまでベイジルに婚約者がいなかったことが驚きだった。そしてぽっちゃり娘のエイダも婚約者が決まっていなかったので、組み合わせとしてちょうどいいとなったようだ。彼女としては頭の痛い話だった。


 エイダの計画では、もっと地味な感じの男性と結婚するはずだった。具体的に誰かを思い描いていたわけでもなかったが、相手の気性が穏やかであるなら、二回りくらい上でも許容範囲だし、たとえ後妻でも構わないとすら考えていたのだ。――それがなんと、人気者のベイジル・ウェインとくっつけられてしまうとは!


 婚約が決まったと聞かされて、とにかく気が進まなかった。――ところが、である。ベイジルに初めて会った時、エイダは彼の穏やかな物腰に驚かされてしまったのだ。


 特に面白いとも思えないエイダの話を、彼は辛抱強く聞いてくれたし、瞳がとても優しげで、『こんなに紳士的な男性は、この世に二人といないのではないか』と思ったほどだ。


 二度目の対面は、エイダが王宮の図書館を訪ねていた時のこと。彼に会いに行く勇気はなかったので、騎士団には寄らず、図書館で用を済ませてそのまま帰るつもりだった。書棚のあいだに立ったまま、開いた本に目を通して没頭していると、不意に声をかけられた。


「――お久しぶりです、ミス・ロッソン」


 おかしな話だが、声を聞いただけですぐにベイジルだと分かった。


 顔を上げて横を向くと、視線が絡む。


「ここにいるって聞いたから」


 彼は気負わぬ調子でそんなふうに告げて、こちらに近寄って来た。騎士服姿の彼はパリッと決まっていて、とてもハンサムで素敵だった。


「何を読んでいるの?」


 頓着なく覗き込んで来るので、エイダは慌ててしまい、


「あの、歴史書です」


 と返すのがやっとだった。本当は歴史書ではないのだが、言いづらくて、つい誤魔化してしまった。――だけど、カテゴリーを大きく分けたら、これも『歴史書』に入るわよね? そう自分に言い訳する。


 不意に彼の手が伸びて来て、その指が本に触れた。――あ、と思っているうちに、ひょいと本の上部を摘ままれ、背表紙を確認されてしまう。本を介しての接触であるのに、なんだかそれが艶めいたものに感じられて、心臓が高鳴った。


「――これは」


 意表を突かれたように、ベイジルが声を上げる。


 実はエイダが読んでいたのは、兵法の本だった。彼にとっても馴染みのある分野だから、大層驚いたようだ。


 エイダはすっかり気まずくなってしまい、頬を赤らめた。


「うちに嫁ぐから、こういったものを勉強していたの?」


 さらに尋ねてくるので、エイダは眉尻を下げ、なんと答えたものか考え込んだ。――はい、と答えておいたほうが、好感度は上がるかもしれない。しかし潔癖なところのあるエイダが嘘をつけるはずもなく、素直にありのまま答えることにしたのだった。


「いえ、あの、これはただの趣味なのです。昔からこういうことに、興味があって」


「ずいぶん血生臭い趣味だな」


 彼が漏らした小さな呟き。しかしそこに嫌悪の色がないことを悟り、エイダはほっとした。


 彼女はとある事情から、この国に伝わる兵法という兵法を学び倒してきたのだが、それは知的好奇心を満たすためではなく、もっとずっと根源的な衝動がからんでいた。


 ふと気づけば、ベイジルが口元に淡い笑みを浮かべて、こちらを覗き込んでいる。


「君は優しそうな人だから、お菓子作りとか刺繍とか、そういう穏やかな趣味にはまっているのかと思っていた」


「ええと、お菓子は――食べるのは好きです」


 お菓子作りが好きそうだなんて、ほかの人に言われたなら、体型を当てこすった嫌味だと解釈していたかもしれない。けれど彼の物腰は実直そのもので、そんなふうに邪推する隙すらなかった。


 エイダは自分でも説明できないような、愉快な気持ちが込み上げてきて、照れ隠してもあったのか、何年ぶりかに全開の笑みを浮かべていた。


 彼女は唇の形が理想的で、笑うと弓形に両方の口角がきゅっと上がる。そこから白く形の良い歯がほどよいバランスで覗くので、お日様が似合うような、溌剌とした印象を残すのだった。


 それを目の当たりにしたベイジルは一瞬驚いた顔つきになったのだが、やがて一拍置き、瞳を優しく細めて囁きを落とした。


「……君からは晴れた日の匂いがする」


「え。そうですか?」


 さっきまで、王宮の緑深い庭園を散歩していたせいだろうか。


 それにしても、寡黙と聞いていたベイジルが、こうも話しやすいタイプであるとは驚いた。彼には妹もいないし、女性に対しては、不器用で武骨な態度を取るのかと思っていたのだ。


 それが実際に会話してみると、スマートで物柔らかだ。とはいえ彼の態度は軟派というのとも違ったから、遊び慣れているから上手くできているというわけでもないのだろう。ただ他者に対する態度がおおらかなだけで。


 ――なんだか心の中がポカポカしてきた。彼からすればこれらの気遣いはただの善意であり、強制的に繋がった縁でも大切にしてくれているだけなのだろう。それでもエイダは幸運だし幸せだと思った。実力で勝ち取ったものではなく、ただ親から与えられたものを甘受しただけだけれど、それでもいいと思った。


 そんなふうに努力せずに良い縁に恵まれたから、バチが当たったのだろうか。


 ――王宮の建物の陰で話す、若い男女の姿。女性はおかしな眼鏡をかけているが、そうしていたって、造形の美しさは遠目にも分かる。同性同士だと、意外と余計な装飾には惑わされないものだ。メイド服という個性のない服を身に纏っていても、彼女は群を抜いて素晴らしいプロポーションをしていた。胸は理想的な形に熟れて、しかし大きすぎるでもなく、見惚れてしまうほどラインが綺麗だ。くびれた細い腰に、高い位置にある腰。


 とにかく彼女は抜群に綺麗で、彼とはとても親しそうに見えた。――エイダは二人に気を取られていたので、他人がすぐそばまで接近していることに、まるで気づけなかった。


「あら、ロッソンさんじゃございません?」


 意地の悪いキンキン声が耳に入り、一気に現実に引き戻される。まるで石でも飲まされたみたいに、一気に胃が重たくなった。


 顔を強張らせて振り返ると、美しく着飾った令嬢が三名、こちらを取り囲むように佇んでいる。最先端の流行を追ったドレスに、流行りのメイク。加えて男性受けしそうな、派手な目鼻立ち。彼女たちが纏う攻撃的で勝ち誇った空気は、エイダがもっとも苦手とするものだった。


「……ごきげんよう」


「ねぇ、あちらにいらっしゃるのは、ベイジル様じゃなくて? 婚約者なのに、お話にならなくてもよろしいの?」


 一人が小馬鹿にしたような声で問えば、


「あらぁ、でもぉ、あちらはお取込み中みたいですわ。スタイルの良いメイドと話し込んでいますもの」


 別の一人がすぐに合いの手を入れる。


「結婚と恋愛は別、と割り切る殿方も多いですものね。ベイジル様はそういう浮ついたタイプには見えませんでしたけれど」


「あら、彼を責めるのはお可哀想ですわ! 家の事情で、望まぬ結婚が決まったのですもの! 普通は政略結婚といっても、少しは当人の意志も尊重されますでしょう? だけど彼の家は義理堅いことで有名ですから、本人の好みは無視して、家と家の繋がりで全て決められてしまったんですわ」


「エイダさんは本当に、お父様に感謝しなくてはならないわね? お父様のおかげで彼が手に入ったのですから」


 立て板に水とばかりに、三人の令嬢が隙間もなく捲し立てるので、なんだか目が回りそうだった。あらかじめ台本があって、彼女らはこっそり集まって小半時ほど台詞回しを特訓したのではないかと思うほど、ピタリと息が合っている。


「手に入った……のかしら?」


 あまりに混乱していたので、つい本音が口をついて出てしまった。クスクスとさざ波のように広がった笑い声で、エイダはハッと我に返った。


 彼女は困ったような笑みを浮かべて、


「わたくし、父に呼ばれておりますので。これで失礼します」


 なんとかそう告げるのがやっとで、逃げるようにその場を去る。心臓が早鐘を打っている。顔色は紙のように白くなっていた。


 意地悪な令嬢たちの視線から逃れるように、エイダは目の前の回廊に飛び込んだ。――柱の隙間から、遠くに見えるベイジルと女性の姿を目に焼きつける。


 この時、エイダは彼のほうではなく、彼女のほうを見ていた。エイダの形の良い唇から、震える声が押し出される。


「――あの方は、まさか」


 エイダの空色の瞳から、涙が一筋零れ落ちた。


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