第7話 王子ってまだ婚約者いないの?


 ヴィッキーは夢を見ていた。――光の乱反射に、ノイズ。


 気が遠くなるような、凄まじい圧力が全身にかかっている。収束に向かっていくのが感覚では分かるのに、状況を上手くコントロールできそうにない。


 青と赤の光が正面からぶつかる。反発すると同時に、それらはねじれて溶け合った。


 黒い羽が舞う。――音もなく全てが弾け――飽和してゼロに戻った。


 視界に赤が混ざる。浸食される。


 ――ふと気づけば、目の前に男が倒れていた。


 ここはどこ? ヴィッキーはいつの間にか、薄汚い路地裏に立ち尽くしていた。酒の苦い後味に、煙草の微かな香り。倒れ伏した男の身体の下から、赤い血が石畳の上に広がっていく。


 ――ああ、あれはそう。昨夜、クリスが撃ち殺した男だ。




***




 飛び起きた。


 ふかふかのかけ布団を跳ね上げたヴィッキーは、肩で息を吐く。視線を巡らせれば、すでに朝になっていた。冷や汗をかいていることに気づいて、顔を顰めながら手の甲で額をこする。


「くそう、あの馬鹿男のせいで」


 つい恨み言も零れるというものだった。――昨夜酒場で相席し、ついでとばかりにヴィッキーを猟奇事件に巻き込んだ、クリス。あの迷惑男!


 最悪の朝だと思った。もっとこう、十八の女の子が迎えるに相応しい、清々しい朝ってものがあると思うのよね。――たとえばイカサマ賭博で大儲けする景気の良い夢を見てさ。ニヤニヤしながら、紅茶の香りで目覚めるわけ。


 下唇を突き出して『なんてしみったれた朝なんだ』と嘆いていると、侍女のペギーが突然視界に入って来た。ペギーの面長な顔が目の前に迫ってきたので、ヴィッキーは華奢な肩をびくりと揺らした。


「――お嬢様。また下町に行きましたね?」


 ペギーお得意の半目の無表情は、ドアップで見るととても怖い。


 ――『行ってないけど?』と嘘をつこうとしたら、ベッドの上にバサリとゴシップ誌を放り出された。これは昨夜、安酒場で読んでいたやつじゃないか。


 読みさしの雑誌はサスペンダーの隙間に挟み込んでから、クリスとノーマンを追いかけた。そのあとは例のゴタゴタに巻き込まれ、そのまま持ち帰ってしまったのだ。窓から自室に舞い戻り、寝間着に着替える時に、チェストの上に放り出した。――それを朝、ペギーに発見された、と。


 ヴィッキーの瞳が泳ぐ。


「そ、それは、ここに配達してもらったやつ。下町に遊びに行ったりなんて、してないわ」


 たとえバレバレだとしても、嘘をつき通すのが大人の礼儀ってものである。不倫ばっかりしている叔父上が、確かそんなことを言っていた。


「紙面から、煙草と、酒と、揚げものの匂いがします。つまり安酒場の匂いです」


 ――ペギーは前世犬か何かなの? 前世犬なら、もう言い逃れできないな。


 ヴィッキーはここで方向転換することに決めた。つまりは開き直りである。


「別にいいでしょ」


「よくはございません。治安の悪い場所に一人で行って、何かあったらどうされるのです」


「喧嘩なら、そこそこ慣れてる。一対一なら、遅れは取らないわ」


 騎士団長子息を子分に従えて鍛えてきたから、ヴィッキーはそこそこ強いのだ。相手が銃を持っていなければ、なんとかなるはず。


「お嬢様」ペギーがきゅっと眉を顰めた。「お転婆は卒業して、そろそろ婚活でも始められたら?」


 ペギーのすごいところは、眉を顰めても眉しか動かないところだ。子供時代に、表情筋の大部分を切り取る特殊な手術でもしたのか? といつも感心する。


「結婚はまだしなくていいって、パパが言ったもん」


 ヴィッキーは上目遣いになり、小声で言い返した。


 ――そう。不思議なことに、コンスタム公爵は長女のヴィッキーにとてもに甘い。がり勉タイプの妹リリアンは、それが腹に据えかねるらしく、父がえこひいきしていると、何かにつけてきゃんきゃん噛みついてくるくらいだ。


 これに関してヴィッキーは『私が母似の美女だから、父は私に甘いのね』と考えていた。父は外に対してはかなり横柄な態度を取るのに、母にはどうしても逆らえないという、情けない男なのだ。


「ですけどお嬢様は、男嫌いってわけではないでしょう? どちらかといえば肉食系じゃないですか」


「人を淫乱みたいに言わないで、失礼ね」


 生まれてこのかた、男を口説いたことは一度もない。それなのに何をもって肉食系だというのか。――まぁ、野菜よりは肉が好きだけどね。


「淫乱ではないですが、お嬢様は気質がイケイケなので」


「それは否定しない」


「男性恐怖症というわけでもないのだし、お試しで、誰かとおつき合いしてみたらいいかと。――騎士団長子息のベイジル・ウェインは幼馴染でしょう? 彼なんていかがです?」


 ペギーが適当に斡旋してくるもので、ヴィッキーは鼻で笑ってやった。


「いや、いや、ない、ない。やつは子分だから」


「子分から恋人になってもいいのでは?」


「絶対ない。私が幼少期にいじめすぎたせいか、すっかりむっつりになっちゃって」


「寡黙とおっしゃってください。――彼、評判は良いようですよ」


 それは知っている。やつはむっつりという弱点を、いい感じに男らしさに変換し、モテ街道を突き進んでいるという、とんでもない詐欺師だ。


 ヴィッキーは悪戯に瞳を輝かせた。


「沢山のお嬢さん方が、ベイジルに夢中になったとしても、やつは売約済なんだけどね」


「そうなのですか?」


「このたびめでたく婚約が決まったらしいわ。確か――相手は、エイダ・ロッソンっていう子」


 ヴィッキーが思い出しながら語ると、


「ああ、ロッソン家のぽっちゃり令嬢」


 ペギーが瞬きを一つしてから、『あの子ですか』と合点が行った様子で頷く。


「けれどそれって完全に政略結婚ですよね? まだチャンスがあると思っているご令嬢も多いのでは?」


 これにヴィッキーは声を立てて笑ってしまった。


「いや、馬鹿なの? 政略結婚じゃ、チャンスなんてないじゃない。恋愛結婚より縛りがキツイってば。――もしかしてベイジル狙いの女って、愛人志望ってこと? 志が低いわねぇ」


 他人を馬鹿だと笑うお嬢様を見て、ペギーがさらに半目になる。


「では、お嬢様は志が高いのですか? 初耳です。そうですわね、確かに――公爵令嬢なら、上を狙えますものね。王子殿下の婚約者に納まるという手もあります」


「え」この成り行きに、ヴィッキーは目を真ん丸くした。「王子ってまだ婚約者いないの? 普通なら選び放題のはずじゃない。おかしくない?」


「色々事情がおありのようですわ」


 情通の侍女――あなどれない。というより、ヴィッキーがものを知らなすぎるだけかもしれなかったが。


「どんな事情?」


「第一王子は陛下に嫌われているらしいです」


「なぜかしら?」


「さぁ。……馬が合わないとか? 陛下は第二王子を溺愛しているようですね」


 わぁお、お家騒動の予感。でもさ、親子でも性格が合う合わないってあるよね。人間同士だもの。あるいは、そう――


「第二王子のほうが優秀であるとか?」


「お嬢様、本当に何も知らないのですねぇ」ため息を吐くペギー。「第二王子はどうしようもないお馬鹿さん、って評判ですわよ」


 誰かに聞かれたら、即牢屋にぶち込まれそうな発言を平気でするペギー。


「じゃあ顔が良いとか? 人間、何か取り柄があるでしょう?」


「それが第二王子は顔も普通なのです。まぁブ男というわけでもないし、よくよく見ると愛嬌のある顔はしていますが。――でもなんていうか、下町のガラの悪いティーンエイジャーって感じで、気品も何もない方ですわ。自堕落ですし」


「第一王子のほうは?」


「黒髪に青い瞳で、それはそれは妖艶で美しい容姿をしていらっしゃるとか。頭もよろしいようですが、不思議なほど、その人となりは下々には伝わってきませんわね。なんだか闇が深そうです」


 確かにそれだけ目立つ存在でありながら、人柄がよく分からないというのは不思議な話だ。情報が極端に抑えられているのか? もしくはよほど用心深い人物なのか。どちらにせよ、闇が深そうという意見には同意する。


 とにかく第一王子はその複雑な生い立ちゆえ、婚約者が決まっていないのだろうか。父王――国一番の権力者に疎まれていては、結婚どころじゃなさそうよね。


「……黒髪に青い瞳ねぇ」


 ふと、酒場で出会ったあの男の顔が頭に浮かんだ。やつも顔だけは麗しかったな。ヴィッキーは思わず遠い目になる。


 そのぶんバランス取るみたいに、中身はヤバいやつだったけれどね。――ああいう構成バランスの悪い人間を見ると、神様って案外公平なところもあるんだなぁと思うよね。最初に顔で足し過ぎたから、性格から大きく引いたわけだ。


 ――第一王子がいかに美形とて、クリスほどじゃないだろうな。あれより美形にしろって言われたら、多分神様だって、もうどうしたらいいのか分からなくなるだろうし。


「しかし殿下も十八ですから、そろそろお相手を決める頃ですわ。お嬢様はフリーですから、無関係ではいられませんよ」


 ペギーの言葉を聞いて、ヴィッキーは思わず片眉を顰めていた。


「――なんかよく分からないけれど、私、王宮方面は鬼門な気がするの」


「どういう意味ですか?」


「行きたくないし、行ってはいけない気がする。私はこの手の勘を外したことがない」


 しかし寝不足だと頼みの勘も鈍ってくるものだ。――考えてみると、昨晩は酒場になんて行くんじゃなかった。悪夢のせいで、近頃はツキがどんどん逃げて行っているような気がする。悪いほうへ悪いほうへと進んで行っているような。


「公爵家の令嬢が一生引きこもっているわけにはいきませんよ。いつかはご結婚されなくては」


「分かってるわよ。でも」


 夢見の悪さと、胸騒ぎ。そのことで気が散って仕方ない。知っておかなければならないことがあるような気がするのに、自分だけが間抜けで、何も見えていないような嫌な感じだった。


 ヴィッキーはもどかしさに瞳を彷徨わせ、ふとベッドの上に放り出してあったゴシップ誌に注意を引かれた。目についたのは裏面の三行広告で、個人が広告を打っている部分だ。


『――夢占い致します――あなたのルーツ、前世を知りたくありませんか?』


 前世というその響きに、妙に心引かれるものがあった。理由はよく分からない。とにかく気になる。


 ヴィッキーは前屈みになり、この広告を熱心に読み始めた。


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