第3話 黒い羽の夢
「でもさぁ」
魚のフライをビールで胃に流し込んでから、ヴィッキーが続ける。
「聖女がおかしな託宣を下さなければ、教会の神父さんはまだ生きていたのかもしれないよね」
彼女はまるで台風の目だった。聖女の発言一つで、周囲は右往左往し、新たな歴史の流れが作られる。
聖女は『デズモンドにあるイフリートの卵が、これから起こる歴史的な事件のキーになる』と告げた。強い影響力を持つ聖女がそう言ったことで、皆に忘れ去られていたデズモンドの卵が、あっという間に注目の的になった。聖女が卵に特別な価値を与えたのだ。悪い人間は当然これに目をつける。手に入れることができれば、高く売り飛ばせるからだ。
――武器商人との戦闘は苛烈を極めたらしい。卵の警護にあたっていた十名以上の騎士団員は、全滅。一般人である教会の神父も巻き添えで亡くなっている。
ヴィッキーは聖女に対して、特に悪感情は抱いていない。だから先の台詞は、単に素朴な疑問を口にしただけだった。――しかし聖女のファンが聞いたら、どう思うだろう? 面白くないかもしれない。
クリスがこんなふうに答えた。
「ものは考えようだ。――聖女が託宣を下さなければ、イフリートの卵は人知れず孵化していたかもしれない。誰に気づかれることもなく」
「そうなると、まずいの?」
「イフリートは闇の精霊の中でも、特に強力で邪悪だと聞く。市街であれが孵化していたら、それにより引き起こされた災厄は、想像を絶するものになっていただろう」
ふぅん、なるほど。確かにそのとおりかも。ただ、それはそれとして……ヴィッキーはからかうようにクリスを見つめる。
「あんたもしかして、聖女のファンなの? まぁ、分かるよ。可愛い子だものねぇ。人を惹きつけて離さない、独特の雰囲気があるよね」
これに対しクリスは、謎めいた瞳を微かに細め、ただ静かに微笑むばかりだった。――否定も、肯定もしない。慌てもしないし、照れもしない。からかわれて、腹を立てるでもなかった。
なんとも掴みどころのないやつだなぁ。ヴィッキーは感心してしまった。
酒が入った席で、とびきりの美少女について話しているのに、そこから猥談の一つにも発展しないだなんてね。これじゃあさ、血肉の通った男という感じがしないよ。『ぜひ一度、お相手願いたいものだ』くらいのことを言ってくれたほうが、若者らしいとホッとする。
クリスがこんなだから、ヴィッキーのほうも調子が狂ったのだろうか。
「実は私さ」
うっかり素で『私』と言ってしまい、眉を顰めて慌てて言い直す。
「じゃなくて、俺さ――最近、寝覚めが悪いんだよね。変な夢ばかり見る。黒い羽と、赤と青の光が、視界いっぱいに広がってさ。そうすると全身が総毛立つような、おっかない気持ちになるんだ。――ああ、俺も聖女様と知り合いだったらなぁ。夢占いでもしてもらうのに」
天下の聖女様に夢占いをさせようとする、この無礼極まりない発言は、もしも狂信的な人間に聞かれたなら、背中を刺されてもおかしくなかった。
けれどヴィッキーとしては、夢見の悪さは結構深刻な悩みだったのだ。毎晩こんな禍々しい夢ばかり見ていると、熟睡できないから、身体の疲れも取れない。
「――黒い羽ねぇ」
クリスが椅子の背に上半身を預け、リラックスした調子で続ける。
「それって、罪の意識の表れなんじゃないか? 最近、カラスでも殺したとか」
この男、お綺麗な顔で、ずいぶんどぎついことを言う。――カラス殺しだと? 誰がだ。いい加減にしろ。冤罪事件勃発である。
大体な、今は食事中だぞ。ジューシーな鳥の揚げものを前にして、いけしゃあしゃあと鳥殺しの疑いをかけてくるだなんて、お前は親御さんから一体どういう教育を受けてきたんだ。
「嫌なことを言うなよ。食いものがマズくなるだろ」
クリスにピシャリと文句を言ってから、ヴィッキーは鳥のフライにフォークを突き刺し、躊躇いなく口に放り込んだ。
切り分けずに丸ごといったせいで、ドングリを頬袋にパンパンに詰め込んだリスみたいに、ほっぺたが膨れてしまっている。こんなふうに意地汚く頬張った鳥のフライは、強烈な刺激を彼女にもたらした。――ジューシーで黒胡椒がきいていて激ウマなのだが、とにかく激熱い。
はふ、と熱を逃すように口を開け、顔をしかめるヴィッキーのさまは、自らの尻尾を追いかけ回した挙句、はしゃいで柵に頭から激突してしまった犬みたいに間抜けだった。
そしてクリスの御供のノーマンは、殺カラスの話題が出た直後に、鳥料理を平気で頬張ったヴィッキーの蛮行を、信じがたい心地で眺めていた。ノーマンはすっかり食欲をなくしてしまい、皿に盛られた鳥のフライを、すっと指で押して遠ざけた。そうして懐から煙草を取り出し、火を点けようとして、その段になり『ああ』と面倒そうに息を吐く。
「――マッチを持っていないか?」
尋ねられたヴィッキーは、内ポケットから黄色のマッチ箱を取り出して、机の上を滑らせてノーマンにパスしてやった。この頃には、頬袋を膨らませていたフライも、口の中からすっかり消えていた。
「貸してあげるけど、あとでちゃんと返してくれよな」
釘を刺された形のノーマンは、ふたたび呆れたような顔つきになった。
「マッチ一箱で、ずいぶんケチくさい」
「馬鹿言うな。それは幸運のマッチ箱なの。それを持っていたおかげで、賭博で大儲けしたことがある。ツキがなくなるまでは、それを持ち歩くつもりだよ」
ヴィッキーは姿勢悪く卓上に肘をつき、瞳をきらりと輝かせて、口の端を小粋に持ち上げてみせた。――小汚く生意気な少年の風体で、こまっしゃくれて大層ふてぶてしい態度なのに、奇妙な魅力があった。まるで冒険小説に出てくる主人公のような、活力に満ちた表情。ノーマンは毒気を抜かれてしまった。
「……幸運のマッチ」
ノーマンは煙草に火を点けたあと、興味深げにマッチ箱を見おろしている。
ヴィッキーはクリスに話しかけることにした。ノーマンは煙草に夢中なので、放っておこう。
話をするには、クリスはちょうどいい相手だった。受け答えが落ち着いているし、声もいい。聞いていると、なんとなく心地が良いのだ。
「ねぇ、イフリートの卵が孵化したら、どうなってしまうんだろう」
それについてはヴィッキーもずっと考えているのだが、ゴシップ誌には明確な答えが載っていないのだ。――いや、載っていないというよりも、あれこれ載りすぎているというほうが正しいのか。『町が三ブロック吹き飛ぶ』だとか『河川が紅に染まり、煮えたぎる』だとか、『世界が鳥人間だらけになる』だとか、『人類の額に第三の目が開く』だとか。どうにも眉唾ものの、胡散臭いことばかりが語られている。
実際のところ、どうなのだろう。
「さぁね」
クリスは微かに小首を傾げてから、物思う様子で視線を彷徨わせた。やがて彼は美しい青の瞳を対面のヴィッキーに据え、不吉極まりない呟きを漏らした。
「――人が大勢死ぬんじゃないか」
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