第4話 どうかしている!


 ――イフリートの卵が孵化すると、人が大勢死ぬ。確かにそうなのかもしれない。


 殻が割れたら、中からヒヨコみたいに可愛いミニイフリートが出てくるわけもない。殻が封印のような役割を果たしているのだろうから、それが取り払われた瞬間、災厄が弾ける。そんな気がした。その時に人類が被る被害は、どれほどのものだろう。


 ヴィッキーは頬杖を突きながら、


「――ノロマめ」


 小声で悪態を吐いてしまった。


 彼女はこの時、幼馴染である騎士団長子息の顔を思い浮かべていた。ベイジル・ウェイン――彼はヴィッキーの『子分』である。少なくともヴィッキーはそういう認識でいた。彼に訊いてみれば、また別の言い分があるかもしれないが。


 ――とにかくベイジルが自らの職務をまっとうし、早急に武器商人からイフリートの卵を取り戻すことができれば、このゴタゴタもすぐに片づくはずである。しかし現状、騎士団は武器商人にいいようにやられている。


 ヴィッキーが難しい顔で考え込んでいると、相席のクリスは何かが気になった様子で、カウンターのほうを眺めていた。そこには柄の悪い男が二人いて、互いに顔を寄せ合い、コソコソと話し込んでいる。男たちはチラチラと横に目をやり、あるカップルの様子を窺っているようだ。


 柄の悪い男たちが見張っているのは、若い男女の組み合わせで、カウンター席の端っこで、静かに酒を酌み交わしている。


 ゴロツキどもが唐突に腰を上げ、店の裏口から外へ出て行った。


 クリスは御供のノーマンにアイコンタクトをしてから、腰を上げた。


「そろそろ帰るよ。ここはおごらせてくれ」


 そう告げて、大枚をテーブルに置く。ヴィッキーは置かれた札の多さに、思わず目を輝かせた。


「おおおおおおお……!」


 こいつは儲けた。明らかに三人で飲み食いした分より多い。金に気を取られているうちに、クリスとノーマンは目の前から消えていた。


 まるで精霊みたいだと、ヴィッキーは唖然とする。あっという間にいなくなってしまったぞ。もしかして化かされたか?


 ヴィッキーは飲みさしのビールを眺めながら、ふぅと息を吐いた。いやぁ、とにかく儲けたな。めちゃくちゃツイている。……うん? ツイている?


 そのワードが引き金になり、ヴィッキーはパチリと瞬きした。――畜生、幸運のマッチをパクられた!


 大慌てで席を立ったヴィッキーは、愛嬌を振りまくグラマーなウェイトレスを捕まえて代金を払うと、慌てて裏口へと向かった。二人が出て行くところは見ていなかったのだが、札を置いたあと、彼らの視線が裏口のほうに向いていたのは、なんとなく確認していたのだ。


 古ぼけた緑の裏木戸を開けると、外には霧が立ち込めていた。――扉を出てすぐの場所に、クリスとノーマンの姿がある。


 探す手間が省けたと安堵しながら、ヴィッキーはノーマンに向かって早速悪態をついた。


「おーい、マッチ返せよ、ノーマン!」


 ノーマンはチラリとこちらを一瞥したものの、すぐに視線を正面に戻してしまう。彼の顔は硬く強張っているようだった。


 彼らは誰かと話をしている途中だったらしい。マッチさえ返してくれれば、こちらはすぐに立ち去る所存なのだが、話が込み入っているようなので、少し待つことにする。ヴィッキーは黙ってクリスの隣に並んだ。


 クリスは天気の話でもするみたいに、さしたる緊張感もなく、暗がりに佇んでいる男たちにこんな言葉を投げつけた。


「――女を犯す相談をしていたな」


 このあまりに不穏な物言いに、ヴィッキーはぎょっとしてクリスを見遣った。クリスは外套のポケットに手を突っ込んだまま、ゆったりとした佇まいを崩していない。やはりこの男は、どこもかしこもしなやかだ。


 彼の優美な横顔を見上げていると、ヴィッキーは綱渡りを強いられているようなおかしな気持ちになってきた。酒場で仲良く話していた時とは、何かが違う。そばにいるだけで、産毛が逆立つような、変な感じがする。


 今のクリスは、なんとも逆らいがたい独特の圧を放っていた。それはある種の強制力のようなもの。


 ――彼はなんの駆け引きをしているのだろう? ヴィッキーは訝しく感じたものの、深入りするつもりは毛頭なかった。面倒事に巻き込まれるのは御免である。


 だって対峙しているゴロツキどもは、明らかにまともではなかったからだ。丸太のような太い腕をしているし、荒事をちっとも躊躇わない者特有の、粗野な空気を漂わせている。


 うすのろな間抜けという感じもしない。こいつらは少々知恵が回りそうである。どう考えても関わりにならないほうがいい。


 ゴロツキが不機嫌そうに、


「いいから立ち去れ」


 とクリスを一喝した。


 ――おお、なんてこった! 目の前のゴロツキたちが見せた、この思いがけぬ寛容さに、ヴィッキーは菓子折りの一つもやりたい気分になった。問答無用にボコボコにされるものと警戒していたのに、黙って立ち去りさえすれば、これ以上は構わないでくれるみたいじゃないか。


 ――ていうかノーマン君よ。早くマッチを返してくれないか。こんな厄介事に巻き込まれたのは、すべて君のせいだぞ。君がマッチをパクるから、こっちは追いかける破目になったんだ。ソーセージのグリルと鳥の揚げものを奢って貰ったくらいじゃ、まったくわりに合わない。


「なぁ、なぁ」


 ヴィッキーはクリスの上着の袖をグイグイ引っ張った。そりゃあもう遠慮なく引っ張った。


「せっかくこの御方達が、こう言ってくれているわけだから、もう行こう? お言葉に甘えようぜ」


 甘えようぜー! 強めの念も送ってやった。届け、テレパシー!


 ところがクリスは緊張感の欠如した優美な目つきでヴィッキーを振り返り、口の端に意地悪な笑みを乗せたのである。


「――なぜ? 僕はまだここにいたい。この薄汚れた路地裏が、段々と気に入ってきたところだ」


「おい、ボケたこと言ってんじゃねぇ! もう行くぞ、クリス!」


 巻き込まれるの、ホント嫌なんですけど! ――ていうかもう、マッチを諦めようかな? 命あっての物種(ものだね)だ。――そうだな、帰ろう。自分だけでも、とっとと帰ろう。


 くるりと身体の向きを変えようとしたところで、ゴロツキが銃を取り出し、照準をこちらに合わせたのが横目で確認できた。


 ――えー、もう、やだー、状況が一段階マズイほうに進んだじゃん! だから言わんこっちゃない! さっきこいつらが『立ち去れ』って言った時に、すぐ従っていればよかったんだよ。このチンピラども、こっちがしつこく居座るものだから、ご機嫌損ねちゃったじゃん。クリスのせいじゃん。


 冷や汗が背中を伝うのを感じながら、ヴィッキーはふたたび振り返って、クリスにしがみついた。こうなってはもう恥も外聞もない。


「おい聞け、とっとと帰るぞ、このヤロー!」


 するとやつは今日一番の笑顔で答えやがった。


「僕は他人から命令されるのが嫌いだ」


 こいつイカレてんのか?


「状況をよく見ろ、あほんだら! この場はとっとと逃げてさぁ、あとで憲兵にチクればいいだろう? 賢く生きようぜ!」


 クリスの向こう側に佇むノーマンが、『あ、馬鹿』と呟きを漏らす。――ヴィッキーのお間抜け発言は、味方サイドからも『馬鹿』と評されるくらいだったので、当然あちらサイドからは、もっと過激な反応が返ってきた。


「てめぇら、痛い目に遭わないと理解できねぇようだな」


 定番の『これもう、あとがないやつ』的な脅しをかけられ、ヴィッキーは本格的に焦りを覚えた。なんだかチンピラが持っている銃が、若干大きくなったような気さえする。


 ――いや、それは目の錯覚だ。落ち着け。ヴィッキーは『大丈夫だ』と自分に言い聞かせてみたのだけれど、一拍置いて、髪をかきむしりたくなった。


 ――いやいやいや、全然大丈夫じゃない! 落ち着いてなんかいられるか! この短時間で、危険度は各段に跳ね上がっている。


 ヴィッキーは腕に多少の心得があったので、一対一ならば、狼藉者相手でも遅れを取らないかもしれなかった。けれどそれは、相手が銃を持っていないケースに限るのである。


 ヴィッキーには一つだけ固く心に決めていることがあった。――それは何があっても、銃を持っている相手にだけは、逆らってはいけないということだ。


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